30:a change of pace




「さつき」
静かに揺すられてうっすらと目を開ければ、秋山さんが私の額に掌を当てた。

「まだ少し熱がある」
遅くまで話していたからだな、悪い、そう掛けられた言葉を否定すると体を起こした。
起きなくていいと言われたけれど、今は体がだるい位で高熱って訳じゃない。
そんな大袈裟に扱われる様な事でもないし。

「もう行くの?」
時計を見れば職場に向かうには相当早い時間だ。
疑問をぶつければ、一度家に帰って準備してからという答えが返って来る。
昨日は泊ってくれた上に随分遅くまで話し込んだから、秋山さんも広瀬さんも殆ど寝ていない筈だ。

(悪い事したな)
平日なのに申し訳ないと思ったのが顔に出たようで、それに気が付いたのか秋山さんがフォローしてくれた。

「俺も広瀬も徹夜は平気だから気にしなくていい」
「広瀬さんは?」
「財部と竹下の所にいる」
「財部さんと竹下さん?」

覚えていないか?と問われて、そうだったかな、と思う。
昨日の記憶は所々酷く曖昧で虫食いのようになっていた。
竹下さんは覚えているけれど、財部さん?いたっけ?

「日を変えて謝りに来ると言っていた」
謝りにって。
昨日のあれは財部さんのせいじゃないし、そもそも彼が言っていた事は正論だ。
そりゃあ怖い目には遭ったけど、嫌な思いもしたけれど。

「財部さん、悪くないよ」

もちろん広瀬さんのお義姉さんも悪くない。
(それに私がどんな嫌な目に遭っても優先されるべきなのはこの時代の人だもの)

「……うん。誰も悪くないよ」
「そうか」
「秋山さん、昨日言えなかったんだけど……私広瀬さんのお義姉さんに出て行くって約束した」
「……それは広瀬に任せておけ。俺から伝えておくから」
「でも」
「いいから」

もう少し話したい事も聞きたい事もあったのだけど、夜にまた来るからと言われてそのまま話は中断。
部屋に戻ってきた広瀬さんにも挨拶して、一旦家に帰るというふたりを見送った。
もういいから寝ておけと言われて布団に入り、うとうとしながら寝る前に話した事を考える。


未来の日本人だってばれた事。
それでもいい、私に不都合な事はしないって言ってくれた事。
家にいてもいいって言ってくれた事。
どれだけ真面目に話しても「未来から来た」だなんて、どう考えてもどこかネジの飛んでる人だと思う。
でもそれをそのまま受け入れてくれるなんて、都合が良すぎて怖い気もするけどやっぱり嬉しかった。

だけど。
「留学、か」

その一方でこの事を思うと酷く心が重たくなった。
昨日聞いた話だといつ辞令が下りるとかいつ出発になるとか、そういうのはまだ分からないみたい。
広瀬さんに至ってはまだ留学できるかどうかも分からないって。

……怖い……

(留学、できるの?)

――それに俺、段々留学できそうな雰囲気になってきたんだよ
――集中できるし……いいサイクルで生活が回っているからだと思うんだけど

広瀬さんはそう言っていたし、ロシア行きは私が彼について知っている数少ない史実だ。
だから財部さんが家に来た時にしていた話を思い合わせると、それはもう確定事項なのだと思っていたのだけれど。
私は今までずっと過去の日本に来たと思ってた。でも今この時点から作られていく歴史が私が知っている歴史と同じだとは限らない。同じだって保証はどこにもない。

(本当に留学できるの?)
(やだ、怖い)
(できなかったらどうしよう。きっと私のせいだ)

――怖い……

そう思い震えはしたものの、こればっかりは自分ではどうしようもない。
それにもし留学できたとしたらふたりとも日本からいなくなる訳で。
秋山さんに聞きそびれてしまったけど、それっていつになるの?近い将来の話なの?
現代に帰れる気配が全くない今、頼れる人を一度に失う私はどうすればいいんだろう。
ふたりが何も言って来ないから聞かない方がいいんだろうか。
でもそんなの不安過ぎる。

解決策なんてなくていつまで経っても考えが堂々巡りで。
悶々として布団の上をゴロゴロしていたのだけれど、気がつけばいつしか眠ってしまっていた。




次に目を覚ました時にはもう太陽が随分高い位置にまで上がっていた。
腕を伸ばして布団の中でぐーっと背伸び。
なんだか久しぶりにすごくよく寝た気がするけど、気分が良いのか悪いのか、いまいちよく分からなかった。
意識を失う前に考えた事を思い出すとどうしても気持ちが重くなる。

でもやっぱりいくら考えても私の力ではどうしようもなくて、でも話ができる人もいないし、気を紛らわす事がある訳でもないし。ひとりでいればいる程考えが悪い方に向かってしまう。

「あー……」
ダメだダメだ。こんなにうだうだしてたら。いくらいいと言われてもここは麻布の家じゃないのだから、ダラダラするのもちょっとどうかと思ってしまう。
それにここの人に挨拶位すべきでは?部屋に置かれている鏡に顔を映して、ぱんっと頬を叩いた。
「さつき、笑え」
不機嫌な顔なんてしてるもんじゃない。
ひとりで考えてたって仕方ないんだし、今はしんどい事は忘れて機嫌良くいった方がいい。
笑ってる方がきっと良い事があるに決まってる。うん。とりあえず……

「着替えたい」
でも部屋を見渡しても私が着ていたスーツのパンツもシャツも見当たらなかった。
てゆーか下着よ。どこに行ったんだ下着……
パンツは確か泥だらけになっていたから、もしかしたらそれと一緒に捨てられちゃったかな、なんて思いながら部屋から出る。
階段を降りたらすぐに玄関口、玄関から奥に続く部屋に人の気配があったから自然と足がそちらを向いた。

「おはようございます。あの、」
「あら!おはよう。もう起きて大丈夫?」
「あ、はい」

所在なさげに突っ立っていたら、こっちに来て座りなさい、そう促され開けてくれた場所に座る。
れはいいのだけど、この人一体誰?
そう思ったのが顔に出たのか、目の前の中年の女性はコロコロ笑いながら「私はここの女将よ」と自己紹介をしてくれた。

「あ、……この度はご迷惑をお掛けして」
すいませんと繋げようとしたら、
「困った時はお互い様って言うでしょう?それに竹下さんたちに頼まれたらねえ。ああ、あの人たちお得意さんなのよ」
竹下さん、財部さん、広瀬さん。ここによく来るの。秋山さんも偶に同僚の人と来るのよ。

「広瀬さんも?」
「あの人お酒は飲めないけど酒席は大好きよ」
「え?下戸?」
意外過ぎる。あの人ものすごくお酒強そうに見えるのに。
「あら、知らなかった?」
「知らなかったです。そう言えばお酒なんて」
一緒に飲んだ事ない……
「そうなの」
「そうなんです。甘いものなら結構一緒に食べるんですけど」
それにしてもお酒が飲めない人は大抵酒席は好きじゃないっていうのに珍しい。

「あの人はこっちね」
食べる物があればいいのよ、なんて言いながら、女将さんがお箸でご飯をかき込むジェスチャーなんてするものだから、私は思わず声を上げて笑ってしまった。
「あの量!一体どこに吸いこまれて行くんですかね?毎日びっくりする位平らげてくれます」
笑いながらそう言うと、目の前にいる女将さんの笑みが益々深くなった。

何だろう。何か変な事言ったかな?
そう思って首を傾げると、本当にもう大丈夫みたいだね、と。

「あ……」
「竹下さんが連れて来た時は本当に死にそうな顔色だったよ、えーと、名前は、」
「さつきです。如月さつきと言います」
「さつきちゃん、昨日は大変だったね」

でも、と瞳を覗き込むように続けて話し掛けてきた女将さんの様子が、きちんと聞かないといけないような雰囲気だったので座り直す。

「私はね、こんな商売だから今まで色んな人を見て来たよ。だから人にはそれぞれ色んな事情があるのも分かる」
「はい」
「さつきちゃんがどこの誰で、何があったかは知らないし聞かないけどあんな風に人を心配させるのはよくない。広瀬さんも秋山さんもここに来た時は血相変わってたよ」
「え……」

俯き掛けた顔を上げると、ぱちりと視線が絡む。すると目の前の女性が嫣然一笑した。

「いいねえ、あのふたりも竹下さんも、財部さんは……ダメか、有望株ばかりじゃない」
「えっ⁉あの、そういうのじゃないんで、本当に違うんです、私ただの居候で」

あたふたと言い訳しようとすれば、あっはっは!と豪快に笑われてしまった。え、えーと……?

「そんなに焦らなくても。男女の仲じゃないのは見てたら分かる」
い、意地悪ですね!
「でもただならない仲ではあるね。……ま、あの人たちに貴方は大丈夫だから変な詮索はするなって言われてるから一応信用はするけど」
「大丈夫です」
ちらりと視線を流されて断言した。

「広瀬さんや竹下さんの信用がなくなるような真似は絶対にしません」

そう答えれば頼むよと微笑まれる。
その表情に私の気持ちも少し緩んだ。
私を預ってくれた事といい、広瀬さんたちが面倒事を頼める事といい、この女将さんは悪い人ではなさそう。
ホッとした。

で、だ。
ものすっごく今更なんだけど、ここって料亭なのかな?
飲食業なのかなとは思うけど、でもそんな所がいきなり押し掛けた人間を五人も六人も宿泊させるような準備をしてるものなの?旅館っていう感じでもないし……

「昨日竹下さんとも話してたんだけどね、さつきちゃん、貴方どこかのお嬢さん?」
「は?」
いやいやいやめっちゃ一般市民です!
「世間知らず」
ぐっと言葉に詰まってしまった。その通り過ぎる。

聞けばここは待合茶屋らしい。
待合とか言われて会合をしたり宴会をしたり芸者を揚げたり、要するに貸し部屋だ。
だから料理は仕出しだし、きれいどころだって余所から呼ばないといない。
……って、あれ?貸し部屋って事はカラオケと一緒ですよね?
一晩いくらとか、私がいるだけでお金が掛ってるって事で。その上私、面倒事を持ち込んでて。

「……」
「さつきちゃん?」
「えーと、非常にお尋ねしにくいのですが……私は一体おいくら位お支払したらいいんでしょう……」

小さな声で呟けば、ああ、と女将さんは相槌を打ち、
「気にしなくていいよ」
いやいやいや気にしますよそこは!
「本当にいいよ。ここは小さい待合だけど、あの人たちが人連れて来るから結構繁盛してる。本当にお得意様なんだよ。だから正規料金だけ頂くわ」
と、取るんか……

「だって商売だもの」
「……ふ、あは、あっははっはは!」
「ふふ、だってそうでしょう?」
「ええ、人助けだけじゃお商売成り立ちませんもんね」
「よく分かってるじゃない」
そうくすくす笑って。
「貴方が着ていた服は洗って泥を落としたよ。干してあるけどまだ乾いてないでしょう。もう起きる?」
「はい」
「なら私の着物を……え?ひとりで着られない?」




「はい、腕上げて」
女将さんの声に軽く返事をして、帯を締めやすいように腕を軽く上げた。
何してるかって?只今絶賛着付け中ですよ。
着物着られない、殆ど着た事がないと言っただけであれよあれよと言う間にこんな事に……
何もできない私が突っ立っている間にあれこれと着せてもらって帯も締めてもらって。
物珍しげに見ていたら、これは普段着だからそんなにいいものではないけどね、なんて。

着付け終わってぽんっと下腹の辺りを叩かれて。
「似合う似合う。髪も纏めようか」
それは自分でやります!

「あらま。変われば変わるもんねえ」
それはどういう意味だろうと思わない事はない……
妙に楽しそうな女将さんに「なってない」とか「見苦しい」とか言われてそのまま着物での歩き方だとか座り方、戸の開け方まで教えられてしまった。

「まあ様にはなってるよ」
最終的にはそう言われる位にはなったみたいだけど、うん、大部分は社交辞令ってもんだろう。
今にして思えば、きっと秋山さんと広瀬さんは行儀作法の点で私に言いたい事が山ほどあったんだろうな……
そういや一度広瀬さんにお説教されたな……
両手塞がってるから足で襖開けるとか言語道断ですよね。

(てゆーか、てゆーかさ)
私ふたりの女に対する夢をめっちゃ壊してない……?

「こら、大丈夫?」
ハッと意識を引き戻されて、愛想笑いをひとつ。
じゃあ行こうかと連れられて行った先は近所の蕎麦屋だった。
お午餐を一緒にしながらあれこれと話す。

女将さんは見た目通り年上の中年女性だったけど客商売だからかすごく気が若い。
とってもサバサバしていて気安くて話し易かった。その上、

「男だけの中じゃね……できない相談事も困る事もあるでしょう。話位なら聞いてあげるからいつでもおいで」

なんて言ってくれて。
清流庵の八重さんといい、私は本当に素敵な女性と出会っていると思う。

「さあさつきちゃん、もう行こう。いくら大丈夫だと言っても今日はもう何もさせないよ。そして帰ったら寝る事」
「はい」
「夜になったらまたあのふたりが来るんでしょう?なら尚更もっと元気になっとかないとね」

と、言われても中々寝られるものでもなく。
一、二時間程したら自然と目がすっきりと覚めてしまって、結局階下に降りて行った。

「女将さーん……って、あれ?」
ちゃぶ台に突っ伏してる。もしかして寝てる?
待合茶屋はきっと夜のお商売だ。女将さんだって私の事がなかったらきっと昼前まで寝ていたに違いない。

(悪い事したな)
そっと部屋を抜けて水場へ。水で喉を潤してふと。
(そう言えば蕎麦屋でいつもお昼ご飯は夜の残りだって言ってたな)
もう三時だ。
今作っておかなかったら今日の晩ご飯はない筈で、必然的に明日のお昼もない筈で。

(作るか)
何もさせないって言われたけど、開店が六時頃だとしてもまだ間がある。
でも台所って女としては一番荒らされたくない所だよね。どうしよう。女将さん起こす?それもどうだろう。

ちょっと考えたけど、午前中に教えてもらったばかりの襷掛けをして台所に立った。




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a change of pace:気分を換えて

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