「上着すぐにお持ちしますね」
辺見と別れさつきの部屋の前に立つ。志麻が中に声を掛ければ、すぐに襖が開いた。
膳を運び込もうとしたところでひょいと隣から伸びて来た手に攫われてしまう。見上げれば桐野がいた。
「手間ば増やして悪かな」
「いえ」
辺見の言葉を思い出しにこっと笑えば、昨日の事もある。その笑みの意味が伝わったようで桐野も笑った。
「…ふたりともどうしたの…?」
しかしそれについていけず言葉を挟んださつきの姿を見たふたりに沈黙が走る。
「いや何も」
「いえ何も」
「えー…?」
「さつきさん、あの、」
「あ、辺見さんの…ごめんね、お願いします」
「辺見?」
志麻が一礼して去ると膳を持ったままの桐野に話し掛けられた。
「部屋から出たんか」
「あ、えと、そこで会って…目の毒って」
声を上げて笑った桐野にさつきがほっとした表情を見せると、「そげんこっでは怒らんよ」と。
「じゃっどん出るならもう少し首が隠れるもんを。周りが目の遣り場に困る」
「誰のせいですか…」
桐野の手から膳を奪って食事の用意をしたのはいいが、今、白米に味噌汁というガッツリした朝食を食べるのはさすがにきつい。
「食わんのか」
一口二口箸を付けただけで食が進まないのを見咎められても「ちょっと」としか答えられない。
指摘されればいつもならもう少し食べようと思うが、そんな気も起らなくて結局さつきは箸を置いてしまった。
(ミルクの入ったコーヒーとか…)
少し砂糖を入れた紅茶だとか、今はそんな物が欲しい。
美味しくないと思いながら飲んでいた安物のインスタントコーヒーやティパックの紅茶でさえもう口にすることがないのかと思うと、少し気持ちが湿った。
(あー…やだやだ思い出しちゃダメだ)
現代では当たり前の嗜好品。自分が元いた場所。
…家族とか友達とか。
思い出したくない時ほど鮮明に脳裏に浮かぶのはなぜなのか。帰らなくていいと思ったところなのに、よりによって今、桐野の前でホームシックとか。
「…………」
「さつき?」
唐突ともいえる不審な様子に、とうとう桐野が食事の手を止めてしまった。これではいらない気を回させてしまうとさつきは口角を上げたけれども、
「何でも、ない」
発した声は酷く硬くて。「もう少し横になるか」、とさつきが返事をする前に桐野が膳を脇に寄せた。
「無理をさせた。疲れたな?」
疲れたからこんな風になっているのではないのなんて、桐野は百も承知だろうに。
顔を上げると目の前の男は苦笑した。
「…そげん情けなか顔バするな」
何も聞かないで労ろうとしてくれる優しさが心に沁みる。
「きぃさん」
「ん?」
「あのね、私、…ここでひとりなの。家族も親戚とかも誰もいなくて、幼馴染とか友達もいなくて、私が住んでた世界知ってる人もいなくて…」
「………」
「この世界では、私には本当にあなたしかいない」
それはもう、色んな意味で。
「……あの、それでね、…」
思う事をどうすればきちんと伝えられるのか分からなくて言い澱めば、桐野が被せるようにして後を引き取った。
「寂しゅうなったか?…ほら、こっちに来い」
体を寄せると後ろから抱え込まれ背中を桐野の胸に預けるような姿勢になった。そのまま腰に手を回される。
「汝のおった世界はどんな所じゃ」
突然今まで聞かれた事がない話を振られ、思わず振り返った。
「私の…?技術が発展してて…住みやすい所かな。いいところも沢山あるけど時間が流れるのが早くて…みんなすごく忙しくて疲れてて、こんな風にゆっくり過ごすなんて中々できない。でも、すごくいい所だったよ」
「帰りたいか」
「………」
「帰りたいじゃろうなあ」
故郷は特別だろうから。
「汝ないきなりここに連れて来られたち言うとったじゃないか。家族なんかと別れる覚悟も心づもりもなかったんじゃろう。寂しゅうなるのは当たり前じゃ」
「うん」
「じゃがな、どれだけ寂しいち泣かれても俺はもう汝を帰す気はなかぞ」
「…うん」
きゅうと桐野の指を握れば、その上に更に手が重なる。
「な、もうひとりかふたり増やすか」
「え?」
「家族」
噎せた。
「そうすれば汝も寂しゅうないじゃろ。前に一度できたかち思うた時があったんじゃが、ありゃ違うたようじゃったし」
首を傾げた桐野に、げふっと変な咳が出た。
あの時の自分の様子を見ていてそう思ったのは志麻だけだと思っていたのに。
言えない。
薬を飲んでいるから、どんなに頑張っても子供は絶対に近い確率でできないなんて言わない方がいい気がする。
「………」
「――さつき、汝なまだ何か隠しとるじゃろ。…………だんまりか。よし」
桐野がにやりと笑った気配に身を固くすれば、
「きゃあああああ!止めて!こそばい!きぃさんこそばい!言う!言うから!」
「……薬?」
息も絶え絶えに肯定すると、桐野は眉を顰めてこちらを伺ってきた。顔に心配が浮いている。
「いつ飲んどったんじゃ。全然気が付かんかった。否、それよりどこか悪いんか」
(…あ)
さつきは首を左右したが、そうか、普通は薬を飲むイコール病気だ。
「どこも悪いところはないよ」
「ならそん薬は必要か?飲まんとならんのか?」
別にそんな事はないし、もうそろそろ薬もなくなるのだが、「うん」と即答すれば「ソーカ」と憮然とした声が返る。
桐野としては短期間にあれだけ頻繁に身体を重ねた女が妊娠の兆しさえ見せなかったのが不思議だったらしい。何かぶつぶつ言っていたが男の都合の様だからあえて聞かなかった。
でも確かに桐野が訝しがるのも無理はないかもしれない。
だって。
(ゴムもないみたいだし…一回ヤっただけでデキちゃう事もあるだろうし……あれ?てゆーか…)
避妊ってどうするの?
思わず桐野を振り返った。
「
…ゴムない。
何回思い出しても今まで避妊らしき事をしていた覚えがない。
桐野の口ぶりからしても、経口避妊薬なんてまだ存在していないのかもしれない。
という事は、だ。
(え、何?もしかして避妊方法って外に出すだけ?)
ってそれは既に避妊じゃないし。
「さつき?」
ちょっと待ってちょっと待って。
「………きーさん…今迄どの位の人と寝た?」
「げほっ」
珍しく桐野が焦ったように咳き込んだ。
「ね、きぃさん、どこかに子供がいるんじゃないの?」
「おらん」
「ホント?本当の事教えて下さい」
「本当じゃ。幸か不幸か、な。…幸の方か。おったら汝なその女呼べとか、また黙ってどこかへ行こうとすっじゃろうからなあ」
「……きぃさん、子供欲しいんですか?」
それは素朴な疑問として口にしてみたのだが、
「今は子供より汝じゃな」
ふと。
(なんか)
酷く滑稽な事を聞いている気がする。順番があれこれと飛び過ぎてる。
というか、もの凄く重要なキーワードをスルーした。
(家族…)
そうだ。
どこにも行かない。一緒にいる。
そう言った。それは自分にとってはこの屋敷から出て行かない、現代にも帰れなくていい、そういう意味合いが強かった。けれど。
――もうひとりかふたり増やすか
――家族
家族とか子供とか……ずっと一緒にいるとは、そういう事だ。
(…………)
ぽつ、ぽつ、と今までとは違う温かさで心に灯がともる。
(この人に逢う為に明治に来た)
以前桐野に言われた言葉がすっと心に浮かんだ。本当にそうかもしれない。
多分、もう元の世界へは戻れない。
ここまで事態が進んでさつきはやっと確信した。確かな証拠など何もないけれどそんな気がする。
大切な人たちとももう金輪際会えないのは寂しくて辛くて悲しい。
自分がいた世界のついては誰とも共有できず、自分の中だけに納めておかなければならない。時代間のギャップで分かりあえない価値観だって沢山ある。
そういう意味では篠原が言った通りさつきは永遠に孤独だ。
(でも篠原さん、きぃさんが私の事を『家族』だって)
聞いていた自分が気付かないほど、驚くほど自然に桐野の口から出た言葉。
元いた世界を忘れる事なんてできないし、寂しさだってきっと消える事はない。
しかしそんな風に桐野が自分を受け入れてくれるなら、寂しさや孤独の穴は少しずつ埋まって行くのかもしれない。
さつきは体を捩ると、横抱きされるように桐野の膝に座りなおした。
すり、と頭を桐野の胸に摺り寄せて凭れれば、静かな笑声が降ってくる。
(神さま…この人のこと、本当に、本当に大切にします)
何もかもを失うことで得た人だ。
さつきは桐野の背中に手を回すとしがみつくようにして抱きしめた。
「今日はえらく甘えたじゃなあ」
桐野は笑ったけれど構わずにそのままでいるとその笑いも止んだ。
「がんばるから。ずっと好きでいてもらえるように、飽きられないように嫌われないように、私がんばるから、だから」
「お?おいおい…」
桐野は少し驚いたようだったが、しかしすぐに柔らかく破顔し、何かを言い掛けた時。
「あの、先生!ちょっとええですか」
酷く遠慮がちに外から掛けられた幸吉の声に、桐野がぞんざいに返事をした。今日は部屋に近付くなとかそういう事を言っていたのかもしれない。
しかし幸吉が部屋の前から動いた様子はなかった。彼は元々気が利く、空気の読める子だ。いつもなら無理を押して桐野の意に反するような事はしない。
もしかしたら何かあったのかもしれない。そう思い、
「幸吉君困ってるよ。出てあげて」
さつきが膝から降りて促せば、桐野はしぶしぶと言った体で腰を上げた。
(12/3/14)(12/01/14)
夢主が知らんだけで避妊薬は江戸時代からありました。利き目はなかったようで避妊より堕胎の方が重要だったみたい。避妊具もあったけどまあ実用的ではない。日本でゴムが普及し始めたのが明治終盤。大正期には海兵卒業前にゴムの使い方教わった人たちもいたそうです。ちょw海軍ww