Trigger-a:16






元彼が悄然としてファミレスを出て行くのを見届け、場所を変えて食事をした後、秋山は約束通り森山をマンションへと送った。

「自分も住んでいるマンションの前で見送るの何だか変ですね」

笑いながら森山に礼を述べたさつきに、秋山は幾分か胸を撫で下ろした。
さっきまであんなに苦しい顏で元彼と対峙していたのに、それが今では随分明るい表情になっている。
ここ数日は笑っていても不安の見え隠れする顔しか見ていなかったと、秋山は改めて思い返す。

荷物はまだ秋山の家だし、いくら解決したとはいえ今日の今日、ひとりで家に帰すのは心許無い。
そういうことでさつきは今日も秋山の家に泊まることになっている。
その事に三人ともが疑問を持たず、森山ですら秋山をからかってくることなく「何かあったらいつでも連絡くれたらいいから」とさつきに声を掛けて車を降りていった。


そして。

「秋山さん、本当にありがとうございました」
「どういたしまして」

車内でも家に帰りついた後でも、何度となく礼を口にするさつきに、
(この子は一体何回ありがとうを言うんだろう)
秋山は遂に笑ってしまったのだった。

しかしさつきは無意識に礼を連発していたようで、何かおかしなこと言ったかなと、笑う秋山に小さく首を傾げた。
それにんんっと咳払いひとつ、
「適当に座って」
そう告げてコーヒーを淹れたマグを差し出すと、秋山も近くに座った。

「お疲れ」
軽く声を掛ければ、
「疲れました…」
正直なリアクションに、お、と思う。
これまでなら大丈夫とか何とか気丈な言葉が返ってきていただろうに。
それだけ距離が近づいていると考えていいのだろうか。


「もう彼は連絡してこないと思う」
こくんと目の前の頭が縦に動く。
「でも何かあったらさっきの念書は本当にお守りになる。大事に取っておいた方がいい」
言質を取った録音もあるしと付け加えれば、もうひとつ点頭。
「…秋山さん凄いですね。念書なんて私、少しも思い浮かびませんでした」
どうしようってそればっかりでとさつきが苦笑いする。

彼女が家に来た初日、慎重にいこうと念書の作成を言い出したのは秋山だった。ざっとしたものを作り、念を入れて職場の知り合いにも目を通してもらって、結果はあの通りだ。

「彼が諦めたのはこれがあったお陰ですね」

署名のある紙をテーブルに広げて見つめるさつきに、しかし、と秋山は思う。
本当に効いたのはこの念書ではなく、彼女自身の言葉と態度だっただろう。



―――あなたのこと男としても人としても最低としか思えないのに、もうこれ以上幻滅させないで

念書にサインした後でも未練がましく何かを言い募ろうとした元彼に、彼女は嫌厭と軽蔑のこもった眼差しでそう言い放ったのだった。元彼は文字通り固まってしまった。
完全に彼女の情が自分にはもう欠片もないと、彼自身が悟った瞬間だったと秋山は思う。
(アレは効く…)
その場にいた秋山も森山も思わず顔を引き攣らせたのだ。
つい最近、自分達も似たような経験をしたところであったから、余計に。


―――思い上がりもいいとこ
―――ステイタスがあったって中身がないなら意味がない
―――みっともない


あの時、温度のない冷ややかな視線と声音で告げられた数々の言葉は彼女の本音であっただろう。
普段が穏やかで、人を傷つけることから距離のある女性だ。それだけに彼女が放つ突き刺さる言葉が持つ威力は、衝撃は、好意を持つ人間には計り知れない大きさがあった。グングニルの槍じゃないかと秋山は思う。

(あんな事をこの子に言わせた段階で、本来なら終わりだった)

そう思って背中が寒くなる。
自分は直近の、彼女に対しての善の積み重ねがあったから切捨てられずに済んだだけだ。
そして自分が元彼と同じ立場であったらと想像して…ゾッとする。
秋山は彼がしたようなことをしたこともないし、しないけれども、殷鑑遠からずと思わずにはいられなかった。




「それに…インぺリオの社名を出さずに済んで良かったです」
「あ…、ああ」

続いた彼女の言葉にふっと意識が戻される。

「まさか彼の会社がインぺリオの系列子会社とは思いませんでした」
「子会社は山程あるからなあ…彼の所にはキャリア形成と一種の修業でうちの人間がそこそこの立場で出向するんだよ」

だから元彼の勤め先のトップを初めとする幹部連中は顔見知りばかりなのだ。
顔見知りというか、世話になった先輩だとか、同僚だとか。
いざとなればそこに働きかける事も出来ると考えたのは、秋山だけでなく向井も森山も同じだった。
ただそれは最終手段として、ではあったけれども。

「本当にそこまでいかなくて良かった…」
彼の為にも、みなさんの為にも。

そう小さく零してマグに口をつけたさつきに秋山は感心してしまう。
(…優しい子だな)
最終手段、それは職を盾に脅すということだ。
確かにそれでストーキングはかなりの確率で止むだろうけれど、恐らく禍根だけ残って誰の為にもならない最悪手だった。
それを採らずに済んで良かったと、目の前の彼女は自分の為ではなく関わった人間の事を思って言っている。

「さつき、思い遣りのあるいい子でしょ」

以前かの合コン女王がそう言っていたことを思い出す。
確かにそうだなとひとりごちて、秋山は眼を細めた。
そして彼女にグングニルを持たせる様な事はもう二度としないとも心で誓った。




「広瀬が明後日帰ってくる。随分心配してたよ」
「はい」

電話もメッセージも毎日欠かすことなく交わされる様子を、秋山は目の前で見ている。
広瀬にはさつきが一連の出来事を全て伝えているけれど、それとは別に事の経緯とさつきが今家に来ている事の断りを秋山からも入れていた。
彼女をどう思っているかなんてお互い知っているし認めてもいるから、広瀬の態度は至極平坦なもので、


―――秋山の家にいるなら安心だな。しかし可哀相に…随分怖い思いをしてるんじゃないか?
―――晩メシ作ってもらってる?弁当?うわ、おま、何だよそれ…羨ましい

ぶーぶー文句を言っていた親友に「そこかよ」と突っ込むと「そこだろ」と返ってきて、秋山は本気で笑ってしまったのだった。

―――まあ電話で声聞くのも良いんだが、……

そこで途切れた言葉に(そりゃ会いたいよな)と当然のように思う。
前回のセクハラの時は落ち着くや否や出張になり、今回だって経過を聞くだけで何が出来る訳でもなく、気を揉むことが多かっただろう。
顔を見て安心したいというのもあると思うけれど、何より会いたいだろうと思う。


「…迎えに行くか?」

するりと零れた秋山の言葉に弾かれたように上がる顏。
視線が重なったが、途端に気まずそうに彼女の目が泳いで秋山は声を上げて笑ってしまった。

「秋山さん…意地悪です」
「ああ」
くつくつと笑いを止めずにいると、む、と軽く機嫌を損ねた表情に、ああかわいいなと思う。

「前にも言ったけど気にしなくていいから。良ければ送る。というか一緒に行こう」
「………」
「広瀬が喜ぶ。あいつは君に会いたがってる。如月さんは?」

無理強いはしないがと付け加えると、「会いたいです」と小さく返って来て秋山は笑みを深くした。
広瀬は明後日土曜日、夕方着のフライトで帰着する。

「明後日は…」
「休みです」
「なら明後日の朝、一旦家に送るよ」

明日も泊まることになってしまうが、その方が落ち着いて帰る準備も出来るだろう。そう思ってのことだったけれど、目の前の彼女は若干困ったような顔をしている。

「あの…そこまで甘えてしまって…」
「ああ、いいよ。寧ろそうしてくれる方が俺は嬉しい」
「え?」
「一緒にいられるから」

途端にさつきの顔が朱に染まった。

「ふ、はは、顔まっか」
「秋山さん…」
ジトッと軽く睨めつけられても、最早かわいいとしか思えない。

「この数日、俺は楽しかったよ。如月さんは大変だったのに悪いが…それにこの家で出来たての晩飯にありつけるなんて、どれ位久しぶりだったか。ただでさえ疲れているのに帰ってから食事まで作ってもらって、こちらこそ随分甘えていた。ありがとう」
「………」
「だから礼をしないとなんて考えないでほしい」

この子はそういうことも考えているだろうなと先回りすれば、案の定彼女の口からは不満が漏れる。

「本当に礼なんかいいんだ。ただ…そろそろ敬語を止めてくれたら嬉しい」
「敬語?」
「広瀬とは普通に話しているだろう?」
「そう…?…そうですね…」
「ほら」

笑いながら敬語が抜けたのはどうしてか問うと、前の件で広瀬が”彼氏役”であった時、後をつけていた男が怪しまないよう普通に話そうかと広瀬が言い出したという事だった。
(確かにそれはいい口実だな)
あっちはあっちで上手いことやっていたらしい。


「これから敬語はなしで。あと、嫌でなければ…」
名前で呼んでもいいだろうか。

「…大丈夫…やじゃないです」

(よっしゃ)
少しはにかみながら了承してくれた彼女に、秋山は内心で拳を握りしめた。

ここしばらく一緒にいて、特に元彼が現れる前後からは我ながら随分いい雰囲気だったと思う。そんな今までの経緯から考えて……
秋山が名前呼びの先に何を求めているのか、さつきは分かった上で頷いている、きっと。そわそわと落ち着かない感じで、目を合わせないようにしているのが何よりの証拠だろう。

(あー…本当にかわいいな…)

秋山は眼を細めた。
彼女を見ていると無意識に口角と気分が上がるのが分かる。
森山に同棲(仮)の感想を聞かれて、結構いいと応えたけれど実際は結構どころか大分いい。
おはようとお休みを言って言われて、笑いながら一緒に食事をして、風呂上りには同じボディソープの香りがして。
それが明日で終わってしまうというのが、正直惜しくて堪らなかった。

(…好きだ)

そう思った途端に、彷徨っていた筈の瞳が弾かれたようにこちらを向いた。
ばちり。
音が聞こえそうな勢いで視線が合う。

「…………」
「…………」

好きだと、心に浮かんだ言葉はそのまま口から洩れていたようで。
(しまった)
そう思いはしたが、それは近い将来、彼女にはっきり告げる筈の言葉ではあった。
(ああ、そうだ、いずれははっきり言っていた)

だったら今でもいい。

「如月さつきさん」
「は、はい…」

「俺を君の恋人にしてください」

彼女は眼を見開いて、今まで以上に真っ赤になってしまった。



そうなのです。広瀬への敬語は結構前から抜けてたのですよ。そして勢いで告るあっきーであった!以下次号!(笑)ということで一旦トリガー秋山編は終了です。
20190302<2018/09/30>