39.迷走する





「…さつき、汝…俺といてしんどくないか?」
「篠原の所にでん行っか…?」

ざあっと。体から血の気が引く音が聞こえた。

「きーさん、…私のこと…いらなくなっちゃった……?」

声も体も震えていて、自分では笑ったつもりだったけれど、多分全然笑えていない。

「…だったら仕方ないね…」
頬が濡れている気がして指で触ると、
「あ、あれ?なんで?」

そんなつもりはないのに涙が随分流れていて、拭っても拭ってもそれは止まらなかった。
しかしどうしようと焦る気持ちとは裏腹に壊れた水道のように雫が線を描いて零れる。

そこについと伸ばされる手。
恐らくそれは、目の前にいる男にとっては自然な行動だった。今まで何度も同じように慰められて、癒されて、それを受け入れるのが自分にとっても自然で普通だった。
のに。

気がついたら身体を引いていた。
桐野の顔に浮かんだ驚きに、ひゅっと息を飲む。
(私、今、)
何した……?

「さつき…」
「……あ、や…ち、違、ちが、う」

避けるつもりなんてなかった。拒絶なんてするつもりなんてなかった。ただ身体が自然に、自然に……?
身体が、自然に、桐野を拒否した。
今までどんな目に遭ってもそんな事はなかったのに。その事実に動揺した。
(ああ…、)
傷ついた顔してる。違う。そんな顔させたいんじゃない。ごめんなさい、ごめんなさい。ちがうのに。
「ごめ、んなさい…」
しかし何のフォローも弁解もできないまま、さつきはその場から逃げ去ってしまった。


誰かに気付かれる。
そうは思っても廊下を走る事は止められず、自室の襖も勢い良く開けた。
大きな音がしたから、本当に人が来るかもしれない。ならば余計に構っていられなかった。

収納にしている押入れの襖を開きキャリーバッグを引っ張り出す。
持って行くつもりで既に纏めてある荷物はここに来た時自分が持っていたものだけだ。
与えられた着物は返すつもりで全部きれいに畳み直して桐箪笥に仕舞ってある。
あと残っているのは鏡台に置いている私物だけ。
しかしキャリーバッグのファスナーを開けようとしても上手くいかず、結局開けっ放しにしていた小さな鞄の方に突っ込む事にした。
その間にもじわじわと視界がぼやけて、さつきは何度となく目元を擦った。

(私は卑怯だ…)

篠原と話して気持ちは揺れた。でも、確かにここから出て行くつもりだったじゃないか。
それなのに不忍池で桐野の体温に触れたら決心が鈍ったのだ。
その上最低な方法で桐野の気持ちを試そうとして…

(最低…最低最低最低)

いらなくなったなんて、桐野はそんな事言ってない。
桐野はそんな事思ってない。
きっとさつきの気持ちを考えて篠原の所にでも行ってみるかと言ってくれただけだ。きっとそうだ。
なのに聞かれた途端に心が彼の言葉をそう変換した。
違うって、頭では分かってるのに。感情に理性が競り負けてしまった。

(なんて勝手なの)

ずっとは桐野の側にはいられないと思っていた。
近い内に村田さとが東京に来るのだったら、ますます側にはいられない。
そう納得して、出て行こうと決めたのは自分だった。そしてこうして荷物まで纏めて。
それなのに例え言葉だけであってもあんな事、桐野にだけは言われたくなかったなんて。
ここを出て行くなんて選択肢は否定して欲しかった、だなんて。
我ながら身勝手すぎて吐き気がする。

ぶるぶると瘧か何かのように手が震えていて鏡台に並ぶ瓶を上手く掴めない。小分けにするのが面倒で化粧品一式そのままを鞄に突っ込んで出張に出た過去の自分を恨みたくなる。
仕方なく腕をスライドさせて台に乗っているボトルをそのままバッグに流し落とそうとして、後ろから腕をぐっと掴まれ止められた。バランスを崩した瓶やプラスチックのいくつかが音を立ててその辺りに転がる。
咄嗟に振り向こうとするも、そのまま後ろからきつく抱き締められてしまった。

「さつき、悪い、悪かった。俺は汝をいらんくなったなんち思うちょらん」
「や…!」

身を捩るようにして桐野の拘束から抜け出そうとすれば、一層力が強くなる。

「出て行って欲しいなんち思うちょらん」

バランスを崩しふたり一緒に倒れ込んでしまったが、起き上がろうとしたさつきの両手を咄嗟に桐野が畳に縫いつけるようにして押さえ込んだ。
しかしその片手がやがてさつきの頬を包むと、コツ、と額と額が軽くぶつかる。
そのまますぐに額、こめかみ、目元、頬と唇の端と唇が降り、気がつけば抵抗どころか畳上に放り出されていた手は桐野のそれに添えられていて。こんな風に反応するまで心も身体も拓かれているのに、

(離れられる訳ない……)

出て行ける訳がない。

ほんの僅かな間であっちへこっちへと気持ちが二転三転する自分が情けなくて涙が零れた。
それを舌ですいと掬われるや、

「また泣かしてしもうた…こげん時汝の世界ところの男は如何する?何と言う?」

さつきと呼ぶ声には色濃い寂しさが籠っていて思わず桐野の頬を包んだ。
鼻先で桐野のそれを軽くこすれば、伺うかのような仕草で唇が唇に触れる。

(様子なんて見なくったって…)
いいのに。いつもはそんな事しない。
確認する事はあっても、この人がそんな迷いを見せるような事は今までなかった。
(…私が振り回してるのか) 

「元の世界の男の事なんてどうでもいい。きぃさんは好きなようにしていいんだよ…?」
「何?」
「私の事なんて考えなくていい。桐野利秋は自分の思うようにすればいいの」

「ね、…私だけじゃなくてさ、他に女の人作りなよ。……さとさんに来てもらお?」
「ちゃんとあなたとバランスの取れる人に来てもらおうよ」 

そこまで言って、黙り込んだままでいる桐野と視線を合わせていることができず、さつきは顔を逸らしてしまった。
本当に卑怯だ、こんなやり方。
この後に及んでもまだ桐野を試そうとしてる。…でも半分は本音だった。

「…もう一度、俺の目を見て言え」
桐野の聞き慣れない地を這うような低い声に体が固まる。答えられずに沈黙を守ると、顎に指を掛けられ無理に目を合わされてしまった。

「さつき」
「………」
「もう、そげん事せんでよか」

『もう』…?

さつきは驚いて目を瞠った。
もしかして、桐野はさつきが彼を試した事に気がついていたのか。さっきのも、今のも。
きつく目を閉じれば酷い羞恥に苛まれた。
(やだ、もうやだ。いっそ消えたい)
浅はかに過ぎた。ここの人たちの勘の良さは辺見で知っていた筈なのに。
(きぃさんが気付かない訳ないじゃない)
本当に桐野の顔を見ていられなくて固く瞳を閉ざす。
(怖い)
桐野から軽蔑されるのも、嫌われるのも。もういいと否定されるのが酷く怖い。
(…私、勝手すぎる)
本当に。自分が桐野を試しておいて、桐野に自分を否定される事を恐れるなんて。ずっと面倒をかけ続けた挙句こんなの、本当に愛想を尽かされたって仕方ない。
面倒なんて思っていない。この前はそう言ってくれたけれど…
(ああ…)
また同じ事を自分の中で蒸し返そうとしている。桐野が自分が桐野を信じていないと感じるのはこういうところなんだ…
(でも、私きぃさん事信じてるよ?)


…じゃあなんで桐野の気持ちを試すような真似をするの?

ふと頭を擡げたもうひとりの自分が静かに自分を嗤う。

どうして桐野の言葉を素直に受け取れないの?確認するような真似をするの?桐野の為にと、傷つけたくないと思って取る行動が桐野を益々傷つけるって、どうして気付かないの?

(………)

桐野を信じてもいない。桐野の為でもない。
全部全部自分自身の為じゃない。

(違う!)

違わない。だってさつき、本当に出て行く気があったらもっと早く出て行けたでしょう?そうしなかったのはここにいる方が楽だから。黙って桐野利秋に愛されてさえいれば楽に暮らせるから。結局自分のため、自己保身でしょう?違うの?
それに信じられるの?言葉もなく自分を凌辱した男の事を。本当に?言ってたじゃない。信じてない訳じゃないって。それって信じてない事と同じじゃないの?

「…あ…っ…、ちが…っ」

空気が上手く吸えずに、息が荒くなる。
信じてる。なのになんで試したのか。信じていて好きなのにどうしてそんな事をしたのか、分からない。…信じてるの?本当に?分からない…どうして?分からない分からないわからない……

「…さつき」

いつの間にか流れていた涙でぐしょぐしょになった顔で桐野を見れば、すっと手が伸ばされた。剣だこと傷でごつごつした掌が頬を包む。
視線が絡めば桐野はふっと微笑んだ。
ゆっくりと近付く唇を受け入れれば、少しだけ胸中の蟠りや自分への嫌悪が解かれる。

「よか。気にするな。汝が己を守ろうとするんは当然のこっじゃ」
ごし、と親指の腹で目尻を擦られて思わず目を閉じる。
「俺をどれだけ試しても答えは変わらん。じゃが…偶に言葉を間違う。悪かった。汝がおらんくなればなんち一度も思うた事はなか」
静かな声に応じて見上げれば輪郭が分からない程ぼやけた桐野の顔があった。

「汝は俺とおるのは嫌か?」
そんな訳ない。
そう伝えたくても唇がわななくばかりで声は形を為さず、桐野との間には沈黙が落ちるばかりで。
その沈黙を、どう受け取ったのだろう。
「…こげん事、こいで終いにせんか」
溜息を落とすように桐野が告げた。この人は何か悪い事を言おうとしている。そんな気がして心が凍りついた。

「共にな、」
一緒にいられると思ったけれど、泣いたり苦しんだり、辛い思いばかりするのなら、もう関係を切る事を視野に入れるべきかもしれない。互いの為に。
「如何したいかは汝が決めたらよか」
しかしそれをどうするかは、さつきの好きにすればいい。結論がどうであれそれに従おう。


その桐野の一言で、何かが弾けた。

「……ひ…っ」

喉の奥に引っ掛かった音が、辛うじてひとつ転がり落ちる。
しかしそれも後が続かず、どんっと拳で胸か肩の辺りを殴りつけるようにして叩いた。
桐野が驚いた顔でこちらを見つめて来たが、構わずどん!どん!と、抗議をするようにして力任せに打った。

「ひ、ひどいっ…よ…!き…さんが、わたしのこと…っ、こんなにしたのに…!」
桐野にしか反応しないようにしたのに。

いや、酷いのは自分だって同じだ。何度も迷って桐野を試して、挙句の果てにこんな事まで言わせて。
自分を棚に上げて桐野だけを責めるのは間違っている。それは分かっているのに、止められなかった。

「それなのに!今更『好きにすればいい』はないよ!」
「…ああ」
「…っ、ちが、違う、ごめっ、ごめんなさ…っ…、ヤだ、どこにも行きたくない」

起こした行動も言っている事も思っている事も、何ひとつ噛み合わずめちゃくちゃで、ごちゃごちゃの頭の中、ぐちゃぐちゃになっている心の中、自分でも何を言っているのか分からなくて、でも音になった言葉は全てありのままの正直な想いだった。
こんな揺れ幅の大きな気持ち、自分でも持て余して困惑してしまう。桐野だってきっと同じだろう。

「私だってあなたがいないと困る!あなたじゃないと意味ない!だってこんなに好きなのに!現代に…かえ、帰れなくてもいい」 

それなのに目の前の男は何も言わず、ただ黙ったまま支離滅裂な言葉を聞き続けてくれた。

「……はなれたくない……」
「ああ」
「私自分勝手で我儘だよ?…それでもい?」
「ああ」
「またきぃさんの事試すかもしれないよ?」
「ああ」
「…他のヒトの所行かないで…」
「ああ」

「…この先も俺といるか?」

正面にある顔を見上げれば、この状況に不釣り合いなほど爽やかに桐野は笑っている。
勝利を目の前にした、それこそ勝者そのものの笑顔だった。
本当に酷い男だと思う。でも、こんな酷い人が今は好きでたまらなかった。

「…いる」
「ああ」
「これからずっとだよ…?」
桐野は笑った。こっちは泣いているのになんでそんなに笑っているのか。憎たらしくて余計に涙が流れた。  

「私をこんな風にした、せき、せきにん…っ…とって…!」
「――ああ」  

かきいだくように桐野の首元に腕を巻きつければ、きつく背を抱かれた。
そのまま首筋を唇が登るように滑り耳朶を甘く食まれて体を捩る。

「…喜んで」

耳にダイレクトに注ぎこまれた声に、体が震えた。


(12/03/03)(11/10/16)