40.決心する





その日はダメもイヤも聞き入れて貰えず、泣いても桐野は止めてくれなかった。
桐野は酷く意地悪で、散々啼かされながら篠原と何を話したのかとか、本当に出て行くつもりだったのかとか、この数日であった事や思った事を洗い浚い吐かされた挙句、「言いたい事は言う」とか、「気になる事は些細な事でも聞く」とか「どこにも行かない」とか、そんな事を何度も約束させられた。

雨戸が空いている為部屋には明るい日差しが降り注ぎ、既に太陽が上がっている事を知る。
いつもならもう起きて屋敷の人間と顔を合わせている時分だろうが、指を動かすのも億劫でさつきは夜具に横たわったまま隣に座りなおした桐野を見上げた。
ぱちりと視線が合う。

「しごと?」
「否。休む」
「そう…」
そのまま体を丸めると桐野が剥き出しになっていた肩まで寝巻きを引き上げてくれた。
「何?」
意外そうな表情を見せる桐野に問えば、「休むなと言われるかと思った」と。普段ならきっとそう言った。でも。

「…今日は一緒にいられたら嬉しい」

本当に小さな声であったけれどちゃんと届いていたようで、桐野は途端に破顔した。

(……ああもう、)
そんなに嬉しそうに笑うのは止めて欲しい。何となく気恥かしくて背中を向ければ、
「さつき」
名を呼ばれたが無言を貫くと、桐野が覆いかぶさるようにして夜具に手を付いた。
「拗ねるな」
(拗ねてないし)
そのまま掛けられた着物を抱き込むようにしてさらに体を丸めたさつきを見て、桐野はくつくつと笑った。
頬に唇があたる。

「ムリ。誰かさんのせいでもう動けません」
「汝な俺より若いじゃろうが」
何を言い出すのだこの人は。現代人の体力のなさを舐めないで欲しい。
「好きにしてよかちお墨付きバもろうたでな」
言った。確かに言った。けど。

口答えするより先に桐野が不埒な手つきで太腿を撫で上げたが、さつきにはもう抵抗する力も気力も残っていなかった。
「…っ、…も、ホントに」
無理、と紡がれる筈だった音は桐野の口内に飲み込まれていく。
そのまま片方の指に指が絡み、それに応えるようにして少し力を入れると痛いくらいに握りこまれた。どこで桐野のスイッチが入ったのか分からないまま、仕方ないと目を閉じた時。

「おはようございます、さつきさ…」

スッと開いた襖はそのままピシャンと勢いよく閉められてしまった。

(助かった…)
寝巻を体の一部に引っ掛けただけのあられもない格好で、とんでもない場面を見られた気がするが今は恥ずかしさよりもそちらの方が勝った。
桐野と言えば全く気を殺がれてしまったようで、ごろりとさつきの隣に寝転がる。
「…ふ、はは。志麻に助けられたな、さつき」
しかしぎゅうと抱え込まれるように抱きしめられたと思うや、桐野はすぐに体を離して起き上った。

桐野が起きるのならだらだらはしていられない。
そう思いさつきも身を起こしたが、体は中々言う事を聞いてくれずのろのろとしか動かなかった。
「ヨカ。寝ちょれ」
くしゃりとさつきの髪を掻き混ぜると桐野はひとつ笑いを落とす。
「メシも運ばせるからな、汝は部屋から出るな」
(出るな?)
おかしな言い方だと思いはしたが、素直に頷くとさつきはそのまま横になる。それに満足したように微笑すると、すぐ戻ると言い置いて桐野は部屋を後にした。



(自分の身体じゃないみたい)
気だるくて、何かを考えるのも煩わしい。でも桐野と約束した事だけは鮮明に思い出せて、さつきは寝巻きごと夜具を頭の上まで引き上げた。
柔らかな空気に囲まれた小さな空間の中で、何時間か前に桐野に乱暴に投げつけた言葉がぐるぐると頭の中を回っている。

どこにも行かない。
ずっと一緒にいる。
帰れなくてもいい。
(…帰らなくてもいい)

それは自分にとってはとても恐ろしい宣言であったけれど、桐野の顔を見て声にしてしまえば不思議と腹が決まった。
そして桐野もそれを受け止めてくれた。それだけで十分だと思う。
もう歴史がとか、そんなことは考えない。一緒にいる事だけ考えればいい。

(これからはここで生きてく)

ぽつ、と一滴落ちた決断は、明るさや暖かさといったまばゆさを伴ってゆるやかに心に広がって行った。

(きぃさんならきっと大丈夫。きっと私を守ってくれる。それに…)
自分も桐野を何かから守ってあげられるような、そんな存在になれたらいい。

布団の海に手を滑らせて桐野が座っていた所を確認すればまだほのかに温かさが残っていて、さつきはそちらにころんと転がった。

(スマホとか、ウォークマンとか)
この時代にあってはならない物は全て壊して処分してしまおう。
驚くほど自然にそう思った。
もしかしたら戻れるかもと心の片隅にあり続けた思いも、その時全部一緒に消してしまえたらいい。


暫く寝転がってもぞもぞしていたが、桐野が戻って来る気配がない為布団を上げて着替えることにした。
帯を締めるのが面倒でシャツに手を通し、ズボンをはく。髪は無造作に手櫛で整え後ろでひとつにした。
(朝ご飯運ばせるって言ってたけど)
病気じゃないのだ。動けない訳でもない。
朝の忙しい時間に志麻にそんな事を頼むのもどうかと思い、さつきは部屋を出た。

「おはようございます」
「…おはよう、ございます」
しかし。
水場に向かう途中で何人かの書生と挨拶を交わしたが、決まってみんな気まずげに顔を逸らしてそそくさと行ってしまう。
不思議に思いはしたけれど追求する気も起らず、そのまま歩を進めたのだが。

「辺見さん、おはよ」
「………」
顔を合わせた辺見は絶句するなり羽織っていたジャケットをさつきの肩に掛けてきた。
「…え、なんで…?」
しかし辺見は返事をせず、ひとつにしていた髪はゴムを引き抜かれて肩に下ろされてしまった。


「まだ人前に出るな」
「え?」
「…汝な…」

気だるげで声が酷く掠れている。
明らかに事後だと分かる雰囲気で、しかも鬱血跡や薄い歯形が首筋や鎖骨にくっきりと残っていた。
「目の毒じゃ」
辺見はご丁寧にもジャケットのボタンを閉じてやりながらそう言った。

幾ら顔見知りしかいないと言っても若い男ばかりの屋敷でこの姿は不用心に過ぎる。
さすがにこの屋敷で桐野の恋人に手を出す者はいないだろうが。
辺見はそう言おうとして止めた。
いつものさつきは気遣いのないだらしなさは見せない女だ。今の自分の姿にまで本当に気が回っていないのだろう。

「…仲がええんはヨカこっじゃがな」
苦笑いして見せれば、目の前の女は軽く首を傾げた。
「跡」
辺見は自分の首筋や耳の後ろを指すと、
「あ…きぃさんが部屋から出るなって…」
「部屋に戻れ。志麻を行かせるでジャケットは返してくれ」
何も言わずにこっくりと頷いたさつきの背を押した。

(部屋から出るな?そりゃそうじゃろう)
自分の女のこんな姿、桐野でなくても他人に見せたくはない。それにこれは想い人同士でのみ許される姿だと思う。

「あ…辺見さん、…あのね」
しかしさつきは何かを思い出したように振り返った。

「ずっとそばにいる、どこにも行かないって約束したの。…私もう大丈夫だから」
「そーか」
「うん」
「よかったな」
「うん…ありがとう…」

早く戻れと追い払うように手を振れば、さつきはもたもたした足取りで来た道を引き返して行った。


「………」
その姿を見届けてパリパリと頬を軽く掻くと、今なら志麻はそこにいるだろうと辺見は水場へと足を向けた。
「どうかされましたか?」
「ああ」
彼女が膳を用意しているのを見て奥へ行くのかと尋ねれば果たして志麻はそうだと言う。
辺見はジャケットの事を頼むとそのまま立ち去ろうとしたのだが、ふと。
確かさつきは志麻にも負の言葉を吐いていた筈だ。

「…志麻」
「はい?」
「あんふたりな落ち着く所に落ち着いたごたる」

そう言えば、志麻はほっと息を吐いて綻ぶように笑った。


(12/3/9)(11/12/31)