5.憂慮する





「風邪ひくぞ」

机に向かいうつらうつらしているさつきの肩を右手で軽く包むと、思いもよらない大袈裟な反応が返ってきた。
辺見は別に驚かすようなつもりはなかったのだ。今のだって、いつもの声かけの範疇を出ないだろう。
そこまで驚かれたことに寧ろこちらが驚いてしまう。
こんな反応、今までなかったものだ。辺見を誰と思ったのだろうか。
しかし振り向いてさつきがこちらの顔を認識するや、その体からはあからさまに緊張が抜け、

「おかえり」

口元がゆっくりと三日月を描いた。
いくばくかホッとして「おう」と返すと、辺見は驚いた事を誤魔化す様にそのままさつきの頭をくしゃくしゃと掻き混ぜたのだった。抗議の声が聞こえたけれど、それは無視した。

(…いつも通りじゃな)

表情に出さないように辺見はそれとなくさつきの様子を窺う。
先程振り向いた彼女の目の奥には怯えの色があったから。尤もそれはすぐに消えたのだけれど。
しかし、
「…寒いか?」
袖から見える腕は粟立ち小さく震えているのが分かる。腕を取って軽く袖をめくろうとすると、

「いやっ」

ぱしっと派手な音が部屋に響く。
弾かれた自分の手を見つめると、辺見は流石にさつきを凝視してしまった。

「…如何いけんした?」

いくらなんでも様子がおかしい。 

「…あ、ごめん、ごめんなさい」
「いや、俺も無神経じゃったな。悪い」
「違うの、ほんとにごめん。ちょっとイライラ?してるだけ?」
「生理か」
「死ね辺見死ね」

酷い返事に辺見は苦笑いしたものの、さつきの顔を覗き見るとおもむろに脱いだ近衛のジャケットをさつきに被せた。

「え?寒くないよ?」
(んにゃ)、着ちょれ」

笑っているつもりなのかもしれない。
しかし辺見からすればさつきは全然笑えていなかった。本人は気が付いていないようだが。
そう言えばと辺見はふと思う。
苦笑いにしても何にしても、以前のさつきの笑い顔にはもっと明るさがあった。
(何かあったか?)

「着ちょれ。…汝を見ちょる俺が寒いんじゃ」
「え?」

いつからこんな空疎な笑い方をするようになったんだろう。





「こちらです」

案内された部屋の障子をからりと滑らせると、奥に別府を見つけた。
向こうもこちらの姿を認めたのか、軽く片手を上げる。
声をかけてくる同僚達を適当にあしらい、その間を縫って別府の隣に陣取ると、

「おら、駆け付け三杯」

首元を緩める前に杯を持たされた。
座を見渡せば若い薩摩の士官ばかりで、桐野や篠原国幹といった年長者は見当たらない。

「別室じゃ」
「別室?」

年長者がいると騒げないだろうという配慮のようで、初めに顔を出したきり。
恐らく適当に切り上げて黙って帰るのだろうと別府は言った。

「若い芸者()が争って向こうに行っちょったが…」
そこでふっと笑う。

「家にゃさつきがおるでなぁ。兄は料理に箸バ付けたらすぐに帰るじゃろ」
「…そうか」
杯に口を付けたまま少し考える風を見せた辺見に、別府が動かしていた箸を止めた。

「如何した?」
「さつきから何か聞いちょっか?」
「さつきから?」

言葉を返す様子から、辺見は別府が日頃自分程さつきと接していないことを思い出し、無理もないかと息をつく。


あれから辺見はしばしばさつきの様子を伺っていた。
桐野といる時は若干のぎこちなさを感じるけれど、態度は誰に対しても今までと変わらない。
そして話し掛ける際不用意に肩や腕に触れても、前のような拒絶はされなかった。
しかし話している途中にぼんやりして返事がないということは増えていたし、やはり笑い顔は以前とは少し違う。
また屋敷の者に聞けば日中にうつらうつらしていることも多いようだった。

拒絶された件は省いたものの、辺見は最近さつきに感じている違和感を掻い摘んで別府に伝えると、
「……」
「……」 
暫く落ちた沈黙の後、別府はがしがしと頭を掻くと言いにくそうに口を開いたのだった。

「なぁ辺見。そん様子は情人(おとこ)がおるんなら自然じゃねじゃろか。部屋も隣、寝る時も一緒じゃち聞いた」
付き合う人間が出来たなら、生活や対人関係に多少の変化は起きてしかるべきだろう。
「そいに…」

周りからすれば、恋愛の様子のなかったふたりは何の前触れもなくいきなりさつきの部屋の移動から始まった。
ふとした時にさつきの視線が桐野を追っていることを知り、その様子を見ていて辺見は薄々そうかと思っていたのだが、それでも驚いた。
そして別府でさえその唐突さに驚いたのだ。
ましてや彼等ほどさつきと接触しない住み込みの書生や屋敷に出入りしている女などは言うを待たないだろう。
さつきと彼らの関係は良好ではあるが、もしかしたら口さがない事を言われているのかもしれない。
しかし、もしそうだとしても、それはさつき本人が解決しなければどうしようもない事だ。

「ああ、そうじゃな」
辺見だってその位は分かっているのだ。
そして、別府の言う通りもし男女の事が原因なら部外者があまり口出しすべきではないことも。
第三者が首を突っ込むと余計にややこしくなる恐れがある。
辺見は別府の前では納得したように相槌を打った。
しかしそれでも、あの何気ないやりとりで「怯えて震える」ということだけには納得できなかった。

「俺が言う事こっでんなかっちゅう事はよう分かっちょっど。じゃっどん偶にでヨカ、さつきの様子ば見に来てくいやい。別府になら話せる事もあるじゃろ」

あの屋敷の中でさつきが怖がるような状況があるのだろうか。
それは分からなかったが、もしかしたら辺見に話せない事もあるのかもしれない。
杞憂ならそれでいいのだが、言い方は悪いが、さつきにも捌け口になる場所位はあってもいいだろうと思うのだ。それには多分、別府が一番良い。

「………」

辺見の話を聞きながら、別府は先日のさつきの様子を思い出す。

(…そういやわっぜ痩せちょった、ちゅうか窶れちょったな)

思わず大丈夫そうだと本人には言ったものの、あの様子を見て少し驚いたことは確かだ。
普通なら今は一番幸せな時ではないだろうか。
控えめな片思いが叶ったにしては、別府の眼にはさつきは全然幸せそうには映らなかった。

「勝手な頼みで悪いが、…別府?」
「…ああ、構わんぞ」

その日は辺見も別府も溜息の混じる杯を重ねたのだった。


(11/5/30)(11/4/19)
桐野が来ると若い芸者が争ってお座敷に出ようとしたそうです。