「悪いね、子供たちは遠足で帰りが遅いんだよ。だから今日はゆっくりお茶でも飲んで行ってちょうだいな」
伝えるのを忘れていたと申し訳なさそうに眉を落とした和菓子屋清流庵のおかみさん、八重さんに笑い掛けると、私は以前毎日のように座っていた入口付近の席を選んだ。
聞き手がいないなら仕方ない。秋山さんと纏めた話を見直すか。
持ってきたノートを机に広げると八重さんがお茶を運んできてくれた。
「熱心だねえ。落ちたよ、はい」
「ありがとうございます。あ、八重さん、これ読めますか?」
ノートを捲った時に落ちた挟んでいた千代さんからの葉書。
私が居候して一週間程して、千代さんはお手伝いを辞めた。
千代さんはもう歳だし心配だからと子供夫婦に同居しようと前々から言われていたらしい。
あの家には私もいる事だしいい機会だからと、千代さんはそっちに引っ越す事にしてお手伝いは引退。
向こうで落ち着いたら連絡するよって言われていたんだけど、それがやっと来た。
綴られた文字は読めたり読めなかったりで、本当なら同居人に読んで貰えばいいんだけど、これは今日の出掛けに郵便受けに入ってるのを見つけたから。
「いつでも遊びにおいでって。住所は新宿の……。あと秋山さんと広瀬さんによろしくって」
「……新宿の、………。よし」
「ここに行くなら気をつけなよ」
ノートの端に住所を書いている時に掛けられた言葉に、ふと頭を上げた。
「ああ、この住所がどうってんじゃないんだけど。行くなら、ね。まあゆっくりしていきな」
「……はあ。ありがとうございます……?」
なんだったのかな。パタンとノートを閉じてお茶に口をつける。
(まあ、いいか)
ここでのんびりお茶するのも久しぶりだ。は、と息を吐いて、行儀悪いと思いつつ湯呑み茶碗を両手で包んで肘を机についたその時。
「茶の飲み方も知らないのか」
「!」
耳に入った呟きにぞわっと何かが背中を駈け上がる。
(何、今の)
声の出所を探して周囲を見渡してもそれらしい人物は見当たらない。空耳?いや今のは違う。あれは小さな声だったけれど確実に耳に届いた。明確な悪意を伴って。
(いやだな。気持ち悪い)
格子窓に指を掛けて外に視線を泳がせている時、
"Excuse me"
突然背中に投げられた声にどくんと心臓が大きく跳ねた。
咄嗟に振り返るといつの間に立っていたのだろう、背後の男とばちっと視線が絡んだ。
「………」
「………」
(イケメンだ)
……。
…………。
ちょっと何考えてんの私……
イケメンとかこんな時までアホか。いやでもイケメンだ。思わずまじまじと見つめてしまう。
……いやいやいや今置かれている状況考えようね、自分。でも一体何の用なのだろう。
訝しく思う気持ちがそのまま伝わったのか、目の前のイケメンが口を開く。
"Sorry, I'm lost. If you don't mind, could you please…"(すいません、道に迷ってしまって。よろしかったら……)
……は?
"...I'm sorry, but I'm not from here either."(申し訳ないですが、私もここの人間じゃないので)
被せるように返して悪いとは思ったけど、そんな事なぜ店の中にいる私にわざわざ聞く。そしてなぜに英語。
この人、日本人なのに。
"Is that so? By the way, where are you from?"(そうでしたか。ところで御出身はどちらで?)
"...Why? Who are you?"(というか貴方どちら様ですか)
なんでそんな事聞く必要があるのだろう。初対面も初対面、通りすがりの人間が射るような目で。
何だろう、何か変だ。
机の上のノートとペンケースを鞄に乱暴に突っ込むと席を立った、のだけれど。
"Get off me. Don't touch."(離せ、触るな)
立ち去り際腕を掴んできた相手の手を反射的に叩き落す。
バシッと響き渡った音と硬質な声に店内が静まり返った。
それでもお構いなしにこちらを凝視して来る男の視線に突然ある思考が弾けた。
――この人、私の事を知ってる
声を掛けてきたのは偶然じゃない。
私の事を知っていて話し掛けてきたんだ。
ぞわっと全身の肌が泡立った。
動きたいのに足は根を張ったみたいに動かない。体温がすーっと落ちていくのを感じる。足元が崩れ落ちそう。
「一体どうしたんだい?……あんた顔が真っ青だよ!」
異様な空気が流れているのに気がついたのか、店の奥から顔を覗かせた八重さんが驚声を上げて駆け寄り、私の肩を支えるようにして抱きこんだ。
目が合う。
ああ八重さん焦ってる。そんなに顔色悪いのかな。
「大丈夫かい?……そんな感じじゃないね」
「…………」
ぴた、ぴたと頬に当てられた手の温かさに目を瞑る。
「ああ情けないね、男だろうに。ほら奥行くよ、歩けるかい」
急き立てられるように背中を押されながら入り口を振り返った時には、もう先程の男の姿はなかった。
錯覚かな。家じゃないよねここ。清流庵だよね。
なんで八重さんの家族と同居人がご飯を食べているんだろう。
「起きたみたいだね」
「さつき大丈夫か?」
「気分はどうだ」
頭を上げると八重さん、秋山さん、広瀬さんが覗き込むように話し掛けてきた。
「……」
ぼーっとした視界が緩やかにクリアになっていく。居間で横になったのは覚えているけど、いつの間に寝てたんだろう。まだ頭がぼんやりしている。
「何があったか八重さんから聞いた」
広瀬さんの声に八重さんがひとつ頷いて、あの後の事を教えてくれた。
といっても特に何かあった訳でもなく(だって振り返った時にはあの人いなかったし)、八重さんも回りの人に話を聞いて大体の状況を把握したらしい。話していた事は流石に分からなかったみたいだけど。
広瀬さんと秋山さんはいつも通りに家に帰って来たのだけれど、家の灯りは点いていないし、いくら待っても私は帰って来ないしで相当焦ったらしい。
でも行き先なんて限られてるから清流庵に真っ先に来たんだけど昼間の騒ぎのせいで八重さんからは怪しまれるわ言い争いにはなるわ……
ただふたりの名前を聞いて八重さんが納得したって。千代さんの葉書を見せていて良かった。ってそれよりも。
「ごめんなさい」
私、騒ぎばかり起こしてる。
「それはあんたのせいじゃないだろうに。さつきちゃん、そんな事はいいから一緒にご飯食べよう」
さつきちゃん?
思わず首を捻る。そんなかわいい呼び方、ここに来てからされた事ない。
「全部聞いたよ。考えたら何回も女だって言ってたのに悪い事したね」
「え?……全部?」
「性別と俺たちがお前を預かっているという話だ」
ちらんと口を開いた秋山さんに視線を移す。だいじょうぶ、そう小さく口が動いたのを見て、この人が大丈夫というならきっと大丈夫だって普通にそう思ってしまう私はやっぱり頼りすぎなんだよなあとは思うのだけれど。
「あのさ、あの人ちょっとおかしかった。私の事を知ってて話し掛けてきたみたい。見た事も会った事もない人だったのに」
訳が分からないといった風な沈黙が落ちる。
「なにか心当たりはあるか?広瀬」
「いや……」
左手で顎をさすりながら何か考える風の広瀬さんだったけど、
「いや、ないな」
すぱんと言い切った。
「八重さんとも話をしたんだが、さつきさん、日中はできるだけ清流庵にお世話になろうか」
帰り道、不意の言葉に広瀬さんを振り仰いでしまった。
「あんな事があったから怖いかもしれないけど」
「家から出るなとも言えないしな。家にひとりでいる方が危ないかもしれない」
「……大丈夫だと思うけど……」
「さつき」
秋山さんの口応えを許さない口調に私は素直に頷いた。
心配してくれてるんだなあ……不謹慎だけどちょっと嬉しい。
「なあ秋山。前話した事だけどな、早めに財部と竹下に話しておきたい」
「ああ。それは俺も考えていた」
え?何の事?話すって私の事?
ちょっと待って、と口を挟む暇もないほど華麗に私を通り過ぎて会話が進んでいく。
知り合いは、特にこのふたりの知り合いはあまり増やしたくないのに、この様子ではなんだかそうもいかないみたいだった。
本当に大丈夫なのかな。
このふたりは大丈夫だけど、このふたりの知り合いが大丈夫かどうかは分からない。
思わず広瀬さんの袖を引っ張っていて、それに気がついてハッと手を離す。
「……心配しなくていいよ」
眉を下げて少し困ったように笑いながら、広瀬さんは続けた。
「財部と竹下はね、俺の学生時代からの大親友。竹下は東京、財部は横須賀だけどよく上京して来る。良い奴らだから何かあったらきっと力になってくれる」
「俺も広瀬に賛成だ。話せない事はあってもさつきは悪い事をしているわけじゃないだろう。なら堂々としていればいいんだよ」
「うん」
「それに何かあった時の為に協力者がいた方がいい。だからそんな顔するな」
清流庵にお邪魔するのはいつもの事だけど、流石にふたりが帰ってくるまで居続けはできない。
いくら手伝うからと言っても向こうにだって都合はあるだろうし、こちらにだって都合ってもんがある。
第一晩ご飯の支度はどーするの。
それは颯太くんが帰って来次第、家に来て宿題をするという事で解決したらしい。
「宿題をちゃんとさせてくれるなら問題ないし、さつき、以前売り上げに貢献してるとか言っていただろう。それがあるから遠慮するなってよ」
八重さん太っ腹。
ただ颯太くんは気の毒に……外で遊びたいんじゃないかなあ。
「それは友達連れて来ていいと言っておいたから、気にしなくていいよ。話をするんだろう?」
何から何まで……溜息が漏れそうになる。
「だからね、」
「大丈夫だ」
でもそう言われてしまうとこっちだって苦笑して頷くしかなかった。
とりあえず一週間程様子を見て何もなければそれで。その間に広瀬さんの友人に話をつけて問題が無ければ一度会ってみようという事でこの話は一旦終了になった。
なんか大袈裟な事になってきたなぁ。
2011/06/12100723
prelude to a storm : 嵐の予感
この時期私の知ってる秋山の同期が東京にいない。誰か出したかったのに