とうとう降り出した雨に竹下勇は溜息を吐いてしまった。
海軍大学校からの帰宅途中、ある質屋を覗いたものの収穫がなかったので若干肩を落として帰ろうかとしていたところだった。
(雨も降ってきたし早く帰ろう)
それにこの辺りは大の男でもあまり長居したい場所ではないのだ。
日が暮れて来ると特に。
そんな所にまで竹下が足を運んだのは、懇意にしている古物商が質流れした刀があると教えてくれたからだった。
質屋の場所からしたら良いものではないだろう。
そう予測したものの、紹介もされた事だし見てみるだけでも、そう思い竹下は貧民窟がある近くまで足を運んでいた。
生憎傘は持っていない。
しかしぱらぱらと降り出した雨は一向に止む気配を見せず、このまま雨宿りしていても仕方ないと竹下は足早に帰路を辿った。
そして妙なものを見たのだ。
この雨の中べったりと地面に座り込んでいる男、そしてそれを覗き込むようにしてしゃがみ込んでいる男。
酷く妙な光景だったが揉めているようでもない。
何をしているのだろうという程度に思い、竹下がそのまま通り過ぎようとしたその時、しゃがみ込んでいる男がもうひとりの男の首元から何かを奪い、更に上着でも奪おうとしたのか突然相手の着ていたシャツを引き破ったのだった。
「え、おいおい……」
あれは流石にどうだろう。
そうは思ったものの、立っている男の身なり、あれは恐らく貧民窟の住人だ。
あまりややこしい事に関わりたくない。そう思った竹下はそのまま立ち去ろうとした。
が、相手に無体に手を引かれ立ち上がった男の様子にふ、と。
(男?)
どこかしら変な感じを覚えた。よく見れば妙な風体で……
(洋服を着ている。背も高いな……外国人か?)
そこで何故か先日交わした親友、広瀬武夫とのやり取りが思い浮かんだ。
「他言無用で願いたいんだが、今な、女の人と暮らしているんだ」
話したい事があると先日いきなりそんな事を言い出した広瀬に竹下は思わず吹き出してしまった。
広瀬が?女と?つくならもっとマシな嘘をつけ。
「嘘じゃない。ちょっと事情があってな」
「え、何、本当の話?」
「こんな事で嘘なんかつくかよ」
そう言いながら広瀬は苦笑いして、最近の生活の変化を話してくれた。
あの時同居人の事を何と言っていた?
髪が長くて茶色、平均的な女性より頭ひとつ抜ける身長。
着物に慣れていなくて、シャツにズボン、出掛ける時はジャケットを着ている事が多い。
洋服、ズボン、背が高い、髪の色、大体全てが外国人に結び付くキーワードで、先入観から一見外国人に見える。
でも日本人で女性だから、初めて会ったらきっと違和を感じて暫く凝視すると思う。
「朗らかで明るい、いい子だよ」
笑いながらそんな事を。
「紹介したい。一度家に来て欲しいんだ。すぐにでも」
そして続けてそう言われ、近い内に家を訪ねる約束をさせられた。
確か名前は如月……
そうだ、如月さつきだった。
「さつきちゃん!」
気付けばそう声高に叫んでいた。
間違いない。
あれは親友の、広瀬の同居人だ。呼べば振り向いたから間違いない。
薄暗くて分かりにくかった髪の色は近付けば確かに茶色だった。
それに破られた胸元から女だと分かる。
(なんてこった)
こんな所で、こんな恰好で。
何があった?麻布の家にいるんじゃなかったのか?
色々な疑問が頭の中で渦巻いたが、待ってもぼんやりとこちらを見つめたまま何も言わない女に業を煮やし、竹下はその腕を掴んで強引に自分の元へと引き寄せた。
「てめえ何すんだ!」
「馬鹿野郎!彼女は俺のツレだ‼」
噛み付いてきた男に怒鳴り返せば相手は怯んで逃げようとしたのだが、ぐいとその腕を引く。
少し力を入れたら小さな悲鳴が上がった。
「返せ」
「な、何を、」
「首元から千切っただろう。返せ!」
男は何かを竹下に投げつけると、耳を塞ぎたくなるような罵りを残して走り去って行った。
「大丈夫か?」
ふーっと息を吐き、自分が着ていたジャケットをさつきに掛けてやった所までは良かったが、竹下は悩んでしまった。
彼女も自分もずぶ濡れで、この格好ではどこにも入れない。ここから自分の借家も遠い。
しかし広瀬たちの家には、今は何となく連れて帰らない方がいい気がした。となると。
(あそこしかないなあ)
よく顔を出す茶屋が先にある。少し歩くが選択肢がない今は仕方ない。
歩くよ、と小さく声を掛け、さつきの腕を引いて歩こうとした時、
「どこにつれてくの」
突然の反応だった。
さつきは振り返った竹下の顔を焦点が合わないままの瞳で見つめて、おもむろに口を開く。
「私高く売れそうですか」
掛けられた言葉に竹下はぎょっとした。
「う、……売らない、そんな事しないよ」
思わず狼狽えてしまった。こんなやり取り、狼狽えても誰も笑わないだろう。
竹下は説明が必要だと急いで言葉を継ごうとしたのだが、さつきは独り言のように言葉を続けている。
「だって私行き場がないもの。家も戸籍もなくて身元保証する人もない……でも女なら働けるよね。ホントなんでもっと早く思いつかなかったんだろう。もっと早く家出れたのに。作ろうと思えばどこにだって居場所なんて作れるのに」
「止めろ!」
聞いていられなくて竹下は大声を上げてしまう。
「私、今日行く所も寝る所もないの……私の事、買う?」
そんな竹下を気にもせず言葉を続けて、泣いたように笑うその顔を竹下は思わず平手でぶってしまった。
「そんな事を言ったら広瀬と秋山が悲しむ」
「……なんで」
なんでそのことしってるの
ぐっと身を固くして初めて抵抗らしい抵抗をしたさつきに、場違いにも竹下はややホッとしてそのまま声を掛ける。
「如月さつきさんだろう?」
「なんで、名前」
しかし余計に警戒させてしまったようで急いで言葉を継ごうとした、が。
「もういいでしょ!出てきたんだから!ほっといてよ‼」
どう思ったのか、さつきは烈火の如く怒り出し竹下を強く押しのけた。
「落ち着いて。何もしないから」
「いや……!やだ!触らないで!言われた通りに消えたじゃない!それだけじゃ足りないの⁉これ以上どうしろっていうの⁉」
(言われた通りに?)
彼女は既に秋山か広瀬の関係者と会っている。
(誰だ)
そもそも未婚の男ふたりが若い女と住んでいるなんて褒められた話ではなく、それもあるからこそ広瀬は「他言無用」と言っていたのだ。
恐らく東京にいる兄夫婦にも話してはいないのだろう。
自分の他に広瀬が話すとしたら……
(……財部)
あの男以外に思い浮かばなかった。
そう言えば財部が広瀬の様子を聞いてきたのはつい最近だ。
彼女の事について聞こうとしていたのか。
財部は広瀬が相談を持ち掛けるよりも先に自力でさつきの存在に辿り着き、恐らく彼女に直接会ったのだろう。
そして出て行けとかそんな類の事を言ったに違いない。
そこまで思って竹下は自分が名乗ってもいない事に気付いた。
この状況で初対面の赤の他人に大丈夫なんて言われても胡散臭いだけだ。警戒されても仕方ない。
「如月さん!如月さつきさん、俺はね、竹下と言います。竹下勇。広瀬武夫から聞いていないか?」
「知らない‼広瀬さんに迷惑掛けないから、出て行くから、もうほっといて!」
広瀬から聞いていた様子と今目の前にいる本人の様子はまるで違っていた。
常軌を逸している。いや、錯乱していると言っていいのではないのだろうか。
「貴方も迷惑なんでしょう?困るんでしょう?消えるから、もう二度と現れないから、離して」
ぐいぐいと腕を引っ張って竹下から離れようとするその様子に、耳を貸さない様子に腹が立つよりも憐みが生まれてしまった。
(随分傷ついたんだろうな)
迷惑だから、困るから出て行けと言われて家を出、それがどうした訳かこの貧民窟の辺りで変なのに引っ掛かったのだろう。
つい先程の様子を竹下は思い出す。
さつきのシャツを引き破ったあの男はさつきが女だと知って金に換える、つまり女衒にでも売るつもりだったのだ。
そしてさつきはそれが切欠でそこに生計の手段と、麻布を出ても居場所を得られる事に気がついたのだろう。
(…………)
ぞっとした。
通り掛からなければ、思い出さなければ、間に割って入らなければ……どうなっていたか。
背中に冷たいものが走る。
広瀬の反応を見ていても今まで真っ当に生きて来た子だろうという想像はつく。
それなのに「私の事買う?」だなんてそんな言葉。
「迷惑じゃない。困らないよ。消えなくていい。どこにもいかなくていいんだよ」
「…………」
「……顔、触るよ」
相手も自分もシャワーを浴びたようにずぶぬれで、さつきの顔には髪が張り付いていた。それを丁寧に取り、耳に掛けてやる。
「悪いようにはしない。だから一緒においで。風邪をひいてしまう」
「い……いかない……」
「何もしない。嫌な事も言わない」
「いや」
「ならこのまま麻布に連れて帰るよ」
口から出たのは随分意地の悪い一言だった。
(120304)121007
just in time:ちょうどその時。ジャズのスタンダードナンバー
竹下君の趣味は刀剣集め。当時東京には大きな貧民窟が3つありました。その中に潜入した新聞記者のルポタージュ(『最暗黒の東京』)がありますが、内容が結構すごくて途中で読むのを止めてしまった…女工哀話などとはまた違う明治時代の暗黒面だと思います