起きたら太陽が随分と高い所にまで登っていた。
仕事と思い跳ね起きたが、「あーそうだった……」と思う気持ちと「夢じゃなかったんだな」と思う気持ちと。
言うまでもなく後者の方が大きい。
がっかりとしか形容のしようがなかったがどうしようもない。
とりあえず着替えて居間に移動したけれど、ふたりの姿は既に見当たらなかった。
柱に掛けられている時計を見ると十時過ぎ。普通ならば働いている時間だ。
(起こしてくれても良かったのになぁ)
と言うより気持ちとしては起こして欲しかった。
ちゃぶ台を見ると蠅不入の中には揃えられた箸と湯飲み。不揃いなおにぎりがいくつか並んだ皿がある。
「あれ?」
腰を下ろして蝿不入を脇に置いた時に皿の下敷きになった紙に気付き、二つ折りされたそれを広げるとぱらりと数枚の紙幣が落ちた。紙には伝言が記されている。
「……仕……ニ……は、五時……?……?……秋山」
読めない。
(仕事に行ってる、五時頃に帰ってくる、ってとこかな。後は読めないや。それにお金……)
いかにも書き慣れているといった風の崩し字の中、辛うじて読めたのは最後のサインだけ。
解読するのをあっさり諦めながら食べたおにぎりはとてもしょっぱかった。
水を求めて台所へ移動するも目に入ったのは土間、そして竃だ。冷蔵庫レンジ洗濯機テレビ当然無し。シャワーも無い。
見たところ電気もガスも通っていない様子。おまけにトイレは汲取りだ。
「…………」
下駄を履いて土間を降り、外に繋がる入口傍に据えてあった甕の蓋を取る。
上に置いてあった柄杓で水を飲もうとして、ふと思った。
「これ飲めるの?」
そのまま口にするのは何となく遠慮したい気分だ。
外に出ると井戸があった。時代劇なんかでしか見た事がないそれの縄を引くと、がらがらっと釣瓶が上がってくる。
口に含んだ水は冷たかった。
(……大変だな)
湯を沸かすのに、水を汲んで火を起こす所から始めないといけない生活。
不便とか、もうそれ以前の。
水を飲む、そんな簡単な事にさえいくつものアクションが必要で、こんなにも苦労する。
「こんな所でどうやって生活しろと」
それでも百年前の日本人はそんな中で暮らしていたのだ。
(助けてくれる人がいたらなんとかなるよ。ひとりじゃないし……)
そう思わないとやっていられない。
現代は本当に便利だ。
それでも不便だと思う事は確かにあったが、現代の不便なんて明治と比べると罰が当たりそうなレベルだろう。
現代で科学や機械に頼っていた事の殆ど全てがこちらでは人力だ。
(なんかさ、……)
今更だが思ってしまう。
(できる事が殆どない、みたいな)
今ここでする事はないかと考えた時、自分にできる事は家事位しかないように思った。
さつきはひとり暮しであったから家事は人並みにはできる。だからふたりが帰ってくる前に軽く家の掃除でもして、食事の用意でもしてみようかと思ったのだ。
でも実際に手を付けようとすると、何をどうすればいいのかが分からない。
空いた食器を持って台所に立つ。
再度井戸で汲んだ水で洗った食器を片付けると、さつきはしゃがみこんだ。
(あー)
げんなりとしか言いようが無かった。
正に「どうしよう」な状況で台所で凹んでいた時、突然声が掛けられた。
「あんた誰だい」
秋山と広瀬は海軍省内にある海軍軍令部に勤務している。
霞ヶ関まで民間の勤め人と同じように時間通りに出勤して定時に帰る生活だ。
従ってさつきが起きるまで待つなんて悠長な事はできなかった。部屋を覗いた時いまだ熟睡する女の様子を見て、秋山は静かに襖を閉めたのだった。
昨日の今日で無理に起こすのが気の毒になったというのもある。
(そりゃあ疲れるか)
秋山としては信じ難い所もあるが、「ここ」が元いた場所と全く違う世界だというのなら、疲れ方も尋常ではないだろう。
「寝ているのか」
「死んだように」
朝、さつきの様子を見に行った秋山の返事に、そうだろうなと広瀬から簡単な言葉が戻って来た。台所からだ。
広瀬は先程から台所を占拠して何やらごそごそとしていて、何をしているのかと覗きに行けば、秋山の姿を認めた広瀬が鼻を鳴らして笑った。
「起きた時に誰もいない上、メシも無いのは気の毒だと思ってな」
その手許にあるのは不格好な握り飯だった。
意外と気が付く奴だなと思っている内にその皿を渡される。
「そろそろ時間ヤバいな。俺着替えてくるわ」
悪いが何か一筆残してやってと頼まれ、秋山はそのまま居間に移動した。
ちゃぶ台で軽く走り書きすると、秋山は財布から数枚出した札をそれに挟んで皿の下に置いた。
さつきは手許不如意だろう。と言うより状況を考えると一文無しだろう。
(これは色々と……)
「すまん、秋山。行くか」
頬杖をつきながらぼんやりしていた秋山は「行く」とだけ答えると玄関に向かった。
問題というか、面倒事が色々とありそうだなと思いながら。
で。
面倒事でぴんと来たのだ。よりにもよって仕事を始めて暫くしてから。
「広瀬、今日は千代さんが来る日だ」
あ、と声を上げて広瀬が固まった。
完全に忘れていた。今日は家に人が来る日だ。
しかし今となってはどうしようもなく、霞ヶ関から人を遣って知らせるにも事情が事情なだけに何となく憚られた。
人が来る事なんてもちろんさつきには知らせてはいないし、今気が付いた位であるから当然伝言にも書いていない。
おかしな事にならなかったらいいが……
背中にひんやりとした汗が流れるばかりで、これほど終業を早く願う気持ちになるのも初めてだった。
四時、秋山と広瀬は仕事もそこそこに切り上げて競歩のような早足で麻布まで帰り着いた。
玄関先でひとまずは様子を見るべきかと頷きあった時、ふたりの懸念を余所に台所の方からは笑い声が聞こえてくる。
思わず顔を見合わせ台所に顔を出すと、食事の用意をしているのか割烹着を着ている婆さんと昨日よりももっとラフな格好のさつきがいた。
「ようおかえりで」
「あ、おかえりなさい」
「ち、千代さん……」
婆さんの方をちょい、と手招きする。
「……」
「……」
「……何かね」
呼び出したものの、「え、いや」とか、そんな言葉しか出てこない。
「……さつきちゃん、本当に何にも知らない子だねえ。驚いたよ。着てる物も全然違うし。今までどんな暮らしをしてきたんだい。上げ膳据え膳ったって限度ってもんがあるだろう。第一そんな生活ならこんな所に来たりはしないよねえ。あれかい親に認められなくて男と逃げるのにここを待ち合わせの場所に選んだとかどうせそんな口だろう?……まさかあんたたちの、え、それは違う?ふぅんそうかい。まあ何があったかは知らんしどうでもいいがね」
どうでもいいと言いつつ、じと〜っとこっちを見てくる婆さんの視線にふたりの目は思わず泳いだのだが。
「俺の、遠い遠い親戚なんだ。暫くここにいるから、よろしく頼むよ」
突っ込まれなくても丸ばれだろう嘘をついて、広瀬は強張った頬で笑ってみせた。
「こっちだってびっくりしました。起きたら誰もいないし、台所でいたらいきなり誰だって言われて」
食後、お茶を飲みながら、あはは〜と手を振りながらさつきは笑った。
その様子があまりに能天気で、ふたりは今度こそ脱力した。
「どうしようもなくて、広瀬さんの遠い遠〜い親戚ですって咄嗟に嘘ついちゃったけど、ばればれですよね。あと秋山さんの置手紙、読めなかったんですが、夕飯の買い物してお金を少し使いました。良かったですか?」
「読めなかった?」
伝言には仕事に行く事、五時頃に帰る事、入用であれば紙幣は適当に使ってくれたらいいと書いていた筈だ。
「秋山≠オか分かりませんでした」
秋山は首を捻ってしまった。
帰り間際の千代婆さんは、さつきに頼まれて生活する上での基本的な道具の使い方を今日一日掛けて教えたと言っていた。
火元の事、生活利用水の事、洗濯の事、掃除の事等。
そんな事を「一遍に習うのに書かなかったらすぐ忘れる」と、あれこれ聞きながら書き取っていた≠ニ。
だから婆さんはさつきの事を「本当に何にも知らない」と言っていたのだ。
「ふ……ん」
「書けるのに読めないのか」
そこには広瀬も引っかかるらしい。
「読み書きはできるけどああいう崩し字は書道してたり、昔の手紙読む練習してる人じゃないと」
「昔の手紙」
昔という単語に更に引っ掛かり秋山が小首を傾げたのをどう見たのか、さつきが話を変えた。
「それよりおふたりは海軍の偉い人だって聞きました」
「え、偉い人?」
「あれ、偉くなる人だったかな」
そう言われて悪い気分になる訳ではないが、(一体何の話をしていたんだ)とは思ってしまう。
何となく気恥ずかしくなって口を噤んだふたりを前にさつきはぽつりと零した。
「あの、それですごく今更なんですけど、……本当に私ここにいていいのかなあ」
090628/090713
nothing:できること、なんにもない
蝿不入はこの時代には無かったかも。そしてこの時代だとまだ箱膳が主流だったと思います。