38.擦違する





志麻が室へ顔を出した。
こんな時間に彼女がやって来る事はまずないため来意を質せば、酷く言い辛そうな様子を見せる。
それが夕方の幸吉を見ているようで、ピンと来たのだ。
「さつきの事か?」
尋ねれば、志麻は躊躇うように、しかししっかりと首を縦に振った。

「私が言う事じゃないって分かっているんですけど」
と口火を切った少女に話しやすいよう相槌を打ってやれば、
「さつきさん、少し様子が変で。疲れたって、いつもはあんな事言わないのに」
その言葉が終わる前に桐野は立ち上がる。

「水場です。ひとりにしたくなかったけど、私がいるより御前をお呼びした方がいいと思って」
「…あいがとな」
志麻の頭をひとつ撫でると早く寝るようにとだけ告げ、桐野は台所へと足を向けた。


(疲れた?)

少し、焦る。
確かに色々あった。確かに疲れただろうと思う。
しかし志麻が違和を感じたように、桐野の知るさつきは様々な思いを抱いていても人前で疲れただなんて、そのような事を言う女ではなかった。
ましてや志麻に。

しかし水場に着けば辺見が既にさつきの話を聞いていて、いや、相談に乗っていたようで、それならば顔を出さない方がいいかと思ったのだ。

しかし――

「私きれいでもないし、取り立てていいところもない。何もできないし…それでもいいってあの人が言ってくれるのが今でも信じられないの」
「じゃっどん桐野さァが選んだのはさつきじゃ」
「うん。それよく分かってる…それ位大事にしてくれてるから…本当に夢みたい。でも、それに見合うものを私はちゃんと返せてるのかなって、」

見合うものを返せているか?
なんだそれは。

さつきと同じように、桐野も何かをしてほしいから彼女に側にいてもらいたいのではないのだ。
それに…
さつきからの全面的な信用は得られていない。そう思いもし分かってはいた事だが、実際に耳にしてしまえば溜息を吐きたくなった…が、それよりも己に舌打ちしたくなった。
これは報いか。
さつきにしてきた悪行が今になって全て己に跳ね返ってきているような気がする。

「さつき」

名前を呼べば驚いたのだろう、薄い背中が大きく跳ねた。
そしてそんな彼女に何事かを囁くと、辺見は桐野に軽く一礼してその場を後にしたのだった。



「汝は優しかな」
「…優しくなんてない。私なんて自分のことばっか」
「否、そうなら屋敷の人間は気にもかけん。…俺も」

普通は与えられるものにばかり目が向いて、人の事やそれに見合うものを返せているかなんて考えない。
少なくともこの屋敷で桐野が接してきた女たちはそうだった。
目の前の女は、遠慮もあるのだろうが、桐野だけではなく接する人間にできるだけ気を遣わせないよう、そしてできるだけ嫌な思いをさせないように務めているようで。それが優しさや思いやりでなくて何だというのか。桐野はそう思う。
後ろから抱きしめるようにして座り直すと、桐野は言葉を継いだ。

「なんでじゃろうなぁ。初めは少し変わった女としか思わんかったに」
「……」
不安が見え隠れする顔がこちらを向く。桐野はそれに笑いかけると、
「辺見の言う通りじゃ。汝がおらんと困る」
既に潤みかけていた目元に親指で触れた。
「汝でなけりゃ意味がない」
途端に体を捩って抱きついてきたさつきの背をさすってやれば。

「ご、…んなさい、ごめんなさいっ…」
「謝る事などなかじゃろうが」

謝られる理由が分からない。
ただ分かるのは、さつきは己が思うよりもずっと己の事を思ってくれている事。そして、

「きぃさん」
「ん?」
「大好きだよ…」
「…ああ」

またひとりで何かを考え、ひとりで解決しようとしているという事だった。

「きぃさんの事、信じてない訳じゃないの。でも怖い事とか不安な事がいっぱいあって、」
「ああ」
「私、私ね、し…、しの、篠原さんに」
「さつき」

無理に言わなくていいとさつきの言葉を遮れば、複雑な表情かおがこちらを向く。

「汝が、…俺の事を心底から信じられんのは分かる」
「…!そんなことない!」
「最後まで聞け」


さつきは桐野を信頼してはいる。桐野はそう感じているし、事実そうだろう。
しかしそれと桐野を信用する事は別のものだ。頼れると思う事と信じられると思う事は、別の事だ。
(こげん話…するつもりはなかったんじゃがな…)

「俺は初めに汝を裏切った」
「裏切ったなんてそんな事、」
「…『こんな事する人じゃないと思ってた』」
それは桐野がさつきを無理に抱いていた頃に言われた言葉で、さつき自身もハッとしたように桐野を見つめた。
「汝にゃ酷かこっばかい重ねた。そん後でいきなり俺を信じろちゅう方が無理じゃ」

恐怖や不安が一杯ある。
確かにそうだろう。
辺見はさつきは自分に自信がないと言っていた。
しかし、さつきは意識していないのかもしれないが、そこには桐野への不信感がきっと含まれているのだ。

――信じてない訳じゃない
――それでもいいってあの人が言ってくれるのが今でも時々信じられないの

それは今になってもまだそんな言葉を吐く所にはっきりと表れていた。
信じてまた裏切られたら。
さつきの立場からすれば考えざるを得ない問題だろうと桐野は思う。
間違った関係の始め方は今でもまだ尾を引いていて、それがいまだにさつきを苦しめる。
…無理を強いて、泣かせて…

「…さつき、汝…」
俺といてしんどくないか?

するり。思った事がそのまま口から零れ落ちた。

「篠原の所にでん行っか?」

先程遮ったさつきの言葉の続きは、恐らくそういう事だったのではないか。
もしかしたら己との関係について、篠原の所へ相談でもしに行っていたのかもしれない。
…それならば篠原からの突然の忠告も真実腑に落ちる。

しかし桐野の吐いた言葉に弾かれるようにして上がったさつきの顔からは、一気に色が抜け落ちたのだった。
表情が無くなり体がそれと分かる程に震えている。
尋常ではない様子の変わり方に驚き桐野が呼び掛けようとして、


「きーさん、…わ………いら……った…?」
「何?」


「私のこと…いらなくなっちゃった……?」


息が詰まった。

「…だったら仕方ないね…」
諦めたように弱く微笑う姿に嫌な音を立てて心臓が脈打ち、耳の奥で妙に大きく響いた。
「あ、あれ?なんで?」
指で触れた頬が濡れている事に心底驚いた様子で呆然と指先を見つめているさつきに手を伸ばす。
だが、それは後ずさりされた事で虚しく空を切るだけだった。

「さつき…」
「……あ、や…ち、違、ちが、う」

避けた本人の方が酷く傷ついた表情で桐野から距離を取り、
「ごめ、んなさい…」
辛うじて届く程度の音量で言うや、さつきはさっと立ち上がって水場を駆けるようにして出て行ってしまった。



拒絶、された。
今までどんなに酷い事をしても心底から己を撥ねつける事だけはしなかったさつきが、己を拒絶した。
それに思った以上に衝撃を受けている己に桐野は驚く。

私のこと、いらなくなっちゃった?

顔を真っ青にして震えながらそう言う様子が網膜から離れない。
いらなくなった?そんな訳があるか。

(…触れる事を…)

拒否する程、言われたくない事だったのか。
屋敷を出るという言葉は。
禁句だったのだ。恐らくそれは、彼女にとって。

さつきが篠原の名前を出そうとしたのは、出て行きたいという話ではなく……

(引き止めて欲しかったからか)

「くそっ!」

どんっと拳を打ちつければ水場に大きな音が響く。
今なら分かる。篠原の名前を出すことでさつきは己を試そうとしたのだ。
本当に信じられるのか、信じていいのか。
引き止めたらそのまま屋敷にいたのか、止めなければ出て行ったのか。それは分からない。
しかしさつきの言葉を遮った挙句、本心でないにせよ己が屋敷から出て行く事を彼女に提案した。
己が。
……最悪だ。
いつもそうだ。

さつきの事ではいつも肝心な所で選択を誤る。
「………」
しかし自己嫌悪を振り払うと桐野はハッとした。
あの気性の女が、夜も更けているからとかそんな理由で今夜このまま屋敷に留まるとは到底思えない。
(さつきならすぐにでも出て行こうとする)
そうとしか。

さつきはきっと屋敷から出て行くつもりでここを後にした。そうに違いない。
立ち上がると桐野は自室へと急いだ。


(11/2/28) (11/11/20)