42.到来する





「来るな言われてたのに、えろうすんまへん」
んにゃ、ヨカ。そいより如何した?」
「それが…、……」

桐野が廊下に出るや幸吉は耳打ちするように小声で用件を伝えた。

「…そうか」
「はい」

近い内に来る。分かっていたがそれが今だとなると、桐野は溜息を吐きたい気持ちになった。
この暖かで怠惰な空気の中でもう少し時を過ごしたい。ふと部屋の中を見ると気が付いたのかさつきと視線が合う。向こうが柔らかく笑うからこちらも思わず微笑った。

「先生」
呆れたように催促した幸吉を、
すぐに(いっき)行っで先に行っちょれ」
先に送りだすと襖を閉め、さつきの前に座り直す。

「何かあったんでしょ?行かないと」
それに答えず顔に少しかかる髪を手櫛で梳いてやれば、さつきは気持ちよさげに目を閉じた。
(離れがたいな)
本当に苦笑してしまう。幸吉に呆れられるのも仕方ないかもしれない。

「さつき、さっきの話だがな、俺こそ幸吉に『捨てられるな』ち言われたぞ」
「捨てる?私が?きぃさんを?」
それはないと思う、と小さく続けたさつきに
「そうか?」
「え?うん」
「まあ…、俺も汝に飽きられんように気張らんといかんなあ」
「だから…それはないってば」
そう心底困った風に表情を作るさつきを目の当たりにすると、心の奥がふわりと温かくなった。

(ああ、)
もう本当に大丈夫だ。
(本当に手に入れた)

「わ」
前触れもなく急に抱きしめたので少し驚かせてしまったが、桐野は構わずに力を込めた。

「どうしたの?」
背中に回された手が優しく背中で弾む。
「…子守唄歌ってあげようか」
思わず噴き出してしまう。
「そんなに笑わなくったっていいでしょ…」
「汝は可愛むぞかなー」
「もう!」
拗ねた口調に益々口角が上がる。これにどうして笑まずにいられるというのだろう。

「ねえ、ほらもう行かなきゃ。幸吉くんの立場じゃきぃさんに強く言えないんだから…下の人をあまり困らせたらだめだよ」
「………」
「なに?」
「…やはり汝がヨカ。誰にも文句など言わさん。どこにも行くな。ずっとここにおれ」

真面目な顔でさつきを見つめれば彼女は暫くキョトンとして、だがそのまま静かに頷いた。それを確認するやさっと立ち上がる。

「少し時間がかかるかもしれん」
「待ってる。どこにも行かない。ここでちゃんと待ってるから…行ってらっしゃい」

見送られて襖を後ろ手で閉めると気分を切り替える。そのまま居間に向かえば、数年ぶりに見る顔がふたつ並んでいた。

「こげん所まで御足労でございもす」
お久しゅうござりますと頭を下げた客人の前に桐野も腰を下ろした。




少し時間がかかるかもしれない。そう言っていた通り桐野は中々戻って来なかった。
平日だ。本来ならば桐野は出勤している筈でそれを自分が休ませている。幸吉が持ってきた用件は仕事関係で、もしかしたら出勤したのかもしれない。
(でも着物のまま行ったよね)
裁判所に行くなら軍服に着替えて行くだろう。
(ならお客さんかな)
そう思いながらさつきはあのまま放置されている膳を手にした。桐野がいない内に片付けてしまおう。それに何か温かい飲み物が欲しい。

「あ」
「志麻ちゃん、さっきはありがとう。それでね、えーと」

昨日の事がある。何と言うべきか少し言い澱んでいる間に志麻が湯飲みに茶を注いでくれた。どうぞと促されてそれに口を付ける。
「おいしい…」
いいものだ。普段飲んでいるお茶ではなくて志麻の顔を見れば、彼女は「出枯らしですよ」とコロコロと笑う。

板間に置いた膳を片付ける後ろ姿を見ながら、
(やっぱり誰か来てるんだ)
そう思い、何気なく誰が来ているのか尋ねようとした時、「志麻さん、手拭い何処や?」と水場に幸吉が飛び込んで来たのだった。

「手拭い?それならいつもの所に…」
ちゃうねん、いつものやのうて新しいさらの。先生、人殴ってしもて、それで」
「殴った?きぃさんが?」

思わず口を挟めば、物陰で分からなかったのか初めてさつきの存在に気が付いたらしい幸吉が心底驚いた顔をした。
そしてその驚き顔がすぐに困惑と戸惑いの色に染まる。

「幸吉くん、何があったの。きぃさん理由もなくそんなことする人じゃないでしょう?お客さん殴ったの?」
「い、いや、さつきさん、その」

殴った。
その言葉にふっと先日出会い茶屋で桐野と交わした会話が甦った。
「幸吉くん………ね、もしかして今来てる人」

村田さん?

口を噤んでしまった幸吉の様子にさつきは確信した。

「…いかなきゃ」
「えっ、あかんって…さつきさん!」

何かを考えるよりも早く足が動いた。
行ってどうするの?
そう思いはしたけれど、不思議と行かないという選択肢は浮かばなかった。
ぱたぱたと走るようにして廊下を行き居間の前に立つ。息を整える前に、そのまま襖を開けてしまった。
声もかけずに急に、それも勢いよく開けたからどの顔も驚いてこちらを見ている。

視界に飛び込んできたのは対面で座る桐野と初老の男性。その後ろには片頬を押さえた若い男性がいた。
あの日、浅草で会ったふたりだった。

――どうせあんたも男の知らん所で遊んでるんやろ
――幾らやったらええ?
――早う国に帰れ毛唐!この疫病神が

怖い……
ひずんだ言葉で殴られた心はどんなに慰められてもすぐに癒えるものではなく、あの日のあの場面を思い出すと、ふる、と背中が震える。
それが足に伝わって、部屋に入る事ができなかった。
その上何をどう言っていいのかも分からずただ無言に沈んだまま佇んでいると、桐野が助け船を出してくれた。
「ここに座るか」
桐野の少し後ろに座り自然な動作で指をついて頭を下げる。


「如月、さつきと申します」

声は少し震えた。


(12/3/19)(12/1/18)