36.忠告する





「桐野、おるか」
そろそろ帰るかと支度をしていた時、ひょっこりと現れた篠原に桐野は首を傾げた。
普段付き合いはあっても、このようにわざわざ職場にまで顔を出すことなど殆どない。何かあったのかと思うのが普通だ。

だが篠原は特段用があったようでもなく、しかし「沢山貰ったから」と幾つかの菓子折を差し出して来たのだった。
下僚にでもやればいいものを、不思議な事もあるものだと、
「うちで飯でん食って行くか?」
桐野が誘うも、この後用があるとやんわり断られたのだが、
「さつきは大丈夫か」
頼んで出させた茶を口に含むや思い出したようにそのような事を言う。
ああ、とは答えはしたもののさすがに少し不自然で、どうかしたかとでも言うように桐野は篠原を見直した。
「一昨日会うた時、怖がっちょるちゅうか、様子が少しおかしかったからな」
桐野は篠原を凝視すると、ややあって口を開いた。

「少し不安定になっちょる」
「落ち着いたかち思うちょったが……」
篠原は桐野とさつきの詳細は知らなかったが、それでも少し離れた所から見ていてふたりがどこかしらすれ違っていた事は知っていた。
しかし桐野もまさか篠原にそんな指摘をされるとは思いもしておらず、思わず苦笑いしたのだった。

「不安定か…確かにそんな感じじゃったな」
「今まで無理をかけちょったでその反動もある。そいで今は俺に合わせようと必死じゃ。大分疲れとる。気楽にしろち言うても本人からすりゃそうもいかんのじゃろう」
「ああ」
「…その上あいつに酷い言葉で要らん事ば吹き込んだ人間がおる」
「そうか」
突っ込んで来ない篠原の距離感は嬉しい。思い当たる筋はあるが、聞かれても推測で名前を出すべきではないだろうから。

「オハン、昔の女関係は大丈夫か?」

しかし間を置いての篠原の突然の言葉に桐野は首を捻ってしまったのだった。
以前は随分遊びはしたが、今はそんな事もない。
こちらから関係を切る時も後腐れなく、できるだけ恨みを残さないやり方を選んできたつもりだ。

「…あ?…あー…そういう事か」

だが篠原の質問の意図に気付きそう呟くと、ああ、と目の前の男が頷く。
それは桐野自身何度も考えた事だった。
しかしさつきの話からすると相手は男であったし、人を使ってまでするような嫌がらせではないだろう。その線から昔の女がどうこうとは考えにくい。
とはいえあの日名前が浮かんだ京都時代の昔馴染みに、多少の引っかかりを感じるのは確かだ。

(……………)
「桐野」

呼び掛けられ篠原に意識を戻せば、

「村田煙管店の人間を見たもんがおる」

言葉にこそしなかったが、篠原はさつきが会ったのは村田煙管店の人間だろうと言っているのと同じで……
それは当たって欲しくはない推測だった。
「…そうか」
静かな部屋に暗い溜息が落ちる。

「俺が見た訳でんなか。本当かどうかは知らん。じゃが東京に来とるなら…一番関係があるのはオハンじゃろう」
「そうじゃな」

茶を飲み干して立ち上がった篠原に、桐野はこれをわざわざ言いに来てくれたのだと知る。礼を言おうとしたのだが、その途端に「ひとつだけ」と遮られてしまった。
何かと思えば、

「ちゃんと見ておけよ。放っておくと知らん間にいなくなるぞ」

その言葉に桐野は心底驚いて篠原を見返してしまった。

如何いけんした」
「驚いた……二、三日前に全く同じこっバ考えた」
「…………」

どうしたのか、篠原は暫くの間桐野を見つめていたが、
「オハンなら大丈夫そうじゃなあ」
「何が」
「いや、余計な事を言うた」
忘れてくれ、と軽く手を振りながら篠原は室を出ていく。その姿を桐野は黙って見送った。



心なしか何かにせかされるようにして桐野は屋敷へと戻った。
長屋門の内側で箒を持っていた志麻にさつきの所在を確かめると不忍池に行ったという。
「ちょっと歩いて来ると言って出掛けられましたけど…」
「…迎えに行くか」
馬から降りる事もせずそのまま馬首を反転させれば、幸吉が慌ててついてくる。

屋敷から不忍池は本当に目と鼻の先でさつき自身が目立つ事もあってか、
「あ、いはった」
大して時間をかける事もなく見つける事が出来た。
「西日で髪の毛きらきらしてる。ほんま目立つなあ」
轡を取る幸吉の呟きが耳に入る。それは何の悪意も混じらない純粋な感嘆だった。
「さつきさん、あれ切ろうか言うんでっせ。信じられへんわ」
「切る?」
そんな話初めて聞いた。

「変な目で見られるから言うて。栗色、綺麗やと思うんやけどなあ。……あの、先生?……」
それきり幸吉は黙り込み、いつまで経っても言い辛そうにしているので桐野が先を促してやれば、
「……捨てられんといて下さいね?…ほんまに」
桐野は思わず吹き出しそうになってしまった。どう答えろと。
「捨てられそうか?」
しかし苦笑いで尋ねれば、「えろすんまへん」、さすがに言葉が過ぎたと思ったのか幸吉からはバツ悪げな答えが返って来る。

「でも前みたいに度々女の人来て出ていくとか、志麻さんいじめたりとかなくなったし」
「ああ」
「さつきさんやったらどんな人かよう知っててみんな安心しとるし、さつきさんもみんなと仲良うしようとしてて屋敷は平和やし。…先生には好い人ええひと仰山おりましたやろ?おなごはそういうん嫌やと思うし。そんなでさつきさんに何かあったりとかして、嫌や言い出したらそこで終わるかなーと。そりゃあ好きやのうなってしもうたら、しゃあないですけど」
「…そうじゃな」
「前まではちょっと…変やったけど、今はそんなことないし。それになんや珍しく先生の方が熱心に見えるし……前まで迎えに行くとかなかったですやん」
「ほォ」

桐野は笑った。
珍しい。幸吉が桐野に向かってこんな意見を口にするのは初めてではないだろうか。
幸吉は口達者だが従僕という立場もあり桐野のこうした私事には口を挟まない姿勢を貫いていたというのに。

「でも、私もあの人好きですわ」
「ソーカ」
「へえ」
随分懐かれたものだと思う。
「幸吉、迎えに行ってやれ」

すぐそこにいるさつきに視線をやり指示すると、「さつきさーん!」と幸吉は駆けて行く。その姿を見ながら桐野は馬から下りた。
一言二言交しながら引っぱられるようにして立ち上がったさつきがこちらに顔を向けると視線が重なる。
その瞳が少し揺れた気がした。


まだ花がひとつも咲いていない緑ばかりの池を見つめて、何を考えていたのだろう。
さつきが村田の人間から投げられた言葉は、一昨日桐野が聞かされた事だけだったのだろうか。
そもそもさつきは桐野と村田さとの関係以前に、彼女の存在すら知らない筈なのだ。
いや、しかし浅草で会ったという男に聞かされたのかもしれないが…
そこまで考えて、ふと思う。

(………)

もしかして。
さつきが自分は誰かの代わりだとか、桐野に他に好きな女はいないかとか、そんな事を言っていたのは。

(……そんなに前からか)

恐らく桐野との関係が好転する前から、さつきは村田さとの事を知っていたのだ。
既にいつからと即答できないほど前の話ではないか。
心底からの溜息が落ちた。
どこで知ったのかという疑問よりもそんなに前からという驚きの方が大きく、それならばさつきは大体の事は薄々知っているのだろうと桐野は思う。
そして。

(ああ、それでか)
そこまで思えば、納得した…というより、よく分からなかった事が一本の線で繋がった気がした。
自分は相応しくないとか、ここの人間ではないからとか、さつきがそんな事を執拗に言っていた理由を。

私じゃない他の誰か。

言わないだけでさつきの心の中ではいつも特定の名前が上がっていたのだろう。
桐野が彼女を手に入れたと思った夜からもずっとそんな事を思っていたのなら。
そして桐野と少しずつ距離を縮めながら、その一方で村田さとの事を考えていたのなら。
(不安定にもなる、か…)

それに苦しかっただろう。
さつきが必要以上にこの世界の人間に引け目を感じていた理由も分かる。
ただ桐野が見るところでは村田さとの事とさつき自身の事情や想い、色々なものが混然として本人はそれを整理できずにいるような印象を受けていたが。
表に出さないだけで、彼女の内側は本当は酷く混乱したままなのかもしれない。

とはいえ、桐野は村田さとの事を隠していた訳ではないのだ。
既に終わっていたから特に言う必要も感じなかっただけで。
それに何年も前の話ではあるし、さつき自身が知りもしない筈の女の事を桐野から話す方が余程不自然だ。

――おなごはそういうん嫌やと思うし。そんなでさつきさんに何かあったりとかして、嫌や言い出したらそこで終わるかなーと

この状況下でそんな事を言い出す己の従者が恐ろしい。内心舌を巻いてしまう。
幸吉は昔は聡い子供ではあったが、今では聡い若者に成長した。
篠原といい幸吉といい、要するに言っている事は同じで、これは近い内に何か悪い事が起こるのだと桐野は受け止めたのだった。
「何か悪い事」などという曖昧なものではなく、近い内に何が起こるのか、大体の予想はつく。
恐らく隣に立つさつきも同じなのではないだろうか。

「蓮、もう暫くしたら咲くな」

独り言か睦言のように静かに声を掛けた。
蓮は泥より出ずるも泥に染まらずという。孤高の美と力強さのある花だ。
蓮と同じように、その時に少しだけでいい、強くあってくれと桐野は願う。
返事はなかったがそっと手を握られ、その様子を見た幸吉が静かに馬を連れて来た道を引き返して行く。

「さつき」
呼べば小さな声が返って来る。
「咲いたら蓮見じゃな」
「蓮見?」
「嫌か?」
「…やじゃない。きっと綺麗」

いい返事の筈なのになぜそんなに困った顔で笑うのか。声が揺れているのか。 
桐野は思わず強くさつきの手を握り締めた。
本当に、全くもって嫌な予感しかしなかった。 


(12/2/22)(11/10/23)