37.揺蕩する





皮を剥いて短冊にした長芋と輪切りにしたオクラを軽く合わせて皿に盛り、その上に叩いた梅干しと山葵。その上に醤油ちょびっと。
「おいしい…」
シャクシャクと長芋を咀嚼している志麻を見ながら、さつきは笑って酒を入れた湯飲みに口を付けた。
「でもよかったんですか?これ御前のだったんじゃ…」
「違うよ」 
ちょっと飲みたくなっただけで、なら少しツマミでも作るかしたところで志麻が台所に顔を出したのだ。
それならとそれをふたつに分けただけで、元はひとり分だった。別に気にする事じゃない。

「でも、ここでひとりで飲んでるんですか?」
怪訝そうに言われてさつきは苦笑いした。確かに台所でひとりでこっそり酒を飲んでいるなんて褒められたもんじゃないだろう。
「御前と一緒にとか…」
「ん〜…きぃさんあんまり飲む人じゃないしね」
今まで散々酷い姿を見られているのでかなり今更な気がするが、酒飲みだと思われるのも嫌だ。何となく。
「カッコ悪くない?女だてらに酒とか、ここはうるさそうだし」 
「さつきさんの所では女の人みんなそうなの?…何も言われないんですか?」
「みんなって訳じゃ…いやいやいや、そんな驚く事でもなくない?てゆーか………そうだよね…格好悪いよね」
はあっと息を吐きそうになって、さつきはそれを慌てて飲み込んだ。それではまるで志麻を責めているように聞こえる。
が。

「ごめんなさい、私そんなつもりじゃなくて」
「あ、あー…大丈夫。分かってるよ。私のいた所とは色々価値観が違うなって思っただけ。…それがね、いまだに結構あってたまぁに疲れるんだなあ…」
「それでお酒?」
「ん。一杯だけね。飲む? あ、未成年じゃだめか」
「いいえ、私飲めますよ。頂きます」
ちょっとだけ、と少し付き合ってくれるらしい志麻がさつきの手から湯飲みを奪った。

「こことはそんなに違うんですか?」
志麻の問いかけに少し考えた後、先程の続きかと思い至り、さつきは肯定の言葉を口にした。

「男女の関係は大分違うと思うよ。向こうは随分自由かな…こっちから見ると崩れているように見えるかも」
職業は一応性別の区別なく開かれているし、男女の付き合い方だって基本的には自由だ。
「さつきさんは…」
「男の人ばかりの職場だったよ〜」

その返事にそうじゃなくてと繋げた志麻にさつきは、ああ、と笑った。
女子がこういう話を好きなのはいつの時代も変わらないらしい。

「きぃさんが四人目。もーほんと他のとは比べ物になんない。勝負どころか同じ土俵にも乗れてないわ〜」
「…御前と比べたらこっちの人だって気の毒ですよ…」

さつきは思わず笑ってしまった。確かにそうかもしれない。

「いっつも最後は散々でさ、浮気されたり…過度に依存されて相手が重たくなったり」
「依存って」
「んー…あれして欲しいこれして欲しいどうして会えないの。忙しいから無理って言ったら最後には俺と仕事とどっちが大事なのーみたいな?」
「………」
志麻が引いた。

「そうだよね。そんなのいい年した男が…そういうのが好きな人もいるみたいだけどさ、度が過ぎるとほんと鬱陶しい。気持ち悪い。嫌になる。…だからきぃさんといるとすごく楽。あの人はそんなことしないでしょ?考えた事もないんじゃないかなあ」 
「うん」
「ホント楽で…、きぃさんは私にもっと我儘言っていいって甘やかしてくれるけど、でも、寄りかかりっぱなしでいいのかなって思うし…」
「……」
「私が何か返せてるかと言えば、申し訳無いくらいちゃんとしている人だから、この人には別に私がいてもいなくても同じかなーとも、思うのよ」
でも、きぃさんだけじゃなくてここの人はみんなそうだよね。
そう繋げれば、ふたりの間に沈黙が流れる。

「…さつきさん…あの、…何かありましたか?…」
「え?」
「だって、今まで一度もそんな事」

(しまった)

口が滑った。志麻の前でつい言わなくていい事まで言ってしまった。
「あ〜…ごめんね。大丈夫、何でもないの。ほんとに少し疲れてるみたい」
取り繕うような感じではあったが、軽く笑えば志麻もホッとしたように息を吐く。しかし多少の気まずさは生きていて、この辺りでお開きにしようかと口を開き掛けた時、
「あのね」
と志麻が言葉を継いだので聞く態勢に入れば。

「私、ここで色んな女の人見てきました。でもなんでか長く続かない人ばかりで」
「あー…うん」
理由は知っているが、さすがにそれは言えない。
「出掛けたっきり帰って来ない人とか、朝になったらいなくなってた人なんかもいて」
「…えぇ…」
それはホラーじゃないだろうか。
「でも御前は追いかけたり探したりとか一度もなくて、初めは冷たい人だなって思ったんですけど、そうじゃなくて」
表現を探すように志麻が言葉を切る。

「…うん。男同士の付き合いは違うと思うんですけど、女の人とか身の回りのものとか、なかったらなかったでいいっていうか…拘りはあってもあまり執着がないみたいで」
それは分かる気がする。
さつきは頷いた。

「だから、御前がさつきさんを迎えに行かれてびっくりしたんです」
「びっくりって…」

こっちがびっくりだ。
朝起きたらいない?いなくなっても探さない?淡白だとは思っていたが、まさかそこまでとは。

「きぃさんははっきりと内と外の線を引いているんだね」
「はい。びっくりするけど、私もその内側に入っているみたいで…もちろんさつきさんもですよ?」
「…うん」
「私がこのお屋敷に来てからは、その線の内側に入った女の人を見た事ありません」
「……」
「だから、…自分は特別だって、思っていいと思う…いてもいなくても一緒なんてそんなことないです。そんなこと、」
言わないで。
湿り気を帯びかけた言葉に触れて、さつきは思わず志麻の背中に腕を回して引き寄せた。

「私はさつきさんがいてくれて嬉しい。ここは男所帯だし。教えてもらう事も沢山あって楽しいし、他の女の人みたいに意地悪しないで優しくしてくれる。最近はお屋敷も本当に雰囲気良くなってきて、幸吉さんと良かったねって、なのに」
「志麻ちゃん」
話の途中であったが名前を呼べば志麻の顔がこちらを向いた。

「ありがとうね。そんな風に思っててくれたんだね」
自分の事も。桐野との事も。
嫌われていないと分かっていても、こんなに好意的に受け止められているとは思わなかった。

「…ありがとう」

繰り返した一言に志麻が泣き笑いのような笑顔を見せる。
そして持ったままの湯飲みの酒を一気に飲み干し、ほうっと息を吐くと、
「明日から反物、頑張りましょうね。私厳しいですよ?」
先日浅草から届けられた反物を引き合いに出して、そんな事を言う。
「…怖いなぁ」
その返事に笑い返すと、志麻は何事もなかったかのように立ち上がり、洗い物を済ませて、ただ「お休みなさい」とだけ告げて水場を離れて行った。


湯飲みに酒を注ぎなおして液体を喉の奥に流し込み、食道を軽く焼くアルコールの熱さと共に志麻が残していった言葉を嚥下する。
桐野だけではなく、自分は自分で思うよりもずっと肯定的にここの人たちに受け入れられていて…
嬉しい筈なのに今となってはそれが少し苦しかった。

(嬉しい、筈なのに…)

胸の奥がズキズキする。
膝を抱いた姿勢のまま板間に寝転がれば、伝わる板の冷たさがほんのりとほてった頬に心地良い。

実は昨日今日と自分の荷物を片付けていたのだ。
気付かれないよう、周囲には分かりにくい所から。
そんな事をしている自分が怖くて、でも荷物を纏める手を止めるのも怖くてやめられなかった。
どうすればいいのか、自分がどうしたいのかもよく分からない。
本当に、どうすべきなのかが分からない。
(…………)
そのまま目を閉じる。


「さつき?」

が、目を閉じたのも束の間、水でも飲みに来たのか、辺見がぎょっとした声を上げて慌ててこちらに駆け寄って来た。
「わ、汝な何やっちょるんじゃ。しんどいんか?」
体を起こせば、ぺたぺたと頬や額に手を当てられる。文句も言わず大人しくされるがままでいると、
「飲んじょるんか」
脇に寄せられた徳利を見て、辺見が呆れたような声を上げる。「…ごめんなさい」、そう告げれば

「何もないなら別に……何ぞあったか?」

さつきはキョトンとして辺見の顔を見つめてしまった。
「如何した?」
「志麻ちゃんにも同じ事言われて…私…」
そんなに分かりやすい?

「アホか」
「アホって…ひど…」
「ひとりでこげん所で寝転がってひとり酒。そう思わん方がおかしか」
「…そっか」
「おう。で?」

顔を上げれば既に辺見が聞く態勢に入っている。
あまつさえ注げと言わんばかりに空いた湯飲みを差し出してきてさつきは思わず笑ってしまった。

「なんでみんな私にこんなに良くしてくれるのかなーって」
「……」
「辺見さんもどうしたって聞いてくれて、志麻ちゃんも別府さんも、篠原さんも気にかけてくれて。…きぃさんも。それが不思議で。私ここで何ができる訳もないし…いてもいなくても同じじゃないかなって」
「それを志麻に言うたんか」
肯首すれば、
「辺見さん…?あの、お、怒ってる?」
途端に渋い顔で眉間に皺を寄せた辺見を、さつきは伺うようにして見た。

「…汝はほんまに…」
「え?」
「アホじゃ。志麻も怒ったろう」
「は、ハイ…」
「汝の世界ところでは何かができるから一緒に住んどる人間…そうじゃな、家族を大切にするのか?大切にするんに何か理由がいるんか?」
「…いらない…」
「ならそげんこっ考える必要はナカじゃろうが」


こくんと頷いたさつきの頭を見ながら、辺見は眉を顰める。
この屋敷にいる人間にそれほど必要とされているとは思っていない?いてもいなくても同じ?
それではいくらなんでも屋敷ここの人間が…桐野が、かわいそうだ。
(こいでは桐野さァが苦労する筈じゃ…)
声でも出ていたのか、首を傾げたさつきの顔を辺見は見直す。
そして、ふと思ったのだ。

「そうか。汝は…自分に自信がないんじゃな」

彼女を一番過小評価しているのは恐らく彼女自身なのだ。
黙り込んでしまったところを見ると、辺見の言葉は真実かそれに近いものだったのだろう。
俯いてしまったさつきの髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜるとしかし辺見は小さく笑った。

「な、さつき。もう少し…桐野さァや俺たちの事バ信じられるか?」

信じる?と問い返してきた友人に、辺見は首を縦に振る。
と、そこで。


(……ん?)
ある気配を感じて入り口に視線をやれば、「どうしたの?」とさつきが小さく質す。
それに辺見は何でもないと否定をくれたのだが。
(桐野さァ、探しにきたんじゃな)
本人が奥にいるのにこうした事は実に話し辛い。それに気恥ずかしいものがあるが本人同士では分からない事、第三者を挟んで分かる事もきっとある筈だ。
そう思えばこそ、辺見は桐野とさつきの前でそのまま思う事を口にした。

「汝は違う世界から来た来歴の分からん人間じゃ。じゃっどん屋敷の人間はさつきの事を信用しちょる。善良で根が真面目な、ヨカ人間じゃち」
「そんな汝が桐野さァの側におる事を別府は喜んじょる。幸吉もか。志麻もほっとしたじゃろうな」

「じゃが一番は桐野さァじゃ」
「きぃさん?」
「女をこげん大切にする人とは思わんかった。おってもおらんくても?…アホ。おらんかったら困るんじゃ」
「困る…?」
「桐野さァが」
「嘘」
「ほら、そこじゃ。俺の言う事信じられんか?」
「………」
「もう少しな、汝の事を信じちょる屋敷の人間の事を、信じられんか」


「…明治ここに来た時一番初めに見つけてくれたのが辺見さんで良かったって本当に思ってる。それからずっと、いつもいつも助けてくれて、嘘吐く人だなんて思ってない。ここのみんなの事も信じてるよ」

何を言うのかと思いきや。辺見はしばしさつきを見つめたが、
「そう言う事は桐野さァに言え」
苦笑いして見せれば、さつきも釣られたように少し笑った。

「…でも、自信がないって言うのは…本当だと思う。みんな私のこと大丈夫って言ってくれるのに、自分が一番そう思ってないみたい」
「ああ」
「私きれいでもないし、取り立てていい所もない。何もできないし…それでもいいってあの人が言ってくれるのが今でも時々信じられないの」

だって、あの人なら本当に好きなだけ女の人選べるでしょう?


辺見は、笑いもせずに今に至ってもそんな事を言っているさつきにひやりとしたものを感じていた。
それは、一番信じなければいけない所を信じられないと言っている事と同じではないのか。
自分が選ばれたのは桐野の気の迷いだったのでは、などと言い出しそうで怖い。

「じゃっどん桐野さァが選んだのはさつきじゃ」
つい、焦ったように言葉を継いでしまう。
「うん。それは良く分かってる…それくらい大事にしてくれてるから…本当に夢みたい。でも、それに見合うものを私はちゃんと返せてるのかなって、」

「さつき」

奥から掛けられた声に、さつきが目に見えてびくっとした。
そうだろうとは思っていたが、桐野がいた事には全然気が付いていなかったようだった。
ぎし、と板を踏む音に目の前の双眸がきつく閉じられる。

「…大丈夫じゃ」 

さつきにだけ聞こえるように囁けば、不安げな顔がこちらを振り仰ぐ。
大丈夫だ。別に桐野は怒っている訳ではないだろうから。
「じゃがな、汝が思うちょる事ば桐野さァにきちんと話せ」
その背中をぽんと軽く叩くと辺見はさつきを置いて水場を後にした。


(12/2/25)(11/11/10)