32.吐出する





「さっきの人、多分きぃさんの知ってる人」

向うは桐野の事を知っているし、恐らく桐野も向うの事を知っているのではないだろうか。
桐野には伝えなかったが、あの独特のイントネーションは間違いなく京都だったから、幕末、京都での関係者なのだろう。

さつきは往来で腕を掴まれ、いきなり桐野の知り合いかと尋ねられた。
奠都の後東京に進出した豪商は多くいたが、それほどの規模でなくても東京で商売の足掛かりを得たいと考える者ももちろんおり、維新前に世話した志士を頼ってくる商人は多い。
以前幸吉からそういう話を聞いていたさつきは、声を掛けて来た男をその類の人間かと思ったのだ。
それならわざわざ京都から気の毒だが、声を掛けられた所で自分が桐野との面会を仲介する事は避けたいし、桐野に会いたいなら勝手に屋敷に来て欲しい。何よりさつきは関わりたくないのだ。
今は近代の草創期だ。今後の経済史に影響が出ないとも限らないのだし。

だから丁重に断ろうとしたのだ。しかし掴まれた腕はいつまで経っても自由にはならなくて。
それに男が向けて来る視線には何故か悪意が混じっている事に気付き、さつきはそこで初めて恐怖を抱いた。

「は、離して…」
「なんや異人のくせに日本語喋れるんかいな」

その一言に体が跳ねる。
またか。いつもならそう思ってうんざりするくらいで済むのに、今は何故か酷く嫌な感じしかしない。

「あんた桐野はんの……一体どういう関係のお人でっか」

初対面の、それも桐野の知り合いと思っていて投げかける言葉としては酷く不躾で乱暴だった。
そこから侮られている事がひしひしと伝わって来る。
(侮られる?何でよ)
いわれが無さ過ぎる。
しかしさつきの表情が険しくなっても、向こうは全くのマイペースだった。
その上じろじろと上から下まで値踏みするように無遠慮にさつきの身なりを検分するや、

「桐野はんも趣味が悪い。あのお人やったら選り取り見取りやろうに、ほんまやったら異人なんか選ばんわなあ。あんた妾か…いや暇潰しか。背高こうて色も白うて、日本の女と随分毛色ちゃうし、どうせ珍しかったんやろ。確かに昔からおなごにようモテたお人やったで?せやけど遊ぶんでももう少し選ばんならんわ。…ああ、房事がええとかあんたはそっちか。外国とこっちとは具合違うんかもしれんし。桐野はんかて男やからなぁ。どうせあんたも男の知らん所で遊んでるんやろ。……なあ、幾らやったらええ?」

今何を言われたのだろう。何と、言われたのだろう。
売春婦か何かだと思われている。
すれ違った数人がぎょっとしてこちらを振り返ったのが気配で分かる。
それくらい異常な話で、あまりに下卑た内容にさつきは言葉を失った。

会った事もない人間に、それも往来でここまで言える神経が皆目理解できない。
それとも込み入った日本語は分からないだろうから、面と向かって言ってもいいとでも思っているのだろうか。
”外国人”は何を言われても傷つかないとでも、思っているのだろうか。
舐めるようにこちらを見る目つきが吐き気を催すほど気持ち悪い。

後から思えば色々なことが頭に渦巻くが、その時さつきは何も言えなかった。ただの一言も。
怒りとか、悲しみとか、悔しさとか、目を見開いて湧きあがる幾つかの感情に震えるのでいっぱいだった。

「…あ。なんや震えとんかいな。言葉ほんまに分かるんやな。しかし黙るんはそういうことやで」

あからさまに鼻で嗤う態度を取る男に何か言い返してやりたい気持ちが溢れる。いっそ拳で殴ってやってもいいのではないかとも思う。
しかし体も口元も震えるばかりで、言葉は口内で凍りついたまま出て来ない。
咄嗟に言い返せなかったのは、ほんの少しだけ男の言葉に多少の真実があるのではないかと思ったから。

――物珍しくて。暇つぶしで。
反芻して、…しかし否定した。
(初めは物珍しさはあったかもしれないけど、暇潰しなんてそんな人じゃない)
以前ならそこで落ち込んでしまっていたかもしれないが、それはさすがに今はよく分かっている。
桐野は暇潰しでどうでもいい女の面倒をここまで見てくれる人じゃない。

けれども。
さつきには桐野の知り合いが自分を見て、こう感じるということの方が重大だった。

(この人から見ると私は外国人で、物珍しくて、きぃさんが暇潰しで側に置いてる節操のないセックス要員なのか…)
自嘲気味に吐き出した。
自分の外見がここの普通とは若干ずれていて、そこから多少の偏見が生まれるのはよく理解していたが、そこまでの内容と思った事はなかった。

(…そんな風に見られてるの…)
もしかして、先ほど会った桐野の友人たちもあの笑顔の裏側でそう思っていたのだろうか。
自分が桐野の隣にいるからそう言わないだけで。
いや、彼らだけではない。もしかしたら今まで会ってきた人、これから会う人も………
(……………)

そう思うと涙が零れそうだった。
だが今は何があっても意地でも泣きたくない。こんな男のせいで、こんな男の前では絶対に。
しかしさすがに心が折れそうだった。

引き攣ったさつきの表情に溜飲を下げたのか男は愉快そうに軽く笑ったが、

「お前みたいなおなごがおるさけ、うちのお嬢はんが泣くんや」

うちの…?
聞き返す余裕もなかったがしかし口を開こうとすれば、

「早う国に帰れ毛唐! この疫病神が」

ばりん、と自分の中の何かが割れた。

後も何か言われていたような気がするが記憶がない。どの位ぼんやり佇んでいたのか、
「こら!定吉、どこで油売っとるんや。探したやないか」
いきなりの第三者の登場にふたりが声の元を辿ると、
「旦はん、えろう申し訳…」
「そちらは?」
店の主人とその従業員か何なのだろうが、その主人は男の話も聞かずにさつきに視線を向けた。

「あっ…」
じり、と後ずさる。
(やだ…)
今はもう表情を繕えない。桐野の知り合い?そんなの知らない。誰とも話たくない。

「あなたは…」

掛けられた声は丁寧なものだったけれど、さつきは応える事も顔を見る事さえもできずにその場から逃げ出した。


(12/2/11)(11/10/14)