6.壊死する





目が覚めたらすぐに風呂場に行くのが最近の日課だった。
部屋に戻ればすでに桐野の姿は消えていて、朝食の席で顔を合わせることになる。
いつもなら。

ただ今日は起きようという気が起こらなかった。

最近ちゃんと寝ていないので体がだるいのもあるが、もう少し布団の上でだらだらしていたい。
気分の問題だ。
桐野が起きる前にと思うものの、後もう少しと思ってしまうのは触れる人肌が気持ちいいからかもしれない。
桐野は自分の片腕を枕に、横向きに寝ているさつきに空いた腕を回し手をさつきのそれに重ねていた。
手を少し揺すると軽く握り込まれる。
(捕まえてなくても逃げないのに)
意外と子供っぽい仕種に少し笑いが漏れた。


これは罰だ。
そう思うようになってから、さつきは桐野を抵抗なく受け入れられるようになった。
求められるまま流されれば、その都度何か大切なものがなくなる気がした。
しかし、心のどこかが少しずつ死んでいくのに比例して気持ちは格段に軽くなり、この状況を笑える位の余裕が生まれていた。
しかしそうなったらなったで、少し違う方向に思いが至ったのだった。

屋敷にはいたいだけいればいい。

さつきは明治ここに来た当初から、そう桐野や周囲の人間から言われていた。
書生も出たり入ったりしているから、さつきひとり位が増えてもどうってことない。
そういうことで、さつきも安心して桐野邸に身を寄せていたのだが、その恩に対して返せるものがない、ここの人達のために自分ができる事が余りにも少ないというのは、少々堪えることだった。
気にしなくていいとは言われても、自分ができる事はないか、周囲にしてあげられる事はないかと探してしまう。
(もしかして)
何かできる事、と思い続けていた自分のこの屋敷での役割は、もしかしたらこういう形で桐野の側にいる事だったのではないだろうか。

罰が当たったのではなく、役割を与えられた。
そう思った。

夜中にぬくもりが欲しいだけと言うのなら、それでもいい。
さつきはセックスできる抱き枕だという認識でも、それならそれでいい。
ただそう思うと桐野との関係を保つ事で、この屋敷にいてもいいという免罪符を与えられたような気がして、桐野とのこと、誰にも相談できなかった自分の悩み、色々な状況と不健康な精神状態が重なりささくれ立っていた気持ちが少し落ち着いた。
それが間違っているとは分かっていても。

それに両者に感情が伴わない”それだけ”の関係なら…
きっと自分が関わることでこの後の歴史や桐野の行く末が変わってしまうというようなことには、きっとならないだろう。
自分が桐野にとって一過性の女であるのならば。

さつきは自分に歴史を変えてしまう程の力があるとは思ってはいなかったが、その可能性を完全に否定することはできなかった。何が弾みになるかなんて、分からないのだから。
それが恐ろしいからこそ桐野を見ているだけで良かったのだが、こうなってしまってはそれは最早仕方がなかった。


しかし一度そう思ってしまえば、手を握ってくる桐野に笑みを零すことができる程のゆとりが生まれた。
普段の生活でも、前のように普通に桐野に接することができていると思う。多分。

それで、幾つか気がついたことがある。
桐野は大人の男だと思っていたが時々大きな子供そのものだったり、嫌がることはしないが思わぬ強引なところがあったり。意外とかわいいところがある。
一緒に暮らしていても、彼にはまだ随分知らない面があった。
そして偶に、体を重ねている最中さつきを見る目が少し苦しそうに細められたりする。
あれは一体何なのだろう。

留守になっている手を持ち上げると、さつきはそっと桐野のそれに重ねた。
じんわりと体温が伝わる。

(あったかい)

さつきに触れてくるこの手はいつもひどく優しく、そして残酷だ。
もっと冷たくしてくれたらいいのに。もっと無理矢理に、自分本位に動いてくれたらいいのに。
抱き終われば後始末せず部屋に戻ってくれたらいいのに。朝起きた時に隣にいなければいいのに。
そうしたらきっと桐野を心底嫌いになれる。
役割だからって酷過ぎると桐野を憎めるかもしれないし、自分を”可哀想な女”にできる。
そうすればもっと楽になれるだろう。

それなのに触れてくる手はなぜか温かい。温かいから苦しい。
温かいから、自分が愛されているように錯覚してしまう。そんな優しさはいらないのに。


(今までの彼女全員にこうしてたのかな、この人)

それならモテるというのがよく分かる。
たとえ一時の遊びであっても、思いやりに裏打ちされた優しさをかけられるのは嬉しいものだろうから。
ぬくもりが欲しいというだけの理由でこうなら、本命はどれほど大切にされるのだろう。

桐野が色々な所で浮名を流している事はさつきも知っている。
もしかしたらその中に本当に大切に思う人がいるのかもしれない。
さつきはそう思った。

(その人が京都とか鹿児島にいるんだったら、私って身代わりかな)
ふ、と笑おうとして、
(あれ?)
そこではた、と思考が止まる。

(あー…そう、かも…)
(そっか。誰かの代わりか。そっか)

自分は桐野が大切にしている人と会うまでの代役。

――それがここでの役割なんだろう。
そう思い至れば、気持ちが更に落ち着いた。
誰かの、本命の代わり。
桐野が自分の後ろにその人を見ているのなら、それなら愛があると錯覚したとしても仕方ない。
そう言えば最中に名前を呼ばれたことすらない事に思い至り、
(…近くにいる代わりになりそうな女に手を出したとか、そういう感じかな)

代替品。

桐野にとってのさつきなんて、その程度のものかもしれない。
「ふふ、…」
小さく嗤うと、もう大丈夫だと思っていたのに、またひとつ心の何処かが死んだ。


「…私のこと好きですか?」

金輪際聞くつもりもない事を、聞こえていないと分かっていて呟いてみる。

誰にも拾われることのない言葉が部屋に落ちるのは淋しくて少し胸が軋んだ。
聞こえていても返事はないだろうし、あったとしても肯定的なものではないだろう。
肯定であればこんな関係にはなっていない筈だし、何より肯定されると困る。
それでも、たとえ誰かの代わりであったとしても、この人が少しでも自分を好きでいてくれたらいい。
この関係に感情は不要だと思っていたのに、代用という役割だと割り切ったところだったのに、そうだったらどれほど良いだろうと思う事は止められなかった。
でも。

(…嫌になる)
自分が。

割り切ったと思った筈なのに、何かに思い到る度に恋情が頭を出して結局心底からは割りきれない。
小さな事で気持ちが右へ左へと大きく触れるのに、さつきはもう疲れてしまった。
(もう止めよう。考えるの)
これ以上は虚しくなるだけだ。


軽く身じろぎすれば桐野に引き寄せられ体が密着する。それにまた勘違いしそうになる。
違う、違う、違う。
思い違いをしてはいけない。
そう自分に言い聞かせ、背中からとゆっくりと伝わる心音を感じながらさつきは目を閉じた。
そしてそのまま心の片隅で辛うじて生きていた恋情を自分で殺し、それに気付かないフリをして蓋をした。





「……ごめん…」

顔を合わせるやいきなりの謝罪に、志麻は目をぱちくりさせた。
二度寝したら起きられないのは分かっていたのに、やってしまった。
起きたら桐野はいなかった。というか、既に昼前だった。

さつきはいつも朝起きて以降は志麻の手伝いをしていたから顔が合わせ辛かったのだが、

「さつきさん、顔色良くなったみたいで良かった」

思わぬ反応に何?と問い返す。

「最近ちゃんと寝てました?日中うとうとしてる事が多かったし、目の下に隈が出てたし随分疲れてたみたいだから」
「……………あー…うん……あの、きぃさんは、」
「もう陸軍裁判所の方に出られましたよ?」
「だ、だよねー」

起こしてくれたらよかったのに。
朝起きた時に隣にいなければいいとたった数時間前に思った筈なのに、起きた時にぽつんとひとりだけ部屋にいる虚しさったらなかった。
とはいえ、それは自分が今まで桐野にしてきたことなのだけれども。
寂しいとか、彼も同じようなことを思ったりしたのだろうか。

(いや、そんなことないよね。きぃさん強い人だし)

それに自分は誰かの代わりなのだし。

「御前がさつきさん疲れてるからゆっくり寝かせてやれって。御前とお付き合いするのも大変ですね」
「……………」

何たること。
関係が屋敷内では公然のものとはいえ、さつきは羞恥から言葉が出なかった。
流石にそれは十は年下の子供に指摘されたい事実ではない。思わず目が泳ぎ笑う口元が引き攣る。

「でも本当に良かった。辺見さんも別府さんも心配されてましたよ?」
「え?」
「別府さんも来る度に私に聞いてくるんですもん。『あいつ大丈夫か』って」
「…そう…」

そう言えば、部屋を変わった後久しぶりに会った時、別府はさつきを見て少し驚いた表情を浮かべた。
大丈夫そうとしか言われなかったが、今志麻が言ったような「疲れている」という感想を持ったのかもしれない。
最近別府が頻繁にこの屋敷に顔を出すようになったのはそのせいだったのだろう。
少し顔を出して泊らずに帰ることの方が多かったから、どうしたのだろうとは思っていたのだが。

(そっか。私のせいか)

最近しっかり寝ていなかったのは確かだ。
夜は桐野と同衾していて物理的に時間が削られているというのはある。
そして精神的な問題で、睡眠は取ったら取ったで浅い。
要するによく眠れなかった。
しかし隈や血色の悪さは化粧である程度誤魔化せているかと思っていたが、そうでもなかったようだ。

(…もっとしっかりしないと)

別府だって志麻だって忙しいのだ。自分のことで周りを振りまわすのは申し訳ない。


さつきは一端瞳を閉じると、志麻を見直した。
「志麻ちゃん、心配してくれてありがとう。もう大丈夫。だから心配しないで」
にっこり笑ってそう言えば、志麻は一瞬きょとんとしたがすぐに安心したように破顔した。

そう。
もう大丈夫。


(11/6/18)(11/04/22)
桐野は陸軍裁判所勤務(所長)