35.煩悶する





「篠原さん、私、違う世界から来た人間です。だから特定の誰かと特別な関係になったりして、こっちの世界と深く関わり過ぎる事はよくないってずっと思ってました。…本当はきぃさんとこんな関係になる事も望んでなかった。見てるだけで良かったんだけど、色々あって」
「ああ」

「きぃさんに大事な人がいたっていうのは、その頃から知ってたんです。本当だったら私じゃなくてその人がいるべきなんだろうなって。さとさんを京都から呼んでって、別府さんに頼んだ事もあるんですけど……」
驚いた顔でこちらを見る篠原に、
「すぐに私ときぃさんとの関係が良くなって、無かった事にっていうか、握り潰されちゃったみたいで、それっきり」

さつきは苦笑して見せた。
「…何故そこまでする」
「私は明治ここの人間じゃないし、いるべき人がいるならその人が側にいた方がいい。私より明治ここの人が優先されるのは当然だと思いませんか?」

「汝な桐野を好いちょるんじゃろうが」
「大好きで…大切です。それにきぃさんは私の事びっくりするくらい大事にしてくれて申し訳ない位。あんな人知らない。もう二度と会わないと思う」
本気でそう思う。
「だから側にいるのが許されている間は私もちゃんとそれに向き合おうって」
「側にいるのが?どういう事…」

「…それが、汝の言う”村田さとが来るまで”か」
「…………」

さつきは縁側に足を投げ出すと、行儀が悪いと思いつつもぶらぶらとそれを振った。

「勝手に、もう少し先の話かなって、思って、たんですけど。…あはは、なんか一緒にいられる時間、意外と短かった、みたいっで、」
「さつき」
「好きだって、ずっと態度で示してくれたのに、長いこと、耳も目も塞いで知らないふり、とか、してたから」
無意識に言葉は詰まるし、下瞼には涙が溜まっていた。

「……バチが当たったのかなあ」

思っていた事を口に出すと、信じられないくらい自分が傷ついた。
篠原は何も言わなかったけれど、下手に言葉を掛けられたり慰められたりするよりもそちらの方がありがたかった。
近すぎもせず遠すぎもしない距離の取り方が却って温かく感じられて、さつきは本当に泣きたくなった。



「どうしたい?」
用件はそれだったのだろう、と尋ねた篠原の飲み込みが早くてさつきは驚いてしまう。

「…どこか、住み込みで働けるような所はありませんか」
「…………」
つまり桐野邸を出ていきたいと、そういう事だった。

「私こんなで、難しいの分かるんですけど…」
「桐野はどうする」
「いなくなった女の事なんてきっとすぐに忘れちゃいます」
「汝から見た桐野はそげん男に見えるのか?」
言葉に詰まったさつきを見て篠原は微笑んだ。

「その簪」

ふっと話が違う方向に向いて、さつきが顔を上げる。
桐野からもらった鼈甲の簪のことだ。今日も髪に挿して出て来た。

「桐野、俺たちの前で選んじょったぞ。珊瑚も螺鈿も違う、そいが一番似合うち言うてな」
「俺たち?」
「ああ、前会うたあいつらの前でな」
篠原はその時見た様子をさつきに話してやった。

「嘘」
「嘘でんナカ」
「だってあの人、人前で女が大事だとかそんなこと言う人じゃないでしょう?」
「じゃっで皆驚いた。桐野にしてもそれだけ汝との関係の変化が嬉しかったんじゃち思う」
「……」

「村田のとふたりで桐野を支える事は無理か」
暫くの沈黙の後、篠原の思わぬ問いにさつきの顔が引き攣った。
「…ムリです」
この時代の倫理や価値観がどうであっても、それだけは受け入れられない。

「それは前にきぃさんにも言いました。あちこちに女の人囲うのここでは普通かもしれないけど、私は二股とか浮気はダメだって」
「ああ」
「それがダメなら私は一緒にはいられない。さすがに…」
さすがに桐野にはそこまでは言わなかったけれども。
「でも余所に女の人を作るのはきぃさんの自由です。止めません。口を出すつもりもないけど、ただ、私とはそこでお終いです」
「そうか」

一言だけ漏らすと篠原は笑った。……笑った?よく分からない。

「汝はまた桐野に向うて凄か事ば言うたな」
首を傾げたさつきに、篠原は更に笑った。

さつきは旧幕時代からこっち桐野がどれだけ女にモテていたかを知らないのだ。
特に花柳界の女などは争って桐野の座敷に出ようとし、なぜあいつばかりがと同藩の人間からやっかまれもしていたというのに。
桐野と関係してこれだけの言葉を吐ける女が一体どこにいると思っているのだろうか。
(知らんから言えるのか、否、知っちょっても言うじゃろうな)
一度の遊びが破局に直結する。
そこまで言葉にしていなくても、その結論には誰しも簡単に辿り着く。
桐野はさつきを大切にしているのだし、本当に彼女を傷付けたり失いたくないのならこの状況下で余所に女を作るなどありえない。
同じ事だ。
例え村田さとが上京して来たとしても、桐野にはそれ以上でもそれ以下でもないだろう。
篠原はそう思う。

それに矛盾しているとも篠原は思うのだ。
さつきの思いには酷く矛盾している所がある。それに気がついてはいないのだろうか。


「汝は桐野の唯一でなければ我慢できんのじゃな」

笑いながらであったが、篠原にそう言われてしまうとさつきは自分が酷く高慢に思えて思わず返事を躊躇った。
だが事実だ。

「汝の望み通りな、今や如月さつきは桐野の唯一になりつつある。…汝はそげな桐野に他の女を薦められるんか?」
「!」
「驚いたか?じゃがそういう事じゃろうが。そいに桐野は村田さとを受け入れん」

さつきが誰かと桐野を共有できないと思うのと同様に、今の状態を見ていれば桐野もさつき以外は要らないと思うだろう。
さつきがいなくなったからといって忘れない。
旧友の前で平気で惚気るほどさつきとの今の状況を楽しんでいるし、さつきがゆっくりとでも己についてきているのを喜んでいる。

「そんな桐野に汝は村田さとを選べと言えるんか?汝と桐野と、立場が逆で同じ事ば言われたら如何いけんする」
「…………」
「桐野の為と思うなら、桐野の気持ちを考えてやれ」

篠原の言葉が嬉しいのか苦しいのか、さつきには分からなかった。
ただぼんやりと目の前が滲んでいく。
「責めちょるんじゃナカ」
ぽん、と頭に手を乗せると、しかし、と篠原は続けた。

「どれだけ『大丈夫じゃ、気にするな』ち言われてん汝にしか分からん悩みや苦しさがある筈じゃ」
その言葉にさつきは無言で頷く。
篠原の言う通りで屋敷を出たいと言った言葉の裏にはさつきにしか分からない悩みがある。
それが中々理解されないから、そもそも周囲に話せないから余計に苦しいのだ。

「あまり辛いなら一度桐野と距離を置く事も考えてみたらいいかもしれんしな」
「篠原さん…」
「住み込みの件、心当たりを紹介してやってもよか」
「え」
今までの話の流れでてっきり断られるかと思っていたのだが。

「ただ、今すぐ結論を出さずもう暫く考えてみろ。その話はそれからじゃ。…汝な午餐(ひる)食うた後、何ち言うたか覚えちょっか」
「お昼?」 
「『美味かった、うちとは違う味で』」
そんな事言っただろうか。
ここの食事が美味しかった事は確かだが、ありふれた言葉過ぎて覚えがない。
記憶を辿っていると、「それだけ自然に言っていたのだろう」、さつきの様子を見ていた篠原がそう言った。

「あそこは汝にとってはもう”自分の家”になっちょる。屋敷を出る事は住んどる人間も捨てる事じゃ。汝にとっちゃ家族ば捨てる事と同じじゃろう。そうすっともう戻れんかもしれんぞ」
「そいに村田さとが来るかどうかもまだ分からん。来たら来たでその時に考えたらヨカ話じゃろう」

篠原の話にさつきは素直に頷いた。
話を聞いてくれて、起きている事を公平に見てくれて、こんな話をきちんとしてくれる人は今のさつきの人間関係では恐らく篠原しかいない。

「…篠原さんにはここに来た時も助けてもらって、私嫌な所ばかり見せて、お願いするばかりで、……ごめんなさい」
「別に謝る事でんなか」
篠原は軽く笑った。
「辛くなったらこの屋敷ここにいつでも来い。屋敷の者にも伝えておく。…さつき、どう転んでも俺が汝の力になってやろう」





季節は夏に向かっていたから夕方とはいえ日が暮れるにはまだ間がある。
篠原邸から一度屋敷に帰り志麻に声を掛けてからさつきは不忍池へと足を向けた。
適当に空いている所に座ると手元に落ちていた小石を拾って池に投げる。
蓮の葉が生い茂っていてぱすんっとは音がしたけれども、水に落ちたような音は聞こえなかった。

「なんでそこまでしてくれるんですか…?」
思わずそう尋ねた時の篠原の言葉を思い返す。

「汝はひとりじゃからな」

篠原が信じられないほどさつきの状況を言い当てていて驚いてしまったのだ。
「違うか?」
ひとり。
物理的にではなく精神的に、だ。
篠原の言っている意味をさつきは正確に理解した。
「……そうです」

さつきは元の世界から引き離され、家族もそれまで築いた人間関係も全てを奪われた状態でいる。
彼女がこの世界で信頼できるのは両手でお釣りがくる人数ほどしかいないのだ。
しかし。
別府と辺見は年も近く仲も良いが、性差から理解しあえない事や話せない事があるに違いない。
志麻はさつきの相談に乗るにはまだ若すぎる。幸吉は性別と年の差の両方が引っ掛る。
そして彼らでは桐野とさつき、そのいずれにも距離が近すぎるのだ。 
それはもし屋敷の中で何か込み入った問題が起った時、さつきには愚痴を言ったり気兼ねなく相談できる人間がいないという事でもある。

それに篠原はここに来た当初のさつきの内面を見た唯一の人間だった。

――ここには私の知ってる人、誰もいない。私を知ってる人もいない
――相談できる人いない。話をできる人だっていない。
――寂しいよ。私これからどうなるの?どうすればいいの?


「…あれから同じ事ば他の誰かに言うたか?」

首を左右するさつきに篠原はそうだろうと思う。
これは桐野邸の者に言える部類のものではないだろう。
当時と今ではさすがに状況は随分変わっただろうが、さつきが嘆いた事の根本的な問題は恐らく解決されていない。
いや、さつきがこの世界にいる限り、永遠に解決され得ない類の孤独だと篠原は思う。
しかし何とかしてやりたくてもこればかりはどうしようもないのだ。

「じゃからな、」
せめて桐野邸の枠から少し離れた所に、さつきの内側を知る人間がいる事を知っておくといい。
「ひとりでも味方がおると思えば、汝も気が楽じゃろう」
逃げ道があるのとないのでは、気持ちの余裕が全然違う筈だから。

「それともうひとつ」
そう言われ顔を上げたさつきに篠原は尋ねた。矛盾に気が付いているか、と。
矛盾?

「他の女もおるしその他の事もある。そいで汝は桐野の側にはずっとはいられんち思うちょる。そうじゃな?」
「…はい」
「なら何故外見がどうとか桐野に相応しくないと悩む?桐野の知人にどう思われるかと悩む?いつかいなくなる、村田に桐野を譲るならそこまでして桐野に合わせんでヨカ。汝がそこまで苦しむ必要もナカじゃろうが」
「………」
「何故な」
「そ、れは………」
「分からんか。簡単な事じゃ」
「…………」
「本当は桐野の側にずっとおりたい、そう思うちょるんじゃろうが」

篠原は相変わらず柔らかく笑っていたけれど、彼を見上げた自分の顔はきっと泣きそうだったに違いない。




「さつきさーん!」
向こう側から声を掛けられてさつきは顔を上げた。
幸吉がこちらに走り寄って来る。その少し後には騎乗する桐野が見えた。
軍服のままだから陸軍裁判所から帰ってそのままここに来たのだろうか。

「どうしたの?」
「不忍池行ったて聞いて、迎えに」
「来てくれたの?」
「幾ら明るうても時間遅かったら物騒ですやろ」
屈託なく笑う幸吉に、ふっと篠原の言葉が浮かんだ。

――あそこは汝にとってはもう”自分の家”になっちょる。屋敷を出る事は住んどる人間も捨てる事じゃ。汝にとっちゃ家族ば捨てる事と同じじゃろう。そうすっともう戻れんかもしれんぞ

思わず口元を押さえてしまった。
「どないしはりました?」
馬鹿だ。
自分が言い出した事の大きさに今更ながら震えてしまう。
桐野を失う事は今の全ての人間関係をも失うことだ。
屋敷を出ればこんな日常のやり取りだってなくなる。明治に来てから日常であったもの、何もかもが。
分かっていたのに今まで現実味がなかった。

「あ……、何でもないの、あの、…迎えに来てくれてありがとう」
「どーいたしまして。さ、早う。先生も待ってはりまっせ」
「うん」
引っ張られるようにして立ち上がれば、馬を曳いた桐野がすぐそこまで来ていた。
手綱を幸吉に渡すと桐野がさつきの隣に並ぶ。

「蓮、もう暫くしたら咲くな」

そうしたら蓮見でもするかと瞳に緑を写しながら桐野は穏やかに告げた。
屋敷を出ればそんな横顔も見る事がなくなる。
そう思うと苦しくなってさつきは隣に垂れていた手をそっと繋いだ。桐野は少し驚いたようだったが、何も言わずにそのままさつきの手を握ったままでいてくれた。

桐野に会う為に現代から明治に来た。そう桐野が言ってくれたからそう思った。
だからいつまで経っても現代に帰れないのはその為だったからではないか、なんて思った。
村田さとの事はずっと頭にあったが、もしかしたらそんな日は来ないのではないか、なんて。
心のどこかで考えなかったと言えば嘘になる。
ただそれは夢であっただけで…
そうなってはダメなんだと。そうならない事を自分だって望んでいた筈だった。
桐野の為にならないからとか、住んでいる世界が違うからとか、相応しくないからとか、そんな事を理由にして。

「本当は桐野の側にずっとおりたい、そう思うちょるんじゃろうが」

突きつけられた言葉がぐるぐると回る。
(篠原さん。そんなこと、知ってたよ…)
色んな理由を言い訳にして目を逸らしてきた核心を篠原は残酷なほど容赦なく正確に突いてきた。
それは今、あまり自覚したくない事実だったのに。

握り込まれた手から熱が伝わる。体温が高いのか桐野の手はいつも温かかった。
手の冷たい人は心が温かいと言うけれど、対する手の温かい人はきっと心も温かい人だ。桐野といるとさつきはそう思う。
…この手を振り払う事ができるのだろうか。
屋敷を出る?
(そんなこと、できるの?)
今更そんな事に堪えられるのだろうか。


(12/2/18) (11/10/19)
BTBRB西南#5の話。篠原さんが饒舌過ぎる。でも話してくれないと話が進まない