33.慰撫する





(その、すぐ後か)

さつきが往来でしがみついてきたのは。
確かに酷く震えていた。大丈夫かという言葉を掛ける事を躊躇うほどに。
さつきの後ろに寝そべって正解だったと桐野は思う。
自分でも分かるほど眉間にはきつい皺が寄っている。しかし、…
(知人?)
己の知人にさつきを桐野の関係者だと分かっていてそんな事を言う人間がいるとは思えなかった。

「私今までが恵まれ過ぎてた。一番最初に辺見さんに拾われて、きぃさんに会って御屋敷で過ごす事ができて、みんないい人ばかりで。でも普通だったらああ思うんだよ」
んにゃ、そう思わん人間もわっぜおる。呉服屋で分かったじゃろうが」
「呉服屋さんとかは別にどうでもいいの。でもきぃさんの知っている人にそう思われるのは、」
辛い、と声が小さく続く。

「髪の色違うだけだよ?ちょっと背あるだけだよ?」
「ああ」
「ここの人は外国人になら何言ってもいいと思うの?言葉分からないから?言葉が分からなかったら何言ってもいいの?でも私日本で育って日本語話せる日本人だよ?」
「さつき」
「それに毛唐って、はは、さすがにそれはないよねぇ。国に帰れって、帰れるなら」
「さつき、こっちを向け」
向うを向いたまま姿勢を変える気配のないさつきの体を掴むと無理矢理体の方向を変える。
まだ何かを言おうとしている口を桐野は手で塞いだ。

「辛かったな」
言葉に労りを込めればこちらを見上げて来る瞳が潤んだ。首元にさつきの腕が回る。
「きーさん…」
「お」
抱きつかれたかと思うやそのまま体重が乗せられ、桐野の体は後ろに倒れてしまった。

さつきの背中に回した手を子供をあやすようにぽすぽすと弾ませれば、
「きぃさん」
「んー?」
「私疫病神だって。ほんとそうかも。…こんなことばっかり起こってほんと」
疫病神だよね… 


(大分堪えとるな)

さつきの言葉の語尾が湿るのを聞き、胸の奥でぐら、と怒りが湧き上がるのを桐野は抑え切れなかった。
あんな言葉、堪えるどころの話ではなかっただろう。
世が世ならその場で刀の錆にされても文句の言えない話だ。
あまりの事に言葉もなく、何もできなかったというさつきにも頷ける。それほど酷い侮蔑の言葉だ。

さつきとの関係にはまだ不安定な所がある。それは桐野も認める。
しかし三歩進んで二歩下がるような感じではあっても、後ろ向きであった姿勢から少しずつ前に向かいつつあるのだ。
さつきに話した通り、桐野はその変化をせかす気はない。焦ってもいないし、ゆっくりでいいと思っている。

彼女の心の中は今、色々な思いでごちゃごちゃなのだ。
糸が複雑に絡まり合っていて、容易に解けないような状態でいる。
桐野との始まりがまずかったのもある。
そして関係が好転したらしたで、彼女からすれば桐野の隣にいる為にはあれもこれもそれも自分には足りない。そう思って焦燥が募るのだ。恐らく。
それに桐野が知らない所で悩んでいる事もあるに違いない。
桐野の事を信じ切れないから悩んでいる事もあるに違いない。
しかし急ぎもしないし、ひとつずつ解決していけばいい。無理する必要もないと桐野は考えているが、本人からするとそうもいかないのだろう。

急ぐなと諭す裏側でそういった姿に愛しさを感じるのは、その行動が桐野に向けられたものであるからだ。
少なくとも己の側にいる為に何とかしなければと彼女は悩んでいる。
優しくしたいし、泣かせたくもない。桐野は事あればそう伝えてきているし、さつきもだんだんと桐野を理解してきている。
本当に全体的に見て物事が緩やかに好転しつつあるのだ。
それを。
何も知らない人間が腕を突っ込んで滅茶苦茶にかき混ぜた挙句、

(疫病神じゃと)

件の人間は性的な関係を口に出してさつきを貶める事で彼女の尊厳や存在意義を地に叩きつけた。

――外国人になら何言ってもいいと思うの?言葉分からないから?

そんな訳があるか。
言葉が通じなくてもそのような事を言うのは元の士分は勿論、農工商の身分の者でも憚りがある筈だ。
ましてや人通りの多い浅草、昼日中の往来で口にする事とは……。桐野の常識では考えられなかった。
余程の品性下劣か、桐野個人に恨みでもあるのか。

「きぃさん、顔怖いよ」
怒ってるの、と聞かれて目の前のさつきに意識が戻る。
「ごめんね、私がこんなだから、」
「どうすれば汝が疫病神に見えるんじゃろなあ」
「え?」
「どう見ても観音様とか吉祥天の類じゃろ」
「…何言ってんの」

頬を撫ぜながら少し茶化せばさつきは綻んだように笑った。
涙の跡で化粧が落ちていたが、元々施されていないに近い薄化粧なので大して気にもならない。
日にも焼けておらず痘痕跡がある訳でもなく、顔は白いし肌はつるりとしているし、彫り物の観音の類ではないかと偶に思う。

「……照れもせず何でそういう事言えるかな…あ、あのね…これを維持するために毎月結構つぎ込んでましたよ。そうじゃないと甲斐ないよ。基礎化粧品に力入れて日焼け止め使って日傘を差すなんて普通の事だったし。もっと気を使ってお手入れしてる素肌美人沢山いたし。てゆーか最近私手抜き過ぎでほら、目元に小じわが…」

少し笑ったのに気が付いたのか、ぴたりとさつきの話が止まる。
「小じわが?」
「……こういう誤魔化し方はずるい」
「誤魔化しちょらん。汝はよか女じゃ。人もよか。俺は汝がよか」
暇潰しでも遊びでもない。他に女も必要ない。
それに曲折を経た上さつきとこうなる事を選んだのは己だ。

「怒ってる、か。…そうじゃな。怒っちょる」

体を固くしたさつきにお前にではないと伝える。
己が認めて選び取ったものを他人に口出しされ否定される事にこの上ない腹立たしさを感じる。それも何の事情も知らない第三者に、だ。
しかも桐野ではなくさつきに言う、その根性がこの上なく気に入らない。

「さつき、名は聞いたか?誰か、分かるか」

人物の特定ができないよう上手く話していたさつきに、桐野は正直感心していた。
分かったのは相手は商人で恐らく桐野の知人である事、そしてさつきに投げられた言葉だけだ。
桐野とどういう関係なのか、どこから来た人間であるのかという核心には一切触れていない。それにぶつけられた言葉も肝要な部分が端折られているのではないだろうか。

しかしだ。
それは逆を返せばすぐに誰か分かるという事でもある。
(俺と関わりのあった商人か)
そこですぐに桐野の頭に浮んだのは村田氏だったが、
(しかし村田は…)
桐野の知る村田煙管店の主人は人に向かって暴言を吐く人間ではなかったし、第一店舗は京都だ。
かの人物が村田氏だったとしてもそうでなくても、別行動をしていたさつきがなぜ桐野の関係者だと分かったのか。

「わ、かんない。知らない。聞かなかった」
(こりゃ知っとるな)
嘘を吐くのがへたくそ過ぎる。しかし今は強いて聞き出す事はしなかった。

「……誰か分かったらどうするの」
「そうじゃなー。殴りこむか」
「っ、だめ!絶対だめ止めて!」
桐野の立場が悪くなる、そう続けたさつきに少し間を置いて、
「嘘じゃ、そげん事ばせんよ」

安心させる為に軽く笑えば唇が近付く。落ち着いてきたようではあるが、触れたさつきはまだ少し震えていた。
体を反転させて覆いかぶさり優しく顔や肩を撫でてやる。
「続きするか」
「…うん」
聞けば案外素直に頷いたので、桐野はそのままさつきの長襦袢の裾を割った。ふと思いつき、
「上に乗るか?」
さっきみたいに、と耳元で囁けば「さっきのは違う」とか「忘れろ」とか真っ赤になって怒り出す。

「何じゃ違うんか」
「ちがう…けど…」
けど?もごもご何かを口籠っているので、口元に顔を寄せれば、
「……………どうしてもって言うなら……」
自分から言うのが恥ずかしいのか、目を逸らして消え入りそうに言うその様子がおかしくて愛しくて桐野は声を上げて笑った。 

「わ、わらうことない!」
「ああ」
頷きつつもやはり笑いながら頬に唇を寄せ、
「『どうしても』して欲しい時に頼むな」

そのまま黙り込んださつきの首筋に顔を埋めた。



(11/2/15)(11/10/15)
ポーラ文化研究所HPによると一般女性の鉄漿と剃眉が禁止されたのが明治6年。現代人が紛れると髪と背だけでなく本当に目立ったというか、浮いたでしょう。
痘痕は幕末の武士の写真でも分かるように天然痘治癒後に残る跡が本当に酷い。化粧で誤魔化せるレベルの凹凸ではなく、助かっても特に若い女子にとっては幸か不幸か分からない本当に泣くに泣けない病気だったと思います。