7.同伴する





自分の立ち位置と役割を確認すると心が解放されたのか、あれから目の下に隈が出ているような事はなくなった。
前よりも幾分かはマシになったのか、辺見や別府も、何も言わないが少しホッとした様子ではあった。

「ね?だから言ったじゃないですか。みんな心配してたんですよ?」
言い募る志麻に、ごめんねとさつきは思わず苦笑いする。

それでも別府はなんだかんだと何故かさつきが好きそうな手土産を下げては屋敷に継続的にやって来ていた。
辺見にしてもさつきが好きそうなおやつを買ってきたりもしていたし。
一体何なのだろう。

「だってさつきさん食細いままでしょう?前はもっと食べてましたよ?」
「…そうだっけ?」
「そうですよ!体は資本ですよ?もっと食べないと!」
「あはは…」
「さつき」
「え?」
「御前」

話の途中掛けられた声に振り向くと桐野が立っていた。

「出掛けるぞ」
「へ?」

そんな風に誘われたのが初めてで、思わず目の前の男の顔を見つめると、その様子に桐野が僅かに苦笑した。

「何ぞ、…用事でんあっとか」

さつきは首を左右すると準備してきますと言い置くと、志麻に一声かけて部屋に向かったのだった。


今日は休みで桐野も朝から屋敷にいた。
いつもならなんだかんだと来客があるのだがそれもなく、桐野本人も今日はフリーのようで、何だか出掛ける為に時間がぽっかりと空いているような感じだった。

「ね、何処に行くの?」
幸吉は行き先を知っていたようだが、教えてはくれなかった。

「今日は私はついて行きまへんよって」
「はっ?じゃあ」

もしかして、ふたりきり?

動きが止まったさつきをどう思ったのか、幸吉がにぱっと笑う。

「喜んでんと早う行った方がええんちゃいます?先生呼んではりまっせ」
「え、喜んでなんて」
「ほらほら」
背中を押されるようにして玄関まで押し出されると、

「楽しんで来て下さいね」
桐野の前に突き出されてしまった。

「行っか」
「は、はぁ…」


連れて行かれた先は芝居小屋だった。予め頼んでいたようで、席は上席の桟敷席。
歌舞伎の知識がなくても分かるそこそこ上等の席で、通されるやさつきは周りを見渡した。

「凄い。こんなの、時代劇でしか見たことない」
小さな声を桐野は聞き逃さなかったようで、
「芝居は初めてか?」
桟敷の縁から芝居小屋全体を見下ろすさつきの側に立った。


さつきはテレビで歌舞伎役者は見た事があっても歌舞伎そのものを見た事はない。
素直に頷くと、もっと早く来れば良かったなと薩音で返された。
(次は違う人と来て下さい)
そう思ったものの、返事はせずに笑い返す。



さつきには歌舞伎を見るだけの素養がないため、そのままでは内容が分からなかった。
何度か隣の桐野の袖を引いて質問すると、桐野もその事に気が付いたようで、途中からはこちらから聞かなくても解説をつけてくれた。
桐野は饒舌ではないが話すのは上手い。それが意外と機転も利いて偶に冗談が挟まったりするので、さつきは時々口を押さえて笑った。
上席とはいえ、左右の桟敷席には他の客もいる。
彼らに迷惑をかけないようお互い小さな声で話すから、それを聞き逃さないよう自然に距離が近くなった。
芝居小屋は暗いため周囲はそれには気付かず、また余りに自然な動作であったので、さつきもその不自然な程近い距離には気が付かなかった。

「ね、きぃさん、あそこのね…」

が、さつきが桐野を振り仰いで笑った時。
急に頬に手が添えられ、驚きと桐野との近さにびくりと肩が飛び上がった。

それでも目の前の桐野は至極真面目な顔つきで、それを見ると跳ねた心がすとんと元の位置に戻る。
自分の立場を理解してから、前のように桐野の行動に戸惑ったり悩んだりしなくなった。
代わりとして求められる事をすればいい。
そのまま笑みを口の端に乗せると、桐野が少し目を細めた。

「疲れた?」
んにゃ。…な、さつき。わいは」
「あら、桐野の旦那」

桐野が何か言いかけた所で、後ろから掛けられた声に振り返った拍子にすっと手が離れていった。
その際小さく舌打ちのような音がさつきに届いたが、それはなんだったのだろう。

「菊弥か。久しかぶいじゃな」
「いやさ御無沙汰なんてものじゃないでしょう。聞けばお座敷に出てもすぐ帰るって言うし、随分お見限りじゃござんせんか」

遠慮なくずけずけと言い募る菊弥と呼ばれた女性に桐野が顔を顰める。
女にそんな態度を取るなんて珍しいこともあるものだ。

菊弥はきりっとした女から見てもきれいな女性だった。
羽織を引っかけていて足は裸足。薄化粧。
言葉遣いも着こなしも市井の女性とは違っていて、その筋だとすぐに分かる。
菊弥の態度から顔見知りとかそういうレベルの付き合いではないのは明白で、桐野は彼女の贔屓筋なのだろう。

(ほー…あっちこっちにいるカノジョのひとりですか。このカッコいい姐さんは)

そしてなんて似合いの組み合わせだろう。
そう思いながら、嫌みのない自然な動作で桐野の側に座り言葉のやりとりしている菊弥と桐野の姿を見ると、さつきはひとりだけ余所の空間に取り残されたような感じになった。

(取り残されたっていうかひとりだけ”余所の人”なんだけどね、実際)

そして冷静に目の前のふたりの様子を観察してしまう。
『きぃさん』ではなく、歴史上の人物桐野利秋が好い仲の芸者と一緒にいる。
そんな小説の一場面みたいだ。
何を思って桐野がここに連れて来てくれたのか分からなかったが、芝居を見ても分からないさつきがいると桐野の息抜きにはならないことは確かだろう。
芝居の説明をしてくれて、色んな話を聞くことができて、自分は純粋に楽しかったのだけれど。
桐野が本当にそうしてあげたいのはきっと他の誰かだろうし。
それに息抜きというなら自分より付き合いの長い、気の置けない人が傍にいた方がいいだろう。

(折角の休みなのに、何だか申し訳なかったなあ)

静かに席を立つと、「さつき」、声が掛けられた。それに軽く笑い返し、菊弥に軽く会釈をすると桟敷を出る。きっとお手洗いか何かだと思うだろう。




「旦那」
「………」

菊弥は、はぁ、と溜息を落とした桐野にころころと勝ち誇ったように笑った。

「追いかけなくてよござんすか。きっと戻ってきませんよ」
「菊弥…汝な」

追い出しておいて何を言うか。席を立ちながら桐野は苦虫を噛み潰したような渋面を作った。その原因を作ったのは菊弥本人だというのに。
不機嫌さを隠さない桐野に菊弥はふん、と軽く笑う。

「本当に随分御見限りで。旦那も幾ら暗いからって外から丸見えってお忘れじゃあないですか。お陰でうちの若い子がうるさいったらありゃしない。あんまりお熱いから邪魔のひとつもしたくなるってもんだ。かわいい方じゃござんせんか。芸者風情に嫉妬だなんて」
「嫉妬?」
「あら違うんですか」
「違うな」

即答した桐野に菊弥は目をぱちくりさせた。
菊弥が来てからさつきは何か考えていたようではあったが、桐野から見てその表情は通常と全く変わっていなかった。あれは本当に自分がいない方がいいと思っての行動だ。

「おかしなことをお言いで。好い人じゃないんですか」

若干の棘を含んだ言葉。

「…どうじゃろうな」

よく分からないと言いたげに首をひねる菊弥に、

「菊弥、どうせ他の芸者連中も沢山わっぜ来ちょるんじゃろう。ここも使え」

それだけ言い置くと、引き留める声を気にもかけず桐野は桟敷を後にした。


(11/6/18)(11/04/25)
菊弥姐さんは柳橋芸者という設定。薩摩なのに柳橋?いやいやそこは目を瞑る所。