20:aware




「本当に大丈夫か?あのな、しんどい時は弁当もいらないと前に言ったじゃないか」
「うん、でも本当に大丈夫だから。ありがとう」

今日はもういいからゆっくりしろと言おうとする前にさつきに言葉を継がれ、秋山は眉を顰めた。
確かにいつもと変わらない様子だ。
だが、そうであるからこそ余計に眉間に皴が寄る。
しかし無理に押し切る事もせずに今日はそのまま家を出た。

昨日霞ヶ関から帰って来た時、寝ている颯太に付添うようにしてさつきは居間に座っていた。
ふたりが帰ってきた事に気がついてこちらを見上げたその顔色に秋山と広瀬はぎょっとしたのだ。
さつきは「あ、おかえりー」といつものようにへらっと笑って返事をしてきたが、顔は真っ青で酷くいびつな笑い顔になっていた。

寝ている颯太を背負い清流庵まで連れて帰っている間、家に残った広瀬がさつきに色々と尋ねたらしいのだが、何を聞いても「何もない」と言うだけで埒が明かなかったと秋山は聞いた。

(何もなかった訳ないだろう)
何かあったら遠慮なく言えとあれほどきつく言ったのに。

こういう時の事も考えて自分たち以外にも相談できる、しっかりした人間を紹介してやりたいと思っていたのに、まだ顔を合わせる前の段階でいる事に若干の焦りを覚える。

「昨日何があったと思う?」
「ん?ああ……様子が明らかにおかしかったからな。颯太もずっと寝ていたみたいだから聞くに聞けん」
「今日は普通のように見えたが……何を聞いても何もない∞疲れたのかも≠セ。意外と強情で正直お手上げだよ」
「もしかしたら、また会ったのかもしれないな」
「秋山もそう思うか」

それは予想していた事であったが、自分たちに話さないのは不可解な話だ。それに、
「話す時に顔を見ないというのは今までなかったなあ……」
地味に傷つく。
首だって捻りたくなるというものだ。



朝はそんな会話をしながら出勤したのだが、夕刻家に帰り着くとさつきの様子はいっそ拍子抜けするほど全くいつも通りだった。
いつもの通り夕食を済ませて、いつもの通り食後は三人で少しだけのんびりして、いつもならふたりは自室で勉強、の筈なのだが。

「どうしたの?」
「邪魔か?偶にはいいだろう」

お前の様子が心配であまりひとりにさせたくないのだとは、秋山も流石に気恥ずかしくて言えなかった。

「別にいいけどさあ。お茶淹れよっか」
「俺のも貰える?」
「あれ、広瀬さんもここで勉強するの?机狭いよ?」
「邪魔だった?」
「まっさか〜ちょっと待ってね」

くすくす笑いながら台所へ消えたさつきを見て、どちらともなく息を吐く。
「いつも通りだな」
それはもう驚くほどに。昨日のあれはなんだったのか。


「ね、如月さつきってロシア語でどう書くの?」
「……こう、……」
「やっぱり英語とは表記が全然違うね」

英語よりはロシア語に興味をそそられるらしく、さつきは鉛筆を動かす広瀬の手許ばかりを見ていた。

「ラテン語の系統なら勉強しやすいのにね。どの位勉強続けてるの?え、四年?もしかしてペラペラ?」
「いや話す方はまだ全然」
「ロシア語は勉強している人口が少ないから学ぶ機会を捕まえるのも難しい。それに海軍は転勤も多いからな」
「ふーん……そう言えば私の友達ロシア語の為にカムチャツカに行ったよ」

ふたりの動きがビシッと止まったのだが、それには気付かずさつきは普通に話を続ける。

「ロシアの歴史勉強している子でね、ロシア語必要だからって。偽ツァーリ?ドミトリー?なんだったかな、確かそんなの調べてた。殆ど片言しか分からないのにロシアの所縁の地を訪ねるのに現地でコーディネーター雇って、観光地じゃない所まで行ったりして。女の子ひとりでだよ。すごくない?その子も大変そうだった。初めはキリル文字が全然覚えられないし、覚え始めても日常生活で使うところないし。でも頑張ってたし、なんとかなってた。……だからね、広瀬さんもロシア語でやりたい事があるんだったら、きっと大丈夫だよ」

「…………」
「広瀬さん?」
「あ、あぁ……ありがとう」
「しかしすごい友人だな。さつきはどうだ?海外には行った事は?」
「ヨーロッパもアメリカも行った事あるよ。飛行機だから十四、五時間あれば大抵の所に行けるし、近場なら結構行くよ。安いし。韓国なら一泊二日、台湾だって二泊三日位で遊びに行けるしね」
「…………」

「……さつきさん、ロシアの事で他に知っている事はある?」
「ロシアで……あー……ピロシキ、ボルシチ、ロシアンティ、ウォッカ、キャビア、ビーフストロガノフ……?」
「誰が食いたいもん言えと言った」

空中に視線を彷徨わせながら指を折る姿に秋山が笑う。

「あーあとクムイス!あれロシアだったっけ?とにかく広瀬さん、あれは飲んじゃ駄目だよ?酷い目に遭うから」
「遭ったのか……」
「遭ったんだよ!次の日トイレとお友達だったよ!」





「で、どう思う広瀬」
「どう思う、って……俄かには信じがたいんだが」
「偽ツァーリ、知ってるか?」
「確か関ヶ原の合戦あたりの人物だったと思う。……なあ秋山」

両肘を机につき組んだ両手に額を預けると広瀬は息を吐いた。
さつきが淹れてくれた茶はとっくに冷めていて、それを秋山は一気に飲み干すと同じく息を吐く。
酷く喉が渇く。

「俺も多分お前と同じ事を思ってる」

そうか。
そう返す広瀬の返事には秋山と同じ答えを得た若干の安堵が混じっていたが、困惑の色は消えてはいなかった。

「以前もあれっと思う事はあったんだ。秋山も同じだろう?」
「ああ、三人で出かけた土曜とかな」
「俺たちに話せない事多い筈だよなあ……でも、」

一旦言葉を切ると考える素振りを見せる。

「うん。様子は昨日からおかしかった。普通そうに振舞ってはいるけどやっぱり今日も変だ。今まであんな話……友人の話とか海外の話なんてした事無かったよな。それを何で今更」
「変≠セからだ」

ん?と言うように広瀬が秋山に視線を向ける。

「いつもと違って変だから、うっかり口を滑らしたんだ。多分。しかもあいつはそれに気付いてない」
「………俺は話してくれるのを待つよ」

暫くの沈黙の後にぽつりと呟いた同僚に秋山も頷いて小さく笑った。
その様子に怪訝そうに眉を顰めた広瀬にひとつ咳払いする。

「笑い事じゃないのは分かっているんだが、次から次へと……本当に飽きないな」
秋山は胡坐をかいたまま仰向けに体を畳の上に投げ出した。


それにしても。
衝撃的な推測に思い至りはしても、さつきの変調の原因についてはやはり疑問符がつく。
無理にでも聞き出す方がいいのではないかと迷う。その反面、これだってさつきから話して欲しいと思うのだ。
さつきは恐らく例の人物と遭遇している。
しかしそれを自分たちに伝えない理由は何なのだろう。
否、そもそも「伝えない」のか「伝えられない」のか。何かに脅されている、とか……?
いやそれはないだろう。

そう考えるも、流石に思いあぐねてしまった。
いくらなんでも情報が少なすぎる。
それに交流関係は極狭い同居人の事だ。それなのに自分たちが半日家を空けただけでどうすれば話せないような事が起るのか。それが秋山には解せなかった。




翌朝、さつきはやはりいつも通りで秋山はその様子にどことなく不安を覚えた。
曇り空でそれもまたすっきりしない。
広瀬に促されて玄関を出、数歩進んだ所で秋山は振り返った。
「忘れ物?」
珍しいねと笑うさつきを凝視。

「どうしたの?」
「本当に大丈夫か」
え、ときょとんとしたさつきに、そのまま言葉を被せる。
「しつこいかもしれないが、しんどいなら休んでくれ」

違う。
本当に言いたいのはそうじゃない。しかしそうとしか言えないのがもどかしい。

「清流庵、どうする。家にいるか?今日も行かないのなら伝えておくが」
「……じゃあ頼もうかな」
「うちに誰が来ても出なくていいからな。いや、出ないでくれ。鍵を掛けておけよ」
「うん。もう行かないと広瀬さん待ってるよ。ほらほら行った行った」
「あ、あぁ」
「いってらっしゃい」

ひらひら手を振る様子に少し安心し、笑い返して家を出た。



あの時何故家にいるかなどと聞いてしまったのか、思い返すと秋山は自分を呪いたくなる。
霞ヶ関からふたりが帰って来た時、家からさつきの姿は消えていた。



110214/111224
aware:気がついた
露語・露国史の件は実話。クムイスはモンゴル辺りの馬乳酒です。本当に酷い目に遭います。

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