02:encounter




「今日の晩メシどうする?」

そろそろ家に着こうかという頃、隣を歩く広瀬武夫が秋山真之に水を向けた。
軍令部を出たのが四時過ぎ、今は五時少し前。軍艦(フネ)の上ならいざ知らず今から食事をするのはまだ少し早いかと思われる時間だ。
それでも帰ったら帰ったで米から研ぎ始めるのは面倒だし、家に帰ってからまた外に出るのは億劫で、自分の勉強に手をつけ始めるとつい食事の時間を外してしまうのが最近の状態だ。

「兄さんの所に行けば良かったかな」
「お前この前も行っていただろう。甘え過ぎじゃないか?」
特に応えを求めていた訳でもないのか、広瀬がそうひとりごちると秋山は苦笑した。
「けどなぁ……何か食ってくか」
働き盛りの男ふたりの夕食が家に買い置きしてあるパンというのは流石にいただけない。
そうするかと広瀬が相槌を打ち、連れだって通りを曲がった時、相当な速さでそれも勢いよく人力車が飛び出してきた。

「うわっ」
「危ない!」

咄嗟に秋山が広瀬の腕を引いた為事無きを得たが、その拍子にバランスを崩しふたりして地面に倒れ込んでしまった。

「ったー……おい!」

一言文句をと立ち上がった時には、車夫は既に脱兎の如く去っていて、ただ溜息を吐くしかできなかったのだが。
立ち上がった広瀬がぱんっと土埃を払う。

「秋山、ありがとう。大丈夫か?」
「ああ、怪我がなくて良かったよ。ったく一体何なんだ。……あ?なあアレ」

何の騒ぎだろう。秋山が指差した先には人だかりができていた。
通行道だからと通りすがりに輪になっている中心を覗き込むと見えたのは人の姿だ。

「え」
「おい」

うつ伏せで倒れている。誰もが遠巻きに見ているだけの状況に焦れて、ふたりが人ごみをかき分けて進むと周囲からざわめきが起こった。秋山が意識を失った人間を抱き起すや、更にそれが広がる。
「ん?」
ふっと髪が掛かったその顔を見て秋山は目を見張る。
しかし一方の広瀬はそれには気付かず、正義感から、
「何で黙って見ているんだ。助けてやれよ」
そう怒鳴ると、ぴたりとざわめきが止んだ。

「さ、触らない方がいいよ」
「その人、急に現れて人力とぶつかったのよ」
「そうだ!いきなり、何もない所からだぞ」
「急に?一体何を言っているんだ」
「人力?さっきのあれか」

秋山と広瀬は思わず顔を見合わせた。
彼らを取り囲む顔にはありありと「気味が悪い」「関わりたくない」と書かれており、ふたりが更に何かを尋ねようとしても、さーっと波が引くように三々五々散って行ってしまったのだった。

「……」
「どうするよ」

面倒事を抱え込んだな、と汗がひとつ落ちるのを感じながら、倒れている人間を捨て置けるほど冷たくもなれなかった。

「広瀬、これ女だ」
「へ?」

まじまじと見ると、道理で歩いていた人間が遠巻きに見ているだけだったと理由も頷けた。
髪の色は仄暗い茶色。身につけているのは洋服でジャケットにズボン。身長も五尺三寸(百六十p)はある。
近くに投げ出されている荷物を見ても、どうも国内のものとは様子が違う。
アジア系の顔立ちだが日本人かどうかも分からないし、女にしては大柄で服装が男そのものだ。
要するにその出で立ちが怪しすぎる。

「おい、大丈夫か」
「うぅ……」

広瀬が軽く肩を揺すると、その口元からは小さな呻き声が上がった。

「気を失っているだけか。普通ならとりあえず病院か交番か、だが」
「普通なら、な」
「いきなり何もない所から現れて人力とぶつかった=Aね……」
「意識が戻るまで家で寝かせておくか?このまま交番なんかに連れて行くと大騒動になりそうだ」

ふたりが住んでいる借家はここから程近い所にある。秋山の提案に広瀬は首を傾げて思案したが、暫く安静にしておけば大丈夫かと軽く考えて最終的には頷いた。




覚醒した時、さつきの目に映ったのは薄暗い部屋の天井だった。
体を起こすとぱさりと軽い音を立てて布団が落ちる。
窓にはカーテンもなく、雨戸も引いていない為かそのまま月明かりが差し込んでいた。

寝ぼけてる?
さつきは緩く頭を左右した。おかしい。いつの間にホテルに辿り着いたのだろう。
……ホテル?ここはホテルなのだろうか。違う気がする。
窓から見える風景は随分と鄙びていて、自分がいた都心ではないと判断した。

(なぁんだ、夢か)
立ち上がり窓を開ける。深呼吸すると少し冷たくて澄んだ空気がおいしかった。
(……夢?あれ?でも私……)
支社を出て本社に電話を掛けて、信号を渡っている時に車に、

「あんた起きて大丈夫なのか」
「ぎゃあああああっ」

いきなり部屋に灯りが灯ったのと、何の前触れもなく掛けられた声にさつきは色気の欠片もない大声を上げた。

「おい、どうした秋や」
「ぶっ」

突然の驚声に部屋を覗きに来たのだろう、もうひとりの男が姿を見せた瞬間、さつきは咄嗟に布団の上に転がっていた枕を拾い上げ声を掛けてきた男の顔に叩き付けた。

「きゃああっ!イヤッ、嫌っ‼こっち来ないで!誰⁉ここどこっ⁉」

ざざっと後ずさり、部屋の隅に背中をべたりと引っ付ける。情況が分からなくて半泣きで喚くさつきを、呆気に取られながら遠巻きに見ていたふたりが苦笑した。

「げ、元気だな」
「イヤ、なんとかしてくれ広瀬」

声を掛けてきた男が、半分引き気味で引き攣ったように笑う広瀬と呼ばれた男の後ろにさりげなく回り、その背をぐいと押した。

「え、オイ秋山……」
「早く」

はあと広瀬の口から溜息をひとつ漏れる。

「分かった、そっちには行かないから少し黙ってくれ!君は……あー、……日本人か?」
「えっ?に、日本人だけど」

トーンダウンした広瀬の問い掛け。それに頷いたさつきにふたりが顔を見合わせた。

「そこでいいからまず座って。俺は広瀬と言います。彼は秋山。貴方は?」
「あ、如月さつき、です」

ぺたんと座り込んださつきを見て、広瀬と秋山もその場に腰を落ち着ける。

「じゃあ如月さん、近所で倒れていた貴方を俺たちがここまで連れてきたのだが。怪我はない?大丈夫か?」
「倒れてたんですか?私」
「人力とぶつかったようだけど、全然覚えていないか」
「人力?」

聞き返せば人力車と言い直してくれた広瀬に、何言ってんこの人とさつきは笑いそうになった。

「人力車なんて今時走ってるんですか?」

観光地じゃあるまいし普通に道を歩いていて人力車とぶつかるなんてまずないだろう。
そう思っての一言だったのだけれど、返事なく黙り込んだふたりの雰囲気に押されてさつきも口を噤んだ。
しかしこのふたりにとって人力車はどこでも見掛ける主要な交通手段のひとつだったのだ。
それを知らないまま「人力車なんて今時走ってるんですか」と。
人力車「なんて」「今時」とさつきは言った。

「如月さん、あんたどこの人だ」

秋山の質すような問い掛けに今度はさつきが首を傾げた。
どこって。
さつきは一地方の出身で、今日は偶々東京に出張に来ていただけだ。

「東京に出張?」
「ええ。そう言えばここはどこですか?私の記憶、都心で途切れてるんですけど」
「…………東京の、麻布だよ」
「麻布?うそぉ。麻布なら窓から六本木ヒルズとか……高層ビルが沢山見える筈でしょう。ね?えっと、広瀬さん?」

広瀬に同意を求めたが、彼も驚いたようにさつきを見つめていて、思わず息を飲んでしまう。お互いに何を言っているのかよく分からない。

「……え、ここ……本当に麻布?」
「貴方は人力車の前に急に現れて、それにぶつかった?か、轢かれたらしい」
「気を失ったあんたを近所の人間が取り巻いて見ていたのだが、その格好だから誰も助けようとしなかったんだよ」

(いや、その格好と言われましても……)

さつきの格好はジャケットにパンツ。働く女性としては至ってノーマルな仕事スタイルだ。
しかし対面で座っているふたりは着物姿。今時の若い男性は家では着物で寛ぐのだろうか。そんな話は聞いた事がない。
そもそも秋山という男が点けた部屋の灯りはランプだ。それに家の雰囲気、窓の外の様子、どう考えても現代の都会とは結びつかない。
でもここは東京だというし、目の前にいるふたりが嘘をついているようにもさつきには見えなかった。

(…………何というか、これ)

嘘、嘘、と思いながらもあるキーワードがさつきの頭を過ぎる。

「あの、今何年です……でしたっけ」
小説や漫画なんかで見るアレでは……

「今年は明治三十年だが」

恐る恐るの質問にさらりと返された答えがあまりにも予想通りで、さつきはがっくりと肩を落とした。

(ありえない……)
タイムスリップだ。多分。



急に前のめりに倒れそうになったさつきを秋山は咄嗟に支えようとしたが、「明治⁉」とか「うそ」「でも、なんで」と小声で呟きながら取り乱しているのを見て、思わず手を引っ込めた。
あからさまにおかしな様子に秋山と広瀬の背中には冷たい汗が流れる。

「あの、秋山さん、私の荷物は」
一緒に来ていなかったかと問われ、大きい方は玄関に小さい方は部屋の隅だと指差すと、彼女は一目散に鞄に駆け寄り、その中身をざあっとぶちまけた。

(うわ……なあ広瀬、交番に行った方がいいのでは……)
(俺もそう思う……)

得体の知れない人間を拾った事を今更ながらに後悔し始めた時、「あった」と何かを探し当てたさつきがすっと手を差し出してきた。

「私の名刺です」

受け取ったそれにふたりが視線を落とすと、企業名と部署名、さつきの氏名、本社・東京支社の住所とランダムな数字、よく分からないアルファベットが記されている。

「私、出張でこの住所にある東京支社に来ました。支社を出て信号を渡っている時に大型車とぶつかって死んだかと思った。でも目が覚めたらここにいて……」

「ここは私が知ってる東京じゃない」


「働いているのか」

顔を上げた広瀬がさつきの顔を見て意外そうに呟く。
社会に出て働き、その為の名刺を持っている女など今の世の中にはいないだろう。
洋服を着るのは専ら男、女でも着用するのは所謂上層階級で、ドレス等のスカートが普通だ。
一般的な出で立ちと彼女のそれとは大きな隔たりがあるし、今畳に広がっている彼女の荷物を見ても奇妙な物が多い。とにかく何もかもがあまりにも違いすぎる。

――いきなり何もない所から現れて人力車とぶつかった
――私が知ってる東京じゃない

違う世界の東京から来た。
言い換えればそういう事になるのだろうか。

現に名刺に記された東京支社の住所は秋山と広瀬が知っているそれとは似て非なるものだった。
東京府東京市ではなく東京都、そして聞いた事がある地名の区名。
違う世界の東京?随分と奇天烈な話ではある、が。

「ありえないとは……」
「一概に否定もできんな」

あっさりとさつきの主張を受け入れる言葉を口にしたふたりに、却って彼女の方が驚いていた。

「如月さん、あんた」
「はい?」
「泊まる所は……ないよなあ……」
「秋山、このまま交番に行っても彼女は癲狂院行きだと俺は思うが」

秋山は広瀬の言に頷くとそうだなと一言零してとさつきと視線を合わせた。

「ここに泊るか?この家は俺と広瀬だけの男所帯だが、それでよければ」
「はっ?でも」
「そうだな。来られたのなら帰る方法もあるだろうし。ここで探したらいいさ」



突然の提案にさつきは口をあんぐりと開けた。
秋山の言う通り現状さつきには泊まる所がない。そもそも東京に土地勘もないのに明治三十年ときた。
手持ちの現金だって十中八九使えない。この状態で一体何をどうしろと。だからふたりの申し出はありがたい。本当に、この上なくありがたいのだけれど。
自分にとってあまりに都合のいい提案、そして展開の早さだ。要するに話が旨すぎる。
(男しかいない家を頼るのは……いくらなんでもまずいんじゃないの)

「なんでそんなに親切にしてくれるんですか」

恐る恐る、しかし不信感を滲ませたままでさつきは聞いた。
その様子にふたりは、ああ、そうだよなと笑って一言。

「「癲狂院に行きたいか?」」

声を揃えて言われてしまった。
テンキョーインと棒読みで復唱をすると、それに気が付いた秋山が説明してくれた。

「癲狂院、分からないか。脳病院だ」
「脳びょ……まあそうですよね……」

違う東京から来たなんて世迷言もいいところだ。
確かに精神病院行きかもしれない。さつきは目の前に座るふたりをちらんと見上げた。

信じられないけれど、ふたりはさつきを異世界の人間である(らしい)と受け入れてくれたようだし、今のこの反応。これは純粋に心配されていると取っていいのだろうか。そうでなくても行くアテもないのだし、頼る所もないのだし……

「……暫くの間ご厄介になります」
「お〜こちらこそよろしく」
「共同生活だからな。ルールは守れよ」

ぺこんと頭を下げると、さつきの頭上には広瀬と秋山の朗らかな笑い声が響いた。



090619
encounter:出会い
当時の平均身長は男性155p、女性145pくらい

wavebox(wavebox)