「竹下」
考えている内にうつらうつらして、声を掛けられるまで気がつかなかった。
「広瀬、財部もか。秋山は?」
「さつきさんの所。竹下」
そこで一旦言葉を切ると、広瀬は頭を下げた。
「本当にありがとう」
「彼女、今熱が出ている」
ああと広瀬が頷く。
広瀬もここに来てとりあえずさつきの様子だけは見に行っていたから、それは知っていた。
「俺が見つけた時は雨でずぶ濡れで、しかもトラブルに巻き込まれていた。それを見つけて宥めすかしてなんとかここまで連れてきたんだが」
はあ、と大きな溜息。
「……どうやって見つけたんだ」
焦りを沈めた口調で、しかし静かに問い掛けてきた財部に視線を流し、やっぱり財部か、竹下は思った。
今ここにこうして来たという事は、恐らくそういう事だ。
「偶然。財部、俺はお前にあの子に何を言ったんだと聞きたいよ」
珍しく少しだけ棘を含んだ言葉に、財部が返事を言い澱む。
如月さつきの事など名前しか知らないのに、何故か庇いだてするような気持になっているのはきっとあんな様子を見てしまったからだ。
「大体分かるけどな」
少しく沈黙が降りた際、秋山が室の襖を開けた。
「さつきさんは?」
「あれは暫く起きないだろう。竹下、医者を呼んでくれたと聞いた。すまない、ありがとう」
「ああ。だが起きたら大変だと思うぞ。お前らには会いたくないみたいだし、家にももう戻らないつもりのようだし」
「何?」
「戻らないって……」
行くあてがないのに?
「あー……体でも売れば居場所なんていくらでも作れるかって」
竹下の一言に広瀬と秋山、そして財部も等しく絶句した。
「見つけたのは本当に偶然だったんだ。貧民窟の入り口辺りで……危なかった。あそこの住人に連れて行かれそうになっていた。あのまま行けば嬲られて最後には女衒にでも売られていたと思う」
「……」
「あの子俺に向かって何て言ったと思う?今夜行く所がないから私の事買わないか、だって」
「そんな事、本当にさつきが……?」
「竹下、あの子真っ当な子だぞ、そんな、」
ほぼ同時に返してきた秋山と広瀬に竹下は言い辛そうに口を開いた。
「普通の様子じゃなかった。随分取り乱していたから、悪い、カッとして思わずぶってしまった」
「そうか……おい、財部?」
広瀬の問い掛けに黙り込んでいた財部が顔を上げる。
見れば脂汗が浮いていた。
「悪い、俺は……そんな事をさせるつもりじゃなかった。ただ、」
「財部大丈夫だ。何も起こっていない」
竹下はそう慰めたものの、やや手厳しい言葉を続ける。
「でも少し拙速だったな。お前らしくない。気持ちは分からんでもないが事情も知らない俺たちが迷惑だから出て行け≠ヘ流石にかわいそうだ」
「……ああ」
「迷惑掛けない、出て行く、消えると随分繰り返していた。あとこれな」
包んで机の上に置いていた四つ折りの懐紙を広瀬に渡す。
広瀬が包みを開ければ、シャランと音を立ててネックレスが畳の上に落ちた。
「さつきのだな。時々付けていたのを見た事がある」
「それダイヤモンドだって」
秋山の言葉に被せるように竹下がさらっと続けると、え、と周囲から声が上がる。
「ダイヤってあれか、『金色夜叉』」
ダイヤは高価だ。
若い士官がおいそれと手に入れられるような物ではなく、秋山も広瀬も実物を見た事がなかった。
それにさつきが時々身に付けていたネックレスをきれいなものだとは思っても、それ以上の興味が湧くものでもなかったのは確かだった。
「今までごめんなさい、少ないかもしれないけどお礼ですってさ。家にある鞄にも入ってるから持ってけって」
受け取らないと寝そうになかったから一旦受け取ったんだけど。
そんな竹下の言葉を聞くや、広瀬はふらりと立ち上がった。
普段なら女性が寝ている部屋になんて入らないが今日ばかりは違った。
薄暗い部屋で寝ているさつきの枕元に座ると、広瀬は掌をその額に当てた。
まだ熱がある。薬が効くまでにはまだ時間が必要なのかもしれない。
(ごめんな)
家で受けた財部からの指摘で、広瀬も秋山もハッとしたのだ。
しかし指摘されれば何故今まで思い到らなかったのかが不思議なほどだった。
――義姉だ……
湯飲みが三つ出ていたのは姪を連れていたから。そうとしか思えなかった。
恐らく兄の勝比古は関わってはいない。
あの兄ならそんな回りくどい事はせず広瀬本人に直接言いに来ただろうから。
広瀬兄弟は職場が同じ軍令部で、元々隠しおおす事が難しい環境だったのだ。
弟の生活の変化には気付くともなく気付いていただろうが、兄は何も言わなかったし聞いてこなかった。
そして気付いていた上で、恐らく黙っていてくれた。
義姉は家に来た海軍の知人経由で弁当の事を聞いたのではないだろうか。
鋭い義姉の事だ。そこから何かを感じ取ったのかもしれない。
(かわいそうな事をした)
財部の事についても、己の家族の事についても、そして今日の事についても。
竹下がぶったという腫れた頬を触れば、さつきが軽く身じろいだので焦って手を離す。
(泣いたのか)
よく見れば目元も晴れていて、思えば彼女は自分たちと暮らし始めてからこの方泣きそうにはなっても一度も涙を見せた事はなかったのだ。
それなのに。
「ごめんな……」
謝罪と罪悪感が一緒になって喉から転がり落ちた。
「広瀬」
すっと襖が開き掛けられた声に振り返れば、竹下が静かに広瀬の隣に座った。
「この子、一体どういう……」
そう言えば竹下にはまだ詳しい話はしていなかったと広瀬は頷く。
財部にした話と同様に、さつきと暮らし始めるようになった経緯、ここでは彼女には行き先もなく家族もいない事、自分たちの推測、そして協力してもらいたくて竹下に声を掛けた事を広瀬は口にした。
「そうか」
さつきの手を引いてこの茶屋に来る際、彼女は「行き場がない、家も戸籍も身元保証する人もない」、確かにそう言っていたのを竹下は耳にしている。
行き場はとにかく戸籍もとはおかしな事を言うと思ったのだ。
「身売りどうこうもそういう事だったんだな。……なぁ広瀬さ、秋山もだけどこの子に指一本触れてないだろう」
「はあ⁉」
突然の親友の言葉に広瀬は思わず大声を上げてしまった。
「声が高い」
「手なんか出せるかよ」
そう答えれば竹下はくすくすと笑う。
「まあこの子、素人だしな」
海軍士官にとって素人への手出しはご法度だ。
「でも普通はさ、出すよ。誰もこの子の存在を知らない上、行く所がないんだろう?逃げ場がないんだったら余計に弱みに付け込む。金払う必要もないしさ。養ってるのと同じだから文句言われる事もないんじゃないか?」
「この子はそんな風に扱うべき子じゃない」
「そう広瀬や秋山みたいに思える人間はそうそういないんだよ。そりゃ恩義だって感じるよなあ」
「恩義?」
鸚鵡返しに尋ねれば、竹下は「そう、恩義」と繰り返した。
見たところさつきはまだ若い。
本人がどう思ったとしても、受けた恩を体で返すというのは一番手っ取り早い方法だと竹下は思う。それが例え非常手段であってもだ。
それに気紛れで捨てられない為に、体を利用するのは一番易い手段じゃないか。相手が若い男なら尚更。
「生まれ育ちの環境が違うと言ってしまえばそれだけだが……この子、さつきちゃん、今までそんな事思った事さえなかったみたいだな。お前らがそんな目で一度も見た事がなかったから、そんな手段に気が付かなかったんだろう」
外から見ていては分からない当人同士の事情もあるだろう。
しかし、ぱっと見た感じでも広瀬たちは彼女を家族か何かと同じように大事にしているようにしか竹下には思えなかった。
そしてそういう事は言葉にしなくても分かるものなのだ。だからこそ、と竹下は思う。
「迷惑掛けない、消える、出て行く。そうずっと繰り返していたと言っただろう?もう会わないとも言っていた。この子はさ、自分の事より大事にしてくれているお前らに迷惑が掛かる事の方が怖いんじゃないのか」
「そんな」
「そうだよ」
自分を大事にしてくれる人の事は大事にしたい。優しくしてくれる人には優しくしたい。
人として普通の感情だ。
ましてや不審なのを承知で家に上げてくれ、その上生活を保障してくれた人間に対して返せるものがない場合、他に何ができると言うのか。
「未来から来た、もしそれが真実だとしたら、場合によればこの子の知識は我が国に大きな利益を与える可能性がある。お前らはそれを知っていて隠匿している事になる。露見したら服務違反になる可能性だってある」
彼女が知っている歴史が変わってしまう事が怖い。それもあるに違いない。
でもそれよりも広瀬と秋山の妨げになる事の方が彼女にとっては怖い筈だ。
「彼女、お前らの独身主義の事は?」
広瀬は「知ってる」とひとつ頷く。
「ふーん……でも色々言われただろうな。どっちをタラシ込むつもりだこの売女ーとか、嫁取らせたいのにお前がいると邪魔だーとか」
「…………」
「そういうプライベートな点でもさ、お前らの邪魔になる事とか為にならない事が、彼女にとっては一番の問題だったんじゃないか?」
「馬鹿だな……そんな、そんな事気にしなくても良かったのに」
「あのなー馬鹿はないだろう馬鹿は。そんな子だから手もつけずに暮らしているんだろうが」
そうだなと小さく呟けば肩口にぽんと手が乗る。
「まあ広瀬らしいけどな」
竹下の顔を見返せば、そう微笑されて広瀬は辛うじて笑い返した。
(120507)121123
guilty feeling:罪悪感