31.緩和する





「よっと」
小さな声と共に横抱きにされた。
その様子が至極普通の、いつもの桐野でさつきはホッとする。

思考が同じ所を堂々巡りするばかりで自分でも嫌になる。本当にうんざりするのだ。
半分くらいは前に話し合った事と被っている。きっとまたかと嫌な思いだって持っただろうに、それでも桐野は否定も肯定もせずただ聞いてくれた。
それがどれだけ心の負担を軽くするか。
声にした思いを聞いてくれるだけで、こんなに気持ちが楽になるなんて思わなかった。
聞いてくれた上で拒否されない事に、こんなに安心するなんて思わなかった。
それに桐野がさつきに負担をかけているなんてそんな風に思っていた事にも、全然気付かなかった。

(やっぱり私にこの人はもったいなさ過ぎる)
「こら泣き虫。また変な事考えちょるじゃろう」

顔を上げれば懐紙で目元を覆われる。多分酷い顔だ。

「色んなもんを詰め過ぎたら袋は破れる。それと同じじゃ。汝はあちこちに気ば回して考え過ぎて、貯め込み過ぎる」
現に今破れてしまった。
暫くは何も考えなくていい。もっと気楽に過ごせばいい。
前までさつきの心に掛っていた酷い圧迫は取り除かれはしたが、それで一気に何もかもが改善する訳ではないのだ。
負から正への「環境の変化が大きくて心がまだついて行けていない」、それは先程さつき本人が桐野に伝えた事でもある。
その通りで、変化――つまり今はこれまで大きすぎたひずみを少しずつ是正している最中で、今までさつきにばかり強いていた負担を、今は正常に均している所なのだ。
それにそもそもさつきを気にかけるなんて事は、一緒にいるなら桐野には当然の事だ。
さつきが桐野を気にかけるのと同様に。
だからしんどいとも思わないし、面倒だとも思わない。
多少ややこしくてもそんなもの、今まで桐野がさつきにしてきた事を思い返すと別段苦にもならない。寧ろさつきはもっと我儘でもいいくらいだ。
桐野はそう思っている。

「…別に…酷い事されたから償って欲しいとか、そんな事思ってない」
そんなこと言いたい訳じゃないのに憎まれ口が零れた。

「あー…言い方が悪かった。償いではのうて今までしてやれんかった事を俺が汝にしたいだけじゃ」
こうして出掛けたりとか、何かを贈ったりだとか。
「………」

驚いてぽかんと見上げれば桐野が苦笑する。

(そ、そんなこと言うような人だったっけ…というかこの人もそういう事思うんだ…)
それに言わせているのが自分だというのが信じられない。

「私よりもっと大事な事あるでしょ。そっちに時間割いた方が良いんじゃないですか」
桐野だって忙しいのだろうし。

嫌味でも何でもなく純粋に思ったことを口にした。
しかしそう言った途端、桐野の眉がピクリと上がる。

「汝ひとり位でどうにもならん様になる程、甲斐性ないつもりはないんじゃが」
「…………そうですね……」
思わず微笑ってしまった。
「お。やっと笑うたな」

身近すぎて忘れていたが、現代で付き合っていた男と桐野は比較するのが申し訳ないほど違う。
確かにそんな事でダメになりそうだなんて思うのは、桐野に失礼だろう。どれだけ自意識過剰なのか。
そんな事を思って笑ってしまったのだが、しかし、とまだ伝えていない事がある事を思うとさつきの心は沈んだ。
正直なところこちらの方が重大だ。

(どうしよう)
言うべきなのだろうか。
しかし正直桐野に言いたい内容ではない。言いたくはないけれど、これ以上貯め込むのももうしんどかった。

考えあぐねていると、
「えっ、」
そのままの体勢、つまり横抱きされたままの状態で布団の上に寝かされてしまった。
さつきの体の上に桐野がそのままのしかかったと思うや、カリ、と首筋に軽く歯が立てられる。

「ちょ、ちょっと、きぃさん、やめ、」
目立つ所に跡つけないでと言おうとして、
「あげん事どこで覚えてきた」
言葉が被った。あんな事?
「危うく襲われるとこじゃったな」
軽い笑いの交じる桐野の声に、かっと耳まで一気に赤くなったのが自分でも分かった。

来る事なんてないと思っていた”こんな”所へ桐野を連れて来たのは自分だった。
でもさっきはこっちだって必死だったのだ。
内に渦巻く感情と外から突きつけられる感情に揉みくちゃにされて、自棄みたいな誘い方をした。
いや。自棄みたいな、ではなくて自棄だった。何でもいい、どうでもいいからとりあえず考えることから離れたかった。

そうだ。逃げたくなったのだ。考えることから、人の目から、偏見から。
もう疲れてしまった。
大丈夫である時の方が圧倒的に多い筈なのに、たったひとつの小さな悪意がそれらを全て塗り替えてしまう。
プラスに比してマイナスの影響力は得てして大きなものだ。

先程往来で声を掛けてきた男の顔と言葉が脳裏に鮮明に甦る。
彼の言葉の威力は大きくて、さつきに傷ではなく打撲を負わせた。それが本当にもうダメだと思った決定打だったのだ。
思い出して、また気持ちが凍りつくような感覚に襲われる。

「…………」
息を詰めるように黙り込んださつきの様子の変化を桐野は黙って見ていたが、
「な、さつき。俺の知人か?そいつになんか言われたんじゃろう」
抱え込むようにのしかかったまま覗いてくる。

「……まだ話してないことある」
「ん。話せるか?」

話しやすいようにと思ったのか、桐野はさつきの後ろで肘枕で横になった。足を延ばせば腰元に腕が回される。
なじんだ体温が身近にあることに、さつきはほっと息を吐いた。


(12/2/8)(11/10/13)