ひんやりとした固まりが額を覆う。
その心地良さで頭のどこかが覚醒した。
不透明な意識の向こうで話し声が聞え、それは聞き覚えのある声のようだが聞いた事のない声のようでもある。
目を開けて確かめたい気もするけれど、それさえも億劫でただ布団に横たわっていた。
布団?家に帰ったんだろうか。
そんな覚えは全くなく、そこから先を考えなければならない筈なのに緩慢にしか頭が回らない。
ここはどこだろう。
雨の中で誰かに助けられた後、手を引かれるまま見た事のない背中の後ろをぼんやりと歩いた。それは覚えている。
「さつきちゃん」
そう名前を呼んだその人は、
「迷惑じゃない。困らないよ。消えなくていい。どこにもいかなくていいんだよ」
一番言われたくて、でも多分一番言われなくなかった言葉をさつきに掛けてくれた。
迷惑じゃない?困らない?消えなくていい?
―――嘘ばっかり。
じゃあなんであんな事を言われるのだろう。
じゃあなんで今ここにいるのだろう。
誰だっけ、私をここに連れて来た人。親友と言っていた。広瀬の親友だと。広瀬の親友の……
「竹下さん」
「起きた?」
誰もいないと思っていた空間から突然返ってきた声にさつきは跳ね起きた。
「え、おい?」
さっきの声と違う。……周囲に何人か、いる。
それが誰かなんて考える事もできず、動いたいくつかの影にただ恐怖が生まれた。
部屋が薄暗い上に意識が混濁していて、正確な判断なんてとてもではないが下せない。
カチカチカチと聞き慣れない音が耳の奥で響いて、それが歯の根が合わない音だと暫くして気が付いた。
「いや……ここどこ……」
声が震えて掠れる。
伸ばされる手に縋っていいのか分からなくて拒絶と共に叩き落とす。
洋服を着ていた筈なのに浴衣を着ている。下着も付けている感触がない。風呂に入った?どうだった?女の人に何か言われていた気がするが覚えてない。
部屋に連れられて寝てしまう前誰かと話した気がする。何を話した?あれは誰だった?竹下さん?
何があったのか思い出そうとすればするほど混乱して息ができなくなった。
「……、…………」
「……!……!」
部屋に響く声は怒号のようにも聞こえ、それは単にさつきの恐怖心を煽るだけだった。息が詰まる。
背中に回された手の感触に鳥肌が立ち、身を捩って何とか逃れようとすれば、
「さつき!」
突然の大声に体が硬直した。
咄嗟に背後から肩を抱かれ背中をさすられる。そうすると酷く呼吸が楽になった気がした。
「さつきさん、息、息して。吸って、ほら!しっかり吸え!……吐いて……そうゆっくりでいい、吸って」
吐いて、と何度か繰り返しなんとか息を整えたさつきに、広瀬は安堵の色を滲ませた声を掛けた。
「落ち着いて……大丈夫か?さつきさん、俺の事分かる?広瀬だ」
「…………」
緩慢な動作で振り向いたさつきに広瀬は少し笑う。
「さつき、水だ。飲めるか」
そう言ってグラスを差し出した秋山の顔を見詰めたままの彼女の代わりに広瀬が受け取り、口元に近付けようとした時、その唇から言葉が零れ落ちた。
「なんで?なんでいるの?」
「その話は後で。さつきさん、横になろう」
「イヤ、なんで?もう会わないって決めたのに……竹下さん……」
「うん。ごめんね」
部屋の暗がりから聞こえた声にさつきの眉が寄る。
「…………」
広瀬から離れ、同居人ふたりの前にきちんと座り直すとさつきが丁寧に頭を下げた。
「今までごめんなさい。本当にお世話になりました。お礼も何もできなくて、でもネックレスとかピアスとか、お金になるみたいだから、だから」
続きを言い掛けたところですぱーん!と大きな音が部屋に響く。
秋山の平手がさつきの頭に落ちた音だった。
「お、おい、秋山」
「すまない広瀬、言わせてくれ。さつきこの馬鹿野郎。あの家にいていいと言ったのは俺たちだ。迷惑でも困ってもない、出て行けなんか俺か広瀬が言った事あったか?ないだろう。どうしてそれを信じられない」
「…………」
「お前は俺たち以上に信頼できる人間はここにはいないと言ったな。俺が『それなら遠慮しないで何でも言え』と言えばお前は頷いた。あれは嘘か」
「……っ!嘘じゃない、嘘じゃないよ!でも」
「でも≠ヘいらない」
そこで言葉を切ったまま、秋山は暫く口を噤んだのだが。
「いや、俺たちも悪かったんだ。手を打つのが遅かった。黙っていた事もある。それにお前が何を言われたのか大体分かる」
さつきの立場からすれば気にせざるを得ない事だろう?
そう静かに続けた秋山にどう答えていいのか分からない風でさつきは俯いてしまった。
「さつきさん、財部……俺の友人と義姉が悪かった」
「…………」
無言で広瀬の顔を見返せば彼は「そうだろう?」と続けた。さつきが頭を左右する。
「悪くなんてない。立場が逆なら私だってきっとああ言うよ。貴方たちの事、みんなが心配してる。気に掛けてる。変なのに捕まって色んな事棒に振るんじゃないかって……正しいよ、財部さんも広瀬さんのお義姉さんも。今まで甘え過ぎてた私がいけないの。もっと早くに出て行けば良かったのに。そうすれば誰にも迷惑掛けずにいられたのに。きっと自分だけでもなんとかできてたのに」
その言葉で広瀬と秋山は顔を見合わせてしまった。やはり。
(義姉さんか)
大きな溜息を吐きたくなるのをぐっと抑える。
「な、さつきさん、なんとかって……家を出てどうするつもりだった?今の君ではその『なんとか』だって難しい。それにね、君は春を鬻ぐような真似をする人じゃないし、できる人でもないよ」
広瀬が優しく言えばさつきは咄嗟に顔を逸らしてしまった。
「でも……ありがとう」
「え?」
突然の謝意が意外だったのか、さつきが意味を問い返す。
「君は優しいな」
「そうだな」
広瀬の一言に秋山が相槌を打った。
「お前が家を出る選択をする所まで考えるとは、俺は思わなかった」
「だって……全ての原因が私なら、私がいなくなれば全部解決するよ?一番手っ取り早くて簡単な方法だし……私この時代にいきなり現れたんでしょう?だったらいきなり消えてもきっと帰ったんだって」
「思うか」
「思わないよ」
「いきなりいなくなるなって言ったじゃないか。いなくなったら困るって。忘れたのか?」
「……忘れた」
「この嘘つきが。お前がそんな事忘れる訳がないだろうが」
「本当にそうだよ。さつきさん、君がいきなりいなくなったら泣くって言ったの忘れたのか?」
「…………泣いたの?」
「あ。笑うなよ。本当に泣きそうな位心配したんだ」
「ん……」
「こんな形でThe Breaking of the Fellowshipなんてさつき、俺は嫌だからな」
「……うん」
ゆっくりと、次第に笑いを含んで進んでいく会話。
その中にある自分が見た事のない形の絆を財部は無言で見つめていたが、やがてそっと部屋を出た。
廊下の壁に背を付けてしゃがみ込めば、「財部」、追ってきた竹下が小さく声を掛ける。
「なんて言うんだろうね、ああいうの」
「なんて言うんだ……」
「さあ?知らん」
「竹下の言う通りだ。彼女の事情も知らないで話も聞かないで……俺は酷い男だな」
苦笑しながら竹下は財部の肩で軽く手を弾ませた。
今日は人を慰める事ばかりしている気がする。
確かに三人のあの様子を見てしまえば、彼女を追い出そうとした手前罪悪感から逃れるのは難しいだろう。
「広瀬が話してくるのを待つべきだったと思う。それからでも手は打てたんじゃないか?」
「そうだな」
頷いた財部にしかし、と竹下は思うのだ。
「でもな、俺は広瀬の親友として財部のした事が全く間違いだったとは思わないよ」
広瀬が今までどれだけの努力をしてきたかを見て来たから。それを訳の分からない女ひとりにフイにされるんて見ていられない。
(まあ、さつきちゃんもそれが分かっていたから出て行ったんだろうけど)
頭の片隅でそう思った時、いや、違うんだ、と財部が小さく呟いた。
「聞いてくれ竹下。広瀬には近々ロシア留学の内示が下りる」
「確かなのか?」
「ああ、義父殿の筋からだ。間違いない。恐らく彼女がいたからだ」
「は?」
「広瀬な、本当は留学は少し怪しかった。上でも揉めていたんだ。軍令部での今のあいつの微妙な位置、竹下も知っているだろう?」
そうだ。
測量船から軍令部への異動がそのまま留学に繋がるかと思いきや、今はその前段階、ワンクッション置かれた状態になっている。
「広瀬で本当に大丈夫かどうか、手許に置いて上は見ているんだ。今はその試験中なんだよ」
「うわー……でも内示が下りるって事は評価は上々なんだ」
財部は肯首した。集中力がある、熱意はあり余るほど、特に指示を与えなくても精勤、その態度は頗る良し。
「広瀬らしいと言ったららしいけど」
親友の言葉に財部は少し笑った。
「今広瀬と秋山の生活全般を見ているのは彼女だ」
来る道々で財部はふたりから話を聞いたのだ。
さつきはあの家の炊事洗濯掃除をこなしている上、彼らに弁当まで持たせている。
起きたら朝食は用意されているし、黙っていても夕食が出てくる。
もちろん上げ膳据え膳に近い状態だ。
家に帰れば洗濯物は畳んで部屋に置いてあり、シャツには火熨斗があたっているし、取れそうになっていた釦は付け直されている。
布団は頻繁に干されているから変なにおいがする事もないし、部屋の隅に埃が溜まっている事もない。
日常の煩わしさがなくて居心地がいいったらない。
「男のひとり暮らしの苦しさが全部解消されてるな……」
男のひとり暮らし大絶賛実施中の竹下が羨ましげに呟いた。
「秋山はとにかく広瀬に合わせるのは大変だと思うぞ」
朝は早い上夜は遅い。しかもよく食べる。賄いだけでも大変だろう。
「ああ。それは本人もよく分かっているみたいだ。それにな」
――さつきさんが来てから生活は改善されるし、そのお陰で集中できて勉強は捗るし、留学もできそうな風向きだし……いい方向に向かってると思うんだよ
「広瀬がそう言っていたのか?それって」
「そうなんだ。あいつが一番よく分かっている。彼女がいるから職務の事だけ考えていられる。彼女がいるから集中できる」
「それでその姿勢が上からは高評価」
「男だけで住んでる事なんてみんな知ってる。軍令部で独身はあいつらだけで、あの家なんて言われてるか知ってるか?」
「いや」
「独身者合宿所だ」
それを聞いて竹下は思わず吹き出してしまった。合宿所って。
「そうなんだ。その合宿所から来る割には汚れのないピシッとした服を着てくる。男だけで暮らすだらしなさや自堕落さを見せない」
最も元々広瀬はそんなにだらしない男ではなかったけれど、世話をする人間がいれば尚更だろう。そして軍令部で見せるあの態度だ。
「今までの積み重ね、勤務態度、生活態度、それを勘案して上が判断したそうだ」
広瀬ならまあ大丈夫だろうと。
「ロシア行きの内定、結局は広瀬が自分で力で勝ち取ったんだと思うが、それって」
彼女の功も大きいって事だよな?
「そういう事になるな」
「さつきちゃん奥さんじゃないけどさ、それは内助の功、になるよなあ」
「……多分」
ひとりで廊下に出て頭を抱えたい気持ちになった財部に、竹下は同情を禁じ得なかった。
(120507)121202
qualm:良心の呵責
火熨斗=アイロン。多分ごんべさんはそんなこと人に言わないだろうなーと思うけどね