新宿。新宿。
そう思いながら前に進んだ。
新宿に行ってどうするの?どうにもならない。
でもとりあえず誰かに、千代さんに、何でもいい、話を聞いてもらいたかった。
でもどちらに行けば新宿かなんて朧げにしか分からない。案内標識がないから多分あっちとか分かるのはそんな事位。
人力車を使えばいいなんて事も全く思い浮かばなくて、ぼんやり考え事をしながらそれでも何とか足を動かした。
途中で何度か人に大雑把な方向を聞いてまた歩き出す、その繰り返し。
現代のようにコンクリートで舗装された道じゃない。パンプスでは歩き難くて疲れてしまった。
少し休憩しよう。
そう思ってある店舗の軒先に寄れば、優しい歪みのあるガラスに自分の顔が映った。
つい、と向かいにある顔に指先だけで触れる。
(酷い顔)
それに自分の姿を顧みれば正に着の身着のまま。持っているのはポケットに突っ込んだ財布と手帳、スマホだけ。出掛ける格好じゃない。
(疲れた……)
そう思うと余計に疲れが増した気がして、頭を強く左右するとすぐにその場を離れた。
家を出た頃はまだ日が高かったけど、今ではもう日が暮れ掛かっていた。
いつもならそろそろ秋山さんと広瀬さんが家に帰ってくる時間だ。
心配するかな、なんて。
そう思う一方で、もうあの家には帰らない方がいいんじゃないかと思う。
急に現れたんだから急に消えたと思うんじゃないか。
(私なんかいない方が)
その方があのふたりの為なんじゃないか。
いや、その方があのふたりの為だ。
それにきっと私の為でもある。
未来から来た人間だってばれたらって、ずっと思ってたじゃない。
今までがありえない位ラッキーだったんだ。
見ず知らずの得体の知れない人間を、普通なら関わりたくもないだろうに家にまで置いてくれた。家族のように扱ってくれた。
(もう十分だよ。出て行かなきゃ)
でも、あの家を出る時は顔を見てありがとうくらい言いたかったのだ。
迷惑かけてごめんねも言いたかった。
喜んでくれた秋山さんにもう一回位オムライス作ってあげれば良かったとか、しょっぱい爆弾おにぎりしか握れない広瀬さんに三角おにぎり教えてあげたら良かったとか。
思うと鼻の奥がツンとしてきて、慌てて顔を上げれば、ぽつっと空からの雫が頬を打つ。
「雨……」
そういえば朝から天気はあまり良くなかった。
傘なんて持ってきてない。
でもどこに行けば傘が買えるかなんて事さえも分からない。
濡れて色濃くなっていくジャケットになす術もなくてそのままのろのろと進めば、後ろから人にぶつかられて前につんのめり、バランスを崩して地面に倒れ込んでしまった。
「あっ」
そのままぺたんと座り込んでしまったから下半身はもうどろどろで、こんなんじゃもうとても千代さんの所になんて行けない。
顔を上げれば私の事など意に介さず人の波が周囲を流れていく。
座り込む人間なんてまるで存在していないかのようだった。
誰かがいなくなっても職場が、社会が普段通りに回っていくのと同じ。
ましてや私なんて元々この世界に存在していないのだから、もっといてもいなくても同じだ。
私の存在の有無なんて大した問題じゃない。
……疲れた。心の底から。
通行の邪魔になる。そう思っても心身が立ち上がる事を拒否する。
もう薄暗くて、この人の波。だから多分、その人には私が見えなかったのだ。
どんっと肩を引っ掛けられるように蹴られて、両手を地面についてしまった。
こんな所で何をしているんだとか、通行の邪魔だとか、そんな事を言われても何も答えなかったから、私に引っ掛かった男の人は腹に据え兼ねたのかもしれない。
目の前に顔を覗き込むようにして屈んだ。と、思った刹那、じりっとした熱が首の後ろに走る。
「これは金になりそうだ」
ぶらりと目の前に下がる小さなダイヤのネックレス。
(引千切られたのか)
ぼんやりと焦点を目の前の男に合わせれば、その人はお世辞にもいい身なりとは言えなくて、同居人とは随分違う人種だと思った。
風呂にどの位入っていないのか、異臭が鼻を突く。
男は無言で私のジャケットの前を開き胸ポケットを探ろうとして、
「……女?」
性別を質すような言葉が聞こえた瞬間、バリッと何かを引き裂かれるような音がした。
「女だな。ここまでして声も出さないなんてお前唖か?こりゃいいな、売れば金になるかもしれん」
売る?
「ほら立て、長屋に帰るぞ」
帰る?長屋?
考えている間にきつく腕を捕まれ無理矢理引き立てられる。
(売る……そういう、意味だよね……)
間違いなく。
(そうか、そういう方法もあるのね)
今までなんで思いつかなかったのか、いっそ不思議なくらいだ。
「居場所なんて、どこででも作れるんじゃない」
「あぁ?」
独り言にしては大きな声に前を行く男が振り返った時、
「さつきちゃん!」
突然名を呼ばれた。
120926(120304)
darkness:闇