8.立腹する





芝居小屋を出て周りをきょろきょろしながら歩く。
細かい道は分からなかったが、この付近には何度か来たことがあったし、言葉が通じない訳じゃない、ひとりでも帰れるだろう。
しかし自分だけ早く帰るというのも屋敷の人たちの手前どうかと思うから、ぶらぶらして何か食べてからにしようか。
思えば出掛ける時は大抵誰かと一緒であったから、全くのひとりというのは久しぶりだ。
それだけでさつきの心はほんの少し浮き立った。

芝居の見物客相手の店をいくつか冷やかした後、歩き疲れて適当な茶店の店先に席を取る。
運ばれてきた金鍔を黒文字で切り分けて口に放り込み、一服して少し落ち着いたところで芝居小屋に置いてきた桐野のことが頭に浮かんだ。

「……」

ちょっと悪いことしたかな、なんて。思わないこともない。
でも本当になぜ急に自分を連れて出掛ける気になったのだろう。それがさつきには分からなかった。
そして先程、桐野が何を言おうとしていたのかも。
あんな場ではあったけれど、結構大事なことを言おうとしていたような雰囲気ではあった。
説明とか言い訳とか、そんな何か……

(――ないない。それはないわ)

今更そういう話でもないだろう。
またさつきももうそんなもの求めていないし、して欲しいともあまり思わない。

別にひねくれた考えなのではなくて、純粋にそう思う。
役割なら役割でいいのだ。それでこちらから何か返せているというなら。
だから余計な気遣いは無用。
そうはっきりと言える程、考えるのを止めた時から、以前に感じていたような困惑や戸惑いはなくなった。
ギブ&テイク。それでいい。

(まあ文字通り体で返してるって辺りがねー…我ながらどうかとは思うけど)

以前の自分なら始まりはどうあれ絶対にこんなことはしない。家族や友人が知れば大目玉だろうとも思う。
けれど人に言えないような事をしている自分に対する嫌悪感は不思議となかった。

「…ここにおったか。探したぞ」

どっかと隣に座った桐野に対しても。


「菊弥さんは?」
キョトンとして尋ねるさつきに、流石に桐野は驚いた様子だったがそれもすぐに苦笑に変わった。

「つまらんかったか?」
「すごく面白かった」
なら、と桐野が続けようとしたところで、

「はい、あーん」
さつきが黒文字に刺した金鍔を差し出した。

「……」

一拍置いてそれにかじりつき、何となく釈然としない表情かおで嚥下する桐野を見つめると、そんな顔もするんだ、とさつきの口端が上がった。

「ねえきぃさん。私のこと気にしなくていいよ。大丈夫だからあんまり気を遣わないで」
十分色んな事してもらっているし、別に不満がある訳でもない。
わざわざ気にかけてもらわなくても大丈夫。

そう世話話と同じように、普段と特に変わることなく笑いながら伝える。


さつきの視線は道行く人たちに向いていたから、隣の男の様子の変化には気が付かなかった。
そして、

「き、」

持って来てもらった茶を渡そうと視線を戻した時、さつきは知らず言葉を飲み込んでしまったのだった。
目の前の男の顔には剣呑さが浮かんでいる。
それは若干ではあったが、さつきはこんな桐野を見たことが事がない。

普通に話しかけていいものか戸惑っている内に、桐野はさつきの手から湯飲みを奪うや一気に茶を飲み干し、どんっと緋毛氈に置かれた盆に湯飲みを叩きつけるように置いた。
それなりの音だったので周りに一瞬、しんと静寂が落ちる。
しかしそんな事を気にも掛けず、そのまま銭を盆の上に置くと、
「きゃあっ」
桐野はさつきの手首を掴むと無言で歩き出したのだった。



(え、どうして怒ってるの?)

ぐいぐい引っ張られながら前を歩く背中を見つめる。

さつきには本当に今の会話の何処に桐野が怒る要素があるのか分からなかった。
それでも流石に声をかける事はできず、黙ったまま引き摺られるようについて行くも、桐野の歩幅に合わせることは難しくて足がもつれた。
「あっ」
躓いたところで肩を抱かれるようにして支えられる。

「っ、ごめんなさい」
「……」
「あの、きぃさん…?」

窺うように首を傾げると、「悪い」、と手首を解放される。
そのまま屋敷に帰りつくまで、会話は全く生れなかった。


(11/6/26)(11/04/27)