43.決着する





「ゆ…許して下さい…」
「え?」
「さつき?」
「私、さとさんの事ずっと前から知ってました。知ってたのにこの人から離れられなかった。そちらになんて思われても、……ね、寝取ったって思われても」

仕方ない。
そう繋げれば目の前のふたりが息を飲んだ。

「でも…ごめんなさい……ごめんなさい、もうこの人のこと、さとさんには返せません」
「………」
「酷い事言ってるって、分かってます。何年も待ってたのに、わ、私みたいな」

私みたいな……娼婦みたいな?毛唐みたいな?疫病神みたいな?そんな女に…

(……………)
ぼろっと涙が落ちた。
(言えない……)

ぱたぱたと畳に染みができる。そんな風に思われているのに…そう思うと、どうしても目の前の人に向かってその続きが言えなかった。

「さつき」

震える背に小さな声と共にそっと桐野の手が添えられた時、 

「頭上げてや。あんたにはえらい悪い事したなあ…今日はあんたに謝りに来たんや」
思わぬ言葉にさつきは顔を上げた。

「先日はあんな人の多い所でうちのが酷い事言うてしもうて、ほんまにえらい申し訳ない事をしました。ほらお前も謝らんかい」

首根っこを押さえつけられ、頭を畳にすりつけるようにして謝って来る若い男。
確かあの日定吉と呼ばれていた男だ。
こんな風に土下座で平謝りに謝られるのは初めてで、当然ながら慣れていない。
どうすればいいの?困惑して桐野の顔を見れば彼は軽く頷いてそれを止めてくれた。
「さつき、あのな」
掻い摘んで桐野が今までの経緯を説明する。


村田が親類の用事で東京に来ていた事。
偶々上がった茶屋で新しい女ができたという桐野の噂を聞いた事。
空いた時間に観光で立寄った浅草で、本当に偶然桐野とさつきを見つけて定吉が声を掛けた事。

「ほんまは知ってましたんや」
「え?」
「桐野はんが戊辰の戦に出はった頃には、うちの娘とは終わっとった事」
「………」
「都におる時からこのお人はおなごにようもててな。噂も仰山聞いたけど、ほんまにようしてもらって、一番はうちの娘やと思うてましたんや」

さつきはマイナス感情の欠片もなく、村田の言葉に素直に頷いた。
そうだろう。ふたりきりで撮った写真をいまだに持っているくらいなのだから。
さと本人に会った事もないさつきですらそう感じたのだ。側で見ていた家族がそう感じない筈がない。

「桐野はんがおらんくなった時、うちのは『もうええ』と言うばかりで、どうして別れたか聞いても何も言わん。かといって他に誰か見つける訳でもなし、それが却って不憫でなぁ」
忘れかねている。
そうとしか思えなかったのだと。

「男女の事や。親が出る幕やないっちゅうんは分かっとるんやが」
どういう事か確かめたくても桐野がどこにいるか分からず、どうするかと頭を悩ませている内に桐野が東京に落ち着いたと知人から伝え聞いた。
とはいえ東京に向かうにも京都からでは時間がかかる。店もあるし、主人がそうそう留守にできるものでもない。
かといって手紙で聞けるような内容でもなく、明治も六年を過ぎてようやく上京できたのだと。

「どうしても桐野はんに会うて直接話を聞きとうてな。その話次第では無理にでも娘をこっちに来させるつもりで」

やっぱり…
(ここに来たのは親戚の用事のついでじゃなくて、親戚の用事がついでだったんだ)
上京した目的は桐野との面会だったと言っているようなものだ。
さつきに謝りに来たというそれだって、本当はついでだろう。

「けど、少し来るんが遅かったみたいや」

しかし、その言葉にはっとして村田の顔を見ると、彼は真剣な顔でこちらを見つめている。
射抜かれそうな視線に顔を逸らしたくなったが、それは辛うじて我慢した。
奥歯を噛んで少し顎を引く。膝の上で握りこんだ手に自然と力が籠ったのをどう見たのか、目の前の男は微笑した。

「如月さつきはん、あんたの話は今しがた全て聞きました」

全て…?桐野の顔を見れば、「差支えない所だけな」、と。

「それ聞いたらもう”寝取られた”なんて思えんくてなあ。そもそも娘とこのお人はもう終わっとったんや。寝取ったんとはちゃうやろ?自分でそんな事言うたらあかん。それに話を聞いとると、どうも桐野はんの方が…」
「…………」

(え…?)
一体どういうこと?

一体桐野はどういう話し方をしたのだろう。
いや、それよりも村田の言い方はさつきが桐野の隣にいる事を認めてくれているような口振りで、さつきは酷く混乱してしまった。

暴言に対する謝罪は分かった。それはもういい。
しかしさつきへの謝罪と桐野との事はまた別の話の筈だ。それはそれ、これはこれ、だろう。
桐野との関係で罵倒されるだろうと覚悟して来たのに、予想の上を行く展開にさつきはいまいちついて行けず桐野の袖を引っ張ろうとしたのだが、

本当ほんにすんませんでした!何も知らんのに勝手な事ばかり言うて、腹切れ言われても仕方しゃあない思てます!なんて言ってええか、ほんまに」

突然の、再度の定吉の謝罪にびくぅっとして思わず桐野の背に縋ってしまった。
「さつき、こら」
涙目で見上げれば桐野が苦笑する。

「あ…も、もういいんです…だって」
目の前の男の片頬は見事としか言いようがないほどに腫れ上がっていた。
「きぃさん、殴ったりしないでって…言ったのに」
桐野の背中で小さく不満を漏らせば、そうだったかと生返事が返ってくる。
「…私のせいで、ごめんなさい」
そう告げると村田も定吉も驚いた表情でさつきを見たのだった。

「あんた、あんなえげつない事言われたのに『ええ気味』やとか思わんのか」

さつきだって普通の人間だ。全くそう思わないと言ったら嘘になる。でもそれ以上に
「本当にすごく痛そうだから…」

どれほど強く殴られたらこれだけ形が変わるのだろう。
その顔を目の当たりにしてしまうと、留飲を下げるどころかもう気の毒としか思えなかった。
それに桐野が強く庇ってくれた、それだけでもう十分に思えるのだ。

「だから、もういいです」
重ねて村田に詫びの品などを用意したいのだがと問われたが、もう謝ってもらったしそもそも何か欲しい訳でもない、何も要らないと答えれば、

「こんな人おるんやな…普通こんな時は吹っかけてでも貰うもん貰とくもんやで…」
溜息と共に定吉が言葉を吐く。

「…こういう人を選ばはったんですな」
「ああ。どうも無欲でな。甲斐性なしと言われているようで堪える」

村田の問い掛けに対して、そんな事を笑いながら返す桐野に場が一気に和んだ。



それから彼らはぽつぽつと京都の様子や、東京の様子、共通の知人の近況といった世間話をした。
さつきは桐野の側でそれをただ聞いていたのだけれど、何とも居心地が悪い。
(だって、なんだろう。なんだかよく分からない)
自分の立ち位置が。

それにさつきがこの部屋に来る前に必要な話は終わっていたのかもしれないが、さとや村田家の話が一切出ないのだ。
自分がいたら話せない内容もきっとあるだろうに。
そう思い何度か席を外そうと腰を浮かしたのだが、その都度桐野や村田から見計らったように話を投げられる。

桐野が幸吉に定吉の頬を冷やすべく別室に案内させようとした時、共に退席しようとしたけれどなんだかんだと引きとめられて、ふたりとも離してくれない。
村田にしてもわざわざ京都からここまでやってきているのだ。
もし話し尽くせない事があったらと思うと心苦しかった。
新幹線や飛行機がある時代ではない。電話やメールだってない。簡単には会えないし、もう会えない可能性だってある。
その心苦しさと居心地の悪さが苦痛に変わりかけた頃だった。

「さ、ほなそろそろのか」
(え…)
帰ると。

(帰る?このまま?)
さとの話もしないで。いや、自分がいない所でしていたのだろうけれども。
ただ目の前のふたりの様子を見るともう二度と会う事はないような、そんな挨拶の仕方で…
それは桐野とさとはもう会う事はない。
さつきが桐野の側にいてもいい、そう言われたのと同義だったけれど、何故か素直には喜べなかった。

しかしさつきの心中を余所に村田は腰を上げる。桐野が幸吉を呼びその旨を伝えると、彼もまた客人を見送るべく玄関へと回った。

桐野の後ろについて玄関に立てば、村田は最後にちらりとこちらを見て微笑した。
けれども何を言う訳でもなく、桐野と一言二言別れの言葉を交わすと、彼らはそのまま屋敷を後にしたのだった。
その後ろ姿も長屋門へと向かう道を折れると見えなくなる。

(このままで…)
いいの?

自分がしていた話は途中で腰を折られてしまい、ちゃんと謝る事もできず、結局何も話していないような気がする。
村田にしても、もっと自分に言いたい事があったのではないだろうか。桐野が隣にいては言えないような事とか…

「…………」
本当に、このままでいいの?

そう思うと自然と身体が動いた。

「さつき?如何した。…おい!」

桐野の声を振り払って式台を下りると、そのまま長屋門へと走った。


「村田さん!」
「どないしたんや、あんた…履物も履かんで」
「あの、私、…」

けれど何を言っていいのか言葉が見つからないまま村田の前に立てば、「少し離れとき」、定吉を払ってくれた。

「ごめんなさい、本当に、…本当にごめんなさい…」
わざわざ遠くから来てくれたのにこんな結果になってごめんなさい。
娘さんから桐野を奪うような形になってごめんなさい。

何かもっと伝えたい事があったような気がするのだが、それでも結局はごめんなさいとしか言えなくて。

「あのな、謝らんでええんやで」

しかしそれもそんな言葉で遮られてしまった。

「謝るようなことしとらんやろ?それどころかうちの娘の存在がずっとあんたを苦しめとったんやなあ…」
「えっ」
「せやから言うたやろ?全部聞かせてもろた、て」

桐野は差支えない所だけ、と言っていたが、まさかそんな事まで話していたとは思わなかった。

「堪忍やで。けどな、あんたがこの屋敷に来る前から、うちのとあのお人はもう終わっとったんや」
「誰から奪ったもんともちゃう。あんたが選んで、あんたが選ばれたんや」
「それに今までよう苦しんだやろ?もう誰に気兼ねせんでええんやで?」

もう誰に気兼ねしなくていい。

その一言でばらばらと何かが剥がれ落ちたような気がした。
それはさとの存在を知った時からずっと心にへばりついていた嫉妬や後ろめたさ、罪悪感、そんなものだったのかもしれない。

「ああほら、もう泣いたらあかん」
笑いながらそう言われたけれど、ぼろぼろ零れる雫は止められなくて、さつきは両手で顔を覆ってしまった。

「よう頑張ったなあ」

村田からすればどんな理由があれ自分の存在など邪魔なばかりだろうに、どうしてこんな言葉を掛けてくれるのだろう。

「八つ当たりや分かっててもなぁ、親心で文句のひとつも言うてやろうと思うてたんや。けど話聞いて、最初に謝ったあんた見たらそんな気無くなってしもうたわ。…な、如月さつきはん、ひとつだけ約束して欲しい事があるんやけど、ええやろか」

その声に顔を上げれば村田はにこりと笑った。

「あのな、…」 




「村田さん!絶対に、絶対に約束守りますから!」

長屋門を出たふたりに向かい、さつきは大きな声を上げた。向こうが振り向いて笑ったのを見て深く腰を折る。
彼らの姿が見えなくなっても暫くそこから動く事ができず、結局どれだけの時間そこに立ちつくしていたのだろう。

「さつき」

迎えに来た桐野の顔を見るや緊張が解け、ぺたん、とその場に座りこんでしまった。

「大丈夫か」
「あ、あは、あはは、ち、力が抜け、ぬけ、て………ぅ…ー〜……」
「……まだ泣くか……」

ぱたぱたとシャツに染みが出来るのを見て、桐野が心底困ったように笑った。

「だって、だって、」
両手を伸ばせば抱き上げられ、しがみつくような格好で桐野の腰に足を巻きつける。その首元に顔を埋めた。

「私、一緒にいていいって、村田さん言ってくれた、きぃさんと一緒にいていいって」
「ああ」
「きぃさんのこと、ずっと大事に出来るんだったら、一緒にいていいって」
「そうか…」
「ずっと大事にするよ?今日神様にも同じ約束したもの。だから、ずっと一緒にいて」
「……分かったで泣くな」
「いや、ちゃんと言って」

こんな風に口答えをする事は初めてで、桐野は少し驚いた風に間を置いたが、

「ああ、俺も汝を大事にする。この先も汝と共にいよう。…いてくれっか」

両手で桐野の顔を包むと、さつきは噛みつくようにしてその唇を吸った。空気が震え小さく桐野が笑ったのが分かる。
そのまま額、鼻先、頬へと唇を当てた。
さつきの背が長屋門の壁に押し付けられて固定される。じ、と目を見つめてきた桐野がくすくすと笑った。

「泣くか笑うかどっちかにせんか」
「ムリ……ん、…」

相手の唇の端を軽く舐めてそのまま唇を重ねようとした時、

「お取り込み中まっこてすんもはんが後ば通ってもよかですか」
「…………」
「…………」
「…………」
「……………おかえりなさい……」

困惑を通り越し、苦笑いしかしようのないといった風情の辺見と別府が所在なく佇んでいた。


(12/3/22)(12/1/19)