21:heavy weather




からり。指をかけると扉は抵抗なく横に滑り、秋山と広瀬を迎え入れた。
「開いている」
玄関には鍵が掛っている筈だった。それに。
「靴がない」
広瀬が言うや秋山が家に上がる。真っ先に居間に、いないと知るとさつきの部屋に向かい、声も掛けずにその襖を開けた。
が。

「いない…」



「誰か来ていたみたいだな」

さつきの部屋に足を運んだ広瀬が秋山に話し掛ける。
居間の机には茶卓に乗せられた湯飲みが三つ置いてあった。
さつきと誰かふたりの分だろうが、片付けもせずこのままの状態で放置して彼女が出掛けるなんて秋山と広瀬には信じられなかった。

「秋山……」
「止めてくれ、考えたくない」
もしかしてどこかに連れて行かれた可能性もある、だなんて。

「鞄はあるな」
「ああ」
広瀬に言われて秋山は机の脇にあった鞄に手を伸ばす。
さつきがいつも使っているものだ。少し考えて秋山はそれを開けた。

「おい……」
広瀬は少し躊躇うような素振り見せたが、止めないのは今が緊急時だからだ。
そのまま秋山は鞄の中身を丁寧に畳の上に広げる。何かがないと思った時、広瀬が呟いた。
「財布がないな」
秋山もひとつ頷く。
それに手帳も見当たらない。机の抽斗を開けても見当たらなかった。

「手帳?」
広瀬は知らないらしい。秋山が一度だけ見た事のあるそれ。
オムライスを食べた時に中身をちらっと見た。当用日記のような手帳に随分細々と何かが書かれていた。
あれがあれば何か手掛かりもあったかもしれないのに。

「ノートならあるが……」
荷物を点検していた秋山の傍ら、広瀬は広瀬で机上にあったいくつかのノートを広げペラペラと捲っていた。
数字が羅列してあるもの、これは家計簿だ。
それに何か細々とした話が書いてあるもの。
「……これは『指輪物語』だな」
やや乱雑に走り書きされた中身に広瀬が小さく笑う。と。

「秋山、なんだろうこれ」

ノートの上部、罫線を切っていない所に住所が書かれている。
「新宿○○、×番△号?」
同僚の言葉尻に疑問符がついたのを察して、知らないかと広瀬も溜息を吐くと、

「すまない」

視線だけを向けてくる相手に言葉を繋げた。

「俺のせいかもしれない」
「……とりあえず今はさつきを探す事だ」

思い当たるところがあるのか、秋山は突然の同僚の言葉を追求しなかった。

「もしかしたら財布だけ持って清流庵に行ったのかもしれない」
そういう雰囲気でないのはよく分かっているのだが。
すぐ戻るからと言い置くと秋山は広瀬の返事を待たずに部屋を出て行ってしまった。



広げられたものを鞄に収めながら、広瀬もまた動揺していた。

(勝手にいなくなるなって言ったのに)
目を瞑ると耳の裏で少し早めに打つ心音が聞こえる。

(もっと)
もっと早く手を打つべきだった。今更言っても詮無い事だが。

自分の身辺を誰かが調べている事、それは広瀬も確かに感じていた。
初めは本省だったか、同僚に何かあったのかと聞かれ「いきなり何を」と首を傾げたのだが、更に講道館でも同じような事をちらりと聞かれると、心当たりがあるだけに流石にどきりとしたのだ。

そして先日、竹下勇と会った時の事。
「財部が広瀬はどうしてるってさ。どうした。会ってないのか?」
そう聞かれた。
そんな時にそんな事を聞かれると嫌でもピンとくる。

(どこで気付いた……?)
あれか。弁当か。

あの時、財部に突っ込まれて広瀬と秋山は揃って挙動不審になり、その上ヒントじみたものまで与えている。
財部が広瀬の身辺を調べているという事は、彼なりに何かを察し、懸念なり心配なりをしてくれているからだろう。
だからこそ広瀬は早く財部を捕まえて話したいと思っていたのだ。
しかし財部とはこんな時に限って擦れ違いが多く、とりあえず竹下だけにでもと思った矢先に清流庵でのあの事件だ。
――まさか
清流庵で話を聞いた時の感想はそれで、秋山に話を振られても咄嗟には返事ができなかった。
しかし。
まさか。
でも。

でも。

思い当たるのは親友しかいない。
(あれ?……いや、しかし……)
ふ、とある事を思い出して広瀬は首を傾げる。客人の可能性があるのは財部だがそれは不自然だし、第一無理だ。
だって、――




「広瀬」

いつの間にか戻って来ていた秋山が声を掛ければ、広瀬が入口を振り仰いだ。

「清流庵にはいなかった。行ってもいない。ただな、あの新宿の住所、千代さんの所だ」
「千代さん?……ああ、引っ越し先か。今のところそこしか頼る場所はないか。清流庵は近過ぎるもんな」

秋山は返って来た言葉に肯首した。流石に飲み込みが早い。
そして読みは同じだった。
さつきが頼れる場所は今の所清流庵か千代の所しかない。
八重に聞けば千代からの葉書を見たというのだから、それが見当たらない今、手帳か何かに挟んでさつきが持っている可能性が高かった。

秋山が帰る道すがら少し落ち着いて考えれば、家や部屋では争ったような気配はなかったのだ。
その上鞄に財布と手帳だけが見当たらない事で、どこかに連れて行かれたという可能性はその時点で随分低くなる。
靴がないのは恐らくさつき自身が履いて家を出たからだろう。
原因は十中八九ふたりの客人で、該当しそうな人間がひとり頭に浮かんだが秋山は即座にそれを否定した。

ふたりとはどういう事なのか。そこが分からない。
しかしやって来た人間に何を言われたかの想像は大体つく。
そうだ。さつきは自分の意志で家を出た。

(…………)

……出た?出掛けた?どちらなのだろう。
財布と手帳だけ……この家に戻って来る気があるのだろうか。
出掛けているだけだ。そう思いたいのは山々だったが、ここ何日かの様子を思い返すとそこまで楽観的にもなれない。

「今日来た人間は違うと思うが……さつきさんがいなくなった原因のひとつは財部かもしれない」
「かもな。弁当だろう?」

暫くの沈黙の後、突然の広瀬の言葉に秋山がさらっと答えると気付いていたのかとでも言うように、伺うような視線が向けられた。秋山は苦笑する。

「それしか浮かばない。しかし湯飲みが三つというのが分からない。財部は今日ずっと本省で会議だっただろう。で、今日の夜家ここに来る予定だとお前が教えてくれた」
それを抜けて麻布に来るというのは考えられる事ではない。

「そうなんだよ」
どう考えてもそこで壁に当たってしまう。ふたりとも口を噤んでしまった。


「何となく嫌な予感というかさ、そういうのはあったんだ」
本省と講道館で話を聞かれている、探られているような形跡はあったし。
「それで早く話を進めようとしていたんだな」
秋山の言葉に広瀬がひとつ頷く。

「今日の客は財部ではないと思う。でも財部以外に心当たりはないし、正直なところこんなにすぐ、こんな事態になるとは思っていなかった。……すまん秋山、少し混乱して上手く言えん。ここ何日かで色んな事が起り過ぎて戸惑うよ」

だがそれでも、さつきが聞かされただろう話の内容なんて大体の想像がつく。
広瀬や秋山の顔をまともに見られないような、罪悪感を突くような事を言われたのだろう。
もしかしたら留学の話も耳にしたのかもしれない。

(そうだ……)
それならば昨日いきなり始まったロシアの話にも合点がいく。
そこで気付くべきだったのだ。
おかしいと感じたのに、違う方に目が向いてしまった。

「それは無理からぬ事だ、広瀬」
「いいや、読みが甘かった。もっと早く動くべきだったし、……かわいそうな事をした」
「とにかく今から新宿に行って来る」

俺も、と言い出しそうな広瀬を制して、
「財部が来るんだろう。そこで話を付けてもらっていいか」
秋山が立ち上がった所で、見計らったように玄関先から声が聞こえた。財部の声だった。





「財部、今日の夜開いているか?できたら家に来て欲しいんだが」

海軍省のフロアで同期の姿を見かけた時、広瀬は咄嗟に声を掛けた。
家?と見返した財部に「ここでは話せない事なんだ」と言葉を繋げると、財部は少し考える風に間を置いて首を縦に振った。
広瀬としても財部に聞きたい事はあったが、向うにもこちらに聞きたい事があるようだった。
(やはりさつきさんに会ったのは財部だったんだな)
その様子にそう確信した。

「今日は立て込んでいる。少し遅くなるかもしれないがいいか?」
「ああ。悪いが頼む」

そう言って分かれた男が縁側、広瀬の隣に座っていた。


「話したい事は大体分かる。如月さんの事だろう」
こちらが口を開く前に告げられた一言にやはりという思いが胸に落ち、出掛けようとしていた秋山も黙って机の側に座った。

「会ったのか?」
「ああ。初めは茶屋で声を掛けて……そんなつもりはなかったのだが、酷く怯えさせた。その事は謝りたいんだが、……いないのか?」
「…………」
「広瀬」
「いなくなった」
「え?」
「財部、いなくなったんだあの馬鹿」

聞く態勢でいた秋山が後ろから口を挟んだ、その一言に財部がぎゅっと眉根を寄せる。
その様子に秋山、広瀬のどちらともなく溜息が落ちた。

「行く場所なんてない奴だからな。だが恐らく新宿に向かっている」
「待て、行く場所がない?どういう事だ」
「財部、どういう話をしたかの想像は大体つくんだが……あの子ここ以外に居場所がないんだよ」
「帰る家位あるだろう」
「ないんだ」

第一彼女は帰りたくても帰れない。
そもそもどうやってここに来たのか、何故ここにいるのかも分からずにいるのだから。

「……すまない、広瀬、俺はお前が何を言っているのかよく分からないんだが」

広瀬が続けた言葉に財部は困惑していて、その様子に秋山もそらそうかと思った。
そんな事をいきなり聞かされても、今までの行き掛りを知らない財部にはよく分からないに違いない。

「財部、さつきは俺たちが道で拾ったんだ」
「は?」

音がしそうな程勢いよく秋山に向けられた顔に、広瀬も秋山本人も思わず苦笑する。

「拾った?犬や猫じゃあるまいし」
「本当だ」

近所の道端に突然荷物と一緒に落ちてきて人力車と接触、気を失っているところをふたりが助けた。
見た目も話す内容も妙の一言で、一緒に暮らし始めた当初はこっちも向こうも首を傾げる事の連続だった。
自分の事を話したがらないさつきについて辛うじて知れているのは、普通の女だが割と高度な教育を受けた日本人だという事。
そして文化はある程度自分たちと共有しているようだが、文明の度合いがまるで違っている事だった。

「彼女は……日本人なんだろう?文化は共有しているが文明の度合いが違う?何を言っているのかよく分からない。それじゃあまるで違う世界から来たみたいな言い方じゃないか」

秋山と広瀬は顔を見合わせた。どうも話しにくい。

「その通りだ、財部。さつきさんはここ≠カゃない日本の日本人だ。色んなところがまるで違うの、分かるだろう?」

冗談言うな。
そう言いかけた財部はしかし、その言葉を飲み込んでしまった。
和菓子屋で声を掛けた時から財部が如月さつきに感じていた違和感。
一見性別を間違う格好、背は他より頭一個程高く髪色は日本人とは思えないほどの茶色。姿形だけの事ではなく、実際に言葉を交わしてみるとそれは一層強くなった。
そしてその得体の知れなさが目の前にいる同僚たちと関わらせたくないと思う一因にもなっている。しかし……

(ここ≠カゃない日本の日本人……)

ありえない。
そんな事ありえないと思いながらも、如月さつきが違う世界から来た人間だと理解すると納得できる。
(なるほど。それなら分かる)
出自や出会いを尋ねても広瀬たちがいないと話さないという姿勢をさつきが取った事、実家という言葉への反応、行き先がないという目の前のふたりの言葉。それも、それなら納得できる。

(――だが)

「財部?」
「――困っている人間を捨ておけないのは分かる。しかしお前はロシアに行きたいと……秋山はアメリカ留学の内示は受けたんだろうが。それに……」
ふたりが少し固まるのを見ると、以前目にしたさつきの歪んだ表情が財部の頭を過ぎる。

(なんて嫌な役目だよ……)

舌打ちしたくなる。
気持ちが下降するのと同時に目を少し伏せ視線を落としたその時。

「……そうだ。そうだが財部、それはお前が言う事じゃない!俺か広瀬があいつに言う事だ‼」

いきなり大きな声を出した秋山に広瀬が驚いて振り向いた。

「ならなんで今まで伝えなかった!彼女はお前らの立場も状況もまるで知らない。その方が、黙っている事の方が余程残酷だ!」
「なんだと」

「え、おい?こら、ち、ちょっと待て!あーもう座れふたりとも‼」

拳を固めて立ち上がりかけたふたりを制すると、広瀬はどかりとその間に座った。



120722
heavy weather:荒れ模様

wavebox(wavebox)