11:close to you




お父さん発言から一転、何事もなかったように秋山は自室に戻ってしまい、居間に残ったのはさつきと広瀬のふたりになった。
広瀬が勉強する傍で、怒られたばかりにも関わらずさつきはゴロゴロしながら本を読んでいたのだが、何時の間にか正面に座って広瀬の手許をじっと見ていた。
気にしなければいいのだが、これではどうもやりにくい。

「本はもういいのか」
「キリル文字?ロシア語かな(あれ?そう言えば……)」

こちらの言葉は聞こえていなかったようだが、彼女が何かを思い出すように呟いた一言に広瀬は目を見張った。

驚いた。
さつきがキリル文字を知っているとも、ロシア語だと分かるとも思わなかったから。
以前秋山が「こことさつきがいた世界とは随分共通点があると思う」というような事を言っていたが、本当にそうだった。
夕飯前にも彼女は普通に三国志の話をしていたが、その言葉を耳にしてやはり驚いたのだ。秋山だって驚いていた。

違う世界から来たと言う割にはさつきのいた世界とこちらの世界、随分と共通した文化や過去があるような気がするのだが、その辺りの話を彼女はしたがらない。
とはいえ警戒心が薄いのか、こちらが首を傾げたくなるような情報を彼女自身がポロポロと零しているのだが。

「ロシア語、読めるのか」
「読める訳ないよー」

即答された。読めるのではなくてロシア語だと分かる程度の知識だという。
読めたら教えてもらえたのに。広瀬がそう言うとさつきは、「そりゃ残念でした」、あははと笑った。
広瀬がロシア語を学んでいる理由は聞いてこなかったが、何か思い出す事でもあったらしい。

「ロシアか〜ロシアで知ってる事なんて」

そこまで何かを言い掛けたものの、またもや彼女はぷつんと話を切ってしまった。

「ロシアで知ってる事なんて?」
「ん、なんでもない。ごめ、」
「さつきさん、さっきも話を途中で切ったね」
「う、うん」
「言いたくない?言ってしまったら何か困る事か?」
「……そんな事ない……多分」

ふるふると頭が左右に振れ、小さな声が返ってくる。
何だか苛めているような気分になって、広瀬の口からははぁと息が落ちた。しかしこの際だ。思っている事をちゃんと話した方がいい気がする。
そう思って広瀬は広げていた書籍とノートを閉じ畳の上に置いた。

「秋山!すまないがこっちに来てくれ」

声の大きさに驚いたのか、さつきの肩がびくっと跳ねる。
すぐに現れた秋山がふたりを見て口を開こうとしたが、その場の空気を察して無言で腰を落ち着けた。


「さつきさんにも事情があると思うから、言えないなら言えないでいいし、言いたくないなら言わなくていい。さつきさんが大丈夫だと思う所まで話せばいい。無理強いはしない。でも……ごめんな。そうさせてるのは俺たちだよな」
「え?」

困ったように眉を下げた顔が広瀬を見ていた。

「君の事情を知っているのは俺たちだけなのに、俺も秋山も家にいる時間が少ない。土日だって家を開ける事が多い。さつきさんにも俺たちに言いたい事や聞きたい事があるだろう?まだ分からない事だらけだろうし。それなのに全然一緒にいられないし、ゆっくり話をする時間も上げられてない」
「そんな事、」
「話は最後まで聞く。でもな、さつきさん、君も遠慮しすぎ。もっと頼ってくれていいし、甘えてもらって大丈夫だよ。我が儘を言ってくれてもいい」
「え、遠慮なんて……してないよ」

さつきの動きが一瞬止まる。ぴしりと音がしそうだった。
その後無理やりといった風に紡ぎ出された口答えに首を傾げたものの、つい苦笑が漏れた。

「この家な、さつきが来てから随分明るくなった」
隣から秋山が口を挟む。
「家で美味い物食えるし、弁当美味いし。掃除はしてある。布団も干してあるし、洗濯物も畳まれてるし、やりたい事に集中できる。それに帰ってきたら笑い声絶えないし、居心地いいったらない」
「だってそれは」
「ああ、そういう条件で、それを仕事にしてここに住むという話だったな。でもそんな事関係なしにありがたいと思っている。さつきがいた所とは随分環境が違うようだから、いつ『もう嫌だ』と言い出すかと思っていたがそんな事もなかったしな。さつきは何も言わなくてもちゃんとやってくれる人間だと思っている」

そう言えばさつきが弁当を作ると言い出した時、秋山は初めは止めようとしていた。

「分かっているから、しんどい時はしんどいって言っていいんだ。寝過ごして朝飯や弁当がない位何ともない。面倒だから外食に行きたいとかでも構わない。もっと思った事を言ってくれていいし、ぶつけてくれていい」
「ああ、そうだな」
「……」

「さつき」
「さつきさん」

名を呼ぶと困惑した表情でさつきは顔を上げた。

「遠慮するな。『出掛けたいから連れて行け』『話がしたいから時間を作れ』で構わないんだ。誠意を以て対してくれる人間にはこちらも誠意を以て対したい。無下にはしない」
「……」

何か伝えようとしてさつきは口を開いたが、声になる前に言葉はどこかに飲み込まれていくらしい。

「ここに住み始めてから三週間位になるな。さつきさんがどんな人かも大体分かってきたし、君も俺たちの事分かってきたんじゃない?」
掛けた言葉に目の前の頭がひとつ頷く。

「さつきさんの事、今はただの居候だなんて思ってないよ。なあ、秋山」
「家族っていうのも妙だが親友というか悪友というか……まぁそうだな、いい相棒位にはなりたいと思うが。さつきはそういう事は思わなかったか?」

「……いいの……?」
「ん?」
「え?」

見るとさつきの目元はさっきと比べて格段に赤みを帯びていて、双眸が泣き出しそうに歪んでいた。
隣にいた秋山も驚いていたが、まだ言葉を繋げようとしているさつきの様子に口を噤んで先を促した。

「だって私、助けてもらって、寝る所も食べる物も与えてもらって。本当はお給金だっていらない。もらう権利ない。信頼してるよ。ふたり以上に信頼できる人ここにはいない。なのに一番肝心な事は話せない。酷いよね、私。助けてもらってばかりで何も返せてない。返せるものないのにこれ以上甘えられないよ。それなのに」

「あ、あのなあ……」

聞いていて不意に零れたのだろう、秋山の声が震えていた。
これ以上ない呆れ顔だ。しかも怒っている。まあ気持ちは分かるけれど。
怒りを込めて話を途中で遮った秋山を目で制してさつきの側に寄ると、広瀬はその顔を覗き込んだ。
……あ、雫が零れそう。
これ以上甘えられないと本気で思っている事がよく分かった。
いい子だと思うのだけど、これは少し頑な過ぎだ。

「さつきさん、秋山の話ちゃんと聞いていたか?」
「……聞いてた」
「嘘。ちゃんと聞いていたら恩返しできてないなんて、そんな風には思わない」
「そうだな」

「今俺たちは君に生活全般をみてもらっているけど、前は男ふたりだったから本当に酷かった」
独身者合宿所と同僚に言われたりして、この家での食事はパンとかパンとかパンとかで。
「だから今の人間らしい生活はすごく助かっているし快適。手放したくない。はっきり言うと俺も秋山もさつきさんがいてくれないと本当に困る。生活に支障が出る。だから今のままで十分ギブ&テイクの釣り合いは取れているよ」
「ホントに?」
「ああ」

秋山が言葉を継ぐ。

「さつきはいつか帰る事になるだろうが、その時にお前、黙って帰ったら許さないからな。いきなりは……色々と、本当に困るんだよ、色々とな」
「許さないってそんな、秋山さん」

冗談のように告げられた言葉にさつきがふっと笑う。
揺れていた目の前の瞳に明るさが戻った事で、部屋の明度が少し上がった気がした。

「帰れるようになるまでこっちでの生活、もっと気楽に楽しんだらいいんじゃないか?夜に今日あった事話してくれるだろう?実はあれを楽しみにしている。ヒモに間違われたり広瀬を親父にしたり、さつきの話は信じられない事ばかりで飽きないし、お前との共同生活、俺は結構楽しいけどな。さつきはそんな事ないか?」
「ううん、……楽しい。色々あって、すごく楽しいよ」

笑みが零れた。

「だったらそれでいいじゃないか」
「うん」
「信頼してくれているなら、俺たちには遠慮しないで何でも言え。ダメな時はダメと伝えるから。あと言い掛けてごまかすのは止めろ。広瀬も言っていたが言いたくなけりゃ『言いたくないから言わない』でいいんだ」
「うん」
「二度は言わないからな」
「うん」
「何か言う事はあるか?」
「……ありがと……」
「よし」

満足そうに口元にきれいな弧を描いた秋山に、広瀬も釣られて笑った。



「じゃあ早速だけど、晩飯前に何か言いかけて止めていたね。あれは?」
「……えーと、」
黙り込んでしまいそうな雰囲気のさつきに秋山が冷やかな視線を送る。
「ノート!ノートが欲しくて」
「ノート?」

「清流庵で子供に物語を聞かせてるって言ったでしょ?あれ、長い話で登場人物も多いし流石に記憶があやふやなんだよね。思い出すのにメモを取りたいし、子供に分かりやすく話をするのに順序を考えたりすると……ちょっと工夫が必要かと思って。それを纏めるのにノートが欲しくて」

「和綴じでいいのなら、俺が新しい物を持っているが」
「洋紙のがいいなって。八重さんに聞いたらこの辺りでは売ってないみたいだから、出掛けないといけないって。それで」
「なら銀座にでも行くか。広瀬次の日曜はどうだ。開いているか?」
「あー……日曜は富士見町。土曜なら大丈夫」
「(富士見町?)……え?ふたりとも付いてきてくれるの?そりゃ付いてきてくれたら嬉しいけど。ていうか場所教えてくれたら私ひとりで」
「行って、ひとりで帰って来られる?」
「……」
「いい機会だし一緒に出掛けようか。晩飯食いに行ってもいいと思うが、どうだ?秋山」


じゃあ、次の土曜日に。



100821
close to you:距離が変りました

wavebox(wavebox)