(#29.5)
カヒュ、カヒュと何度か細く響いた音で広瀬の意識が浮上した。
寝返りをうって右隣に寝ている女に目を凝らす。
寝入り端は仰向けであったさつきは横臥の姿勢で体を丸めていた。顔はこちらに向いていたが瞳は閉じられたまま、ただ軽い咳が口元からは漏れている。
「さつきさん」
半身を起して近付きそっと声を掛ける。
よく寝入っていて返事はなく、今日は疲れ方も尋常ではなかっただろうと思いながらそろそろと掌をさつきの額に当て、次いで人差し指の背を頬に当てた。
「ん……、ぅ」
少しざらついた手の感触にさつきの唇からくぐもった声が漏れる。起こしたかと顔を覗き込んだが、そうではなかったらしい。
「具合が悪いのか」
静かに問うてきた秋山に大丈夫だと返す。
彼女の向こうの暗闇に目を凝らせば、広瀬同様咳で目覚めたらしい秋山がのたりと体を起こした。
「起きないか。大分疲れてるな」
「まあ……今日は仕方ないだろう」
今日は比喩ではなく大波乱の日だった。彼女だけではなく自分達も。
疲労感はまだ体に残っていたが、大きな山をひとつ越えたという精神的な満足感が強い。
否、満足感というより安心感か。
もう不自然に視線を反らされたり、引き攣るように笑う顔を見なくて済むと思えば広瀬の気持ちは幾許か軽くなった。
……のだが。
そこにいる筈の人間が知らぬ間に姿を消したという事態は広瀬の心に思わぬ波を立てたのだった。
親しい人間が突如いなくなる事に慣れている訳ではない。
しかし広瀬は既に同期の何人かを戦争で奪われているし、職業上自分がそうなる可能性がある事も理解している。抑々そうであるからの独身主義だ。
だから失う事については覚悟ができている方だと、思っていたのだけれど。
(さつきさん、本当にいなくなるんだよな)
もしかしたら自分がいなくなる方が先なのかもしれないが、いずれは必ずやってくる別離。
それに軽い物憂さを覚える自分に広瀬は驚いた。
元いた世界に戻らなければならない女性だ。
話を聞いても持っていた電話ひとつを見てもさつきは明治にいない方がいい。
そうは思うものの。
(この子の傍は心地いいんだよなあ)
さつきは科を作って自分たちの機嫌を取るような事はしなかったし、学歴がありながら学をひけらかす事もしなかった。
思えば異性を含む他人と暮らしているのに気疲れとも不愉快さとも無縁の共同生活で、秋山とさつきと三人の家はただただ居心地が良かった。
玄関を開けたらおかえりを言って、顔を合わせた途端に花が綻ぶように笑って出迎えてくれる人がいること。
今まで同様の経験がない訳ではなかったが、家に帰ってあの顔を見るとほっとすると言うか、気が抜けるのだ。
これはいいもんだなと広瀬でも思わざるを得なかった。
明るい。優しい。それに親切。
広瀬が関わってきた中にもそんな女性は沢山いた。
しかし持っているもの全てを擲ってまで何かをしてくれようとする人間は流石にいなかった。
そりゃあいないだろう。
それが普通なのだ。家族ですらないのだし。
それを迷惑を掛けたくないという理由だけで。身売りまで視野に入れるだなんて。
さつきに花売りを考えさせてしまったという罪悪感はある。
あるどころか心底肝が冷えたのだ。
何か起こっていたら彼女に対してどう責任を取ればいいのか、広瀬には本当に分からなかった。
しかし情に厚い人間を好む傾向のある広瀬からすると、さつきの献身とも言える行動が自身の心奥を強く揺さぶったのも確かだ。
いい人間だと思う。
かわいい子だと思う。
好ましい女性だとも、思う。
(こんな子、本当に手放すのが惜しい)
いられるものなら一緒にいたい。
さつきが閉瞳したままなのをいいことに敷布に流れる髪に指を通しながら、以前似たようなことを感じたなと思い出す。
待ち合わせて銀座に行った時だったか。
そうだ。コーヒーを飲みながら彼女と秋山が話すのを聞いていて。
ただあの時手放すのが惜しいと感じたのは三人でいる日々の楽しさであった筈で ――
―― こんな”子”を手放すのが惜しい?
「…………は?」
間の抜けた声に秋山の顔が上がり、広瀬も思わずさつきを挟んで座る秋山を見た。闇に慣れた双眸が写した同僚は窺うようにこちらを凝視している。
「どうした」
「……あー……いや…………無事で良かったと思って。帰ってきてくれて良かった」
目を逸らすようにさつきに視線を落とすと秋山がくっと笑った。
「ああ、そうだな。なあ広瀬、……さつきはかわいいな?」
「んん゙っ」
疚しさを指摘された。
そんな風に感じて噎せるのを抑え損ねた広瀬に秋山が噴き出した。
「分かる。分かるよ、俺も今回の事でそう思った。女傑でも女丈夫でもないのにな。しなやかで俺たちが思っているよりも強かな所がある。だが健気だ」
「健気」
「ここまで想われると健気でかわいいとしか思えない」
声を上げず笑う秋山に逆らわずに相槌を打った。
「特段羞花閉月という訳でもないのにな」
「いや……かわいい子だよ。銀座、秋山も覚えているだろう?」
「…………あれは化けたな」
「ふっ」
忍び笑い合いながらどちらからともなく寝るかと口にして布団に戻ろうとした時、
「うわ、つめた。なんだこれ」
広瀬が緩くさつきの手を掴んだ。髪に触る広瀬の手を払おうとしたのか、触れたさつきの手は酷く冷たい。
確かめるように手を指先、手の甲、手首へと滑らせ、
「随分冷えている」
ぼそりと呟いて両手で白い手を挟み込み軽く擦ると、熱源に近づくようにさつきが広瀬へとにじり寄ってくる。
ぴと、と広瀬の手に頬を寄せるとさつきの唇からはほうと小さな吐息が漏れたが、寝息はすうすうとたてられたままだ。
「……いや、起きないか普通……警戒心はないのか……」
片手で顔を覆った秋山が押し殺したように笑い出した。
「……笑うが秋山……」
「寒いんじゃないか?……足はどうだ」
「足って、おい止めろそれはまずい」
躊躇なく肌掛け布団を捲って確認しようとした男を焦って止める。
いつか不可抗力で見たあの西洋の下着?……多分下着だろう、あれは流石に今は着ていない筈。
それでもし湯文字も着けていなかったら。寝巻がはだけていたら。
着物に慣れていないさつきの事だ。あり得ない話ではない。
「秋山が寝ている女の体を眺めるただの助平になってしまう」
「おま、酷いな」
秋山はぶつぶつ言いながら、しかし肌掛けの裾から手を差し入れると、うわ、と驚きを口にした。足の指先に触れたらしい。
「無茶苦茶冷たいな。このままだと風邪をひきそうだ」
「丸まってるのは寒いからか。湯たんぽでも借りてくるか」
とは言ったものの深夜のこの時間では流石に店の者に声を掛けるのも憚りがある。
それに今は五月だから声を掛けてすぐに湯たんぽが出てくるとも思えず、湯を沸かすことを考えると酷く億劫だ。
どうしたもんか。
「広瀬、お前一緒に寝てやれよ」
「は!?」
「声が大きい。さつきが起きる。ほら入れ」
両手が塞がっている広瀬を促しながら、「人間湯たんぽが一番手っ取り早い」、秋山が軽く肌掛けの端を上げる。
「くっついていると温まる」
ならお前が寝てやれよと口を開こうとしたが、
「早く」
「………………分かったよ……」
催促されて早々に諦めた。
肌掛けを捲るより問題があるがこの際仕方ない。……と思っておく。
ふーーーーっと息を逃して一回り小さい手を解放すると、広瀬はさつきの隣に滑り込んだ。
胸元も裾もはだけている様子はなくほっとする。左腕を枕に横たわると体温を感じたのかさつきの丸まっていた体がゆるゆると伸び、縋るようにして身が寄せられた。
「……ぅぉ……」
良い匂いがする。
日本髪を結わずここの白粉を使わないさつきは他の女に比べるとほぼ無臭だと広瀬は思う。
しかし今、近付く事で鼻腔をくすぐったのは紛れもないさつき自身の匂いで、思わず声が漏れた。
広瀬が知っている女のそれとはまるで違っている。
すん、と鼻を動かして思ったのは、
「……桃?」
「ん?」
「い、いや、え、冷たっ……というか、いや、っ、これ、ちょっと待ってさつきさん」
自分の足の間にさつきが冷え切った足をねじ込んでごそごそしている。
あまり動かないで欲しい。
布の下では四本の足が絡んでいて、そこに暖を取る以上の意味がないのは分かっているのだが。分かっているのだが。
胸元にひたりと添えられる手。鎖骨に緩く擦り付けられる額。寝巻の合わせ目に感じる軽い呼気。
ついでにほんのり甘い香り。
(あーーあーーーー……)
至近距離で女の寝姿を見つめるのも良くない気がして、視線をあらぬ方向に逃がしてしまう。
(…………勘弁してくれ……)
俺も一応男なんだが。
困惑する広瀬を余所にさつきは居心地のいい場所を探して胸元でもぞもぞしていたが、暫くするとそれも落ち着いた。
「……はぁ…………」
「……悪い………………ふっ、ふは、はは、俺じゃなくて良かった」
「くっそ覚えとけよ」
強引に同衾させた癖にちっとも悪いと思ってなさそうな秋山は軽く笑いながら、ふたりを覆うように手を伸ばすと広瀬の布団から肌掛けを取って足元にかけてくれた。
(もういいか、このまま寝てしまえ)
色々と諦めてさつきの背中に腕を回し軽く体を引き寄せた途端「ぁん」と小さな声が部屋に響く。
「……………………」
「……………………」
秋山が倒れるようにして布団に転がるとぼすんと枕に顔を埋めた。
体が震えていて、これは笑っている。
「俺が隣にいるんだからヤるなよ」
「………………」
「無理やり厳禁、キスもダメだ、こいつは素人だからな。男女の友情だぞ」
「………………」
「そのまま寝るなら朝立ちに気をつけろよ。あー広瀬が猥談する日が来るかもしれんのか」
「俺に何か恨みでもあるのか」
秋山は顎を乗せた枕を抱えたまま笑った。
「それ位は今日のペナルティだと思って受け止めろよ。寒いと言っているんだ、体を温める位はしてやっても罰は当たらないだろう」
広瀬は口を噤んだ。
そう言われてしまうと今回の騒動の大半が広瀬を起点としていただけに何とも言えなくなってしまう。
「普通に考えたら役得だぞ。多少生殺しではあるが」
「多少?これが多少か?素足が絡んでるんだぞ」
「ぶふっ」
「滅茶苦茶良い匂いがする」
「それで桃か」
「細い。力入れたら折れそうなんだが」
「着太りするんだな」
「………………柔らかい」
実はさっきから胸が当たっている。
声にならない笑い声を上げて秋山が転がった。
「く、っくくく、広瀬、さつきはかわいいな?」
「くっそお前本当に覚えとけよ」
そうは言うものの腕の中にさつきがいる事に不快感はなく、ペナルティという言葉に納得したのも確かで。
ただ、
(この子誰かと寝る事に慣れてるな)
そうも思ったのだ。
広瀬や秋山の前で見せた事のない、縋るように甘える仕草。
それはそうした経験がある事を感じさせるに十分で、チリと広瀬の胸を焼いた。
恐らくさつきには元の世界に男がいる。
(……そりゃいるだろうなあ)
男女関係に疎い自分ですらいい子だと思うのだから、いるだろう、男のひとりやふたり。
広瀬はそっと息をついた。
(恋人でもない男に抱きついて寝るのは完全に有罪だよさつきさん)
とは言え広瀬が先に起床すればさつきは状況を知らないままだろうし、男ふたりが黙っていれば同衾は無かった事になるから広瀬としては無実、即ち無罪である。
(役得だと思うか……しかし男に挟まれて寝てるのに、本当に警戒心が無さ過ぎるなあ)
それだけ信頼されているのだと思うと、面映ゆくもあるのだが。
呆れながらも小さく口角を上げると、「寝るか」、秋山の声に生返事をしてそのままさつきの髪に鼻を埋めた。
(……甘い)
ほんのりと甘く感じられる匂い。
さつきと離れてもこの匂いはきっと記憶に残る。
匂いと共に体温を分けて眠りに落ちた夜の事もきっと忘れない。
今だけ、今だけだ。
懺悔でもするかのように心中で呟くと、広瀬は少し体をずらしてぴたりとさつきとの距離を埋めた。
さつきと自分たちとの間に横たわる溝は何をどうしたって埋められない。
住む世界の違いなんてどうしようもないのだから。
ただ今だけはそれを見ないふりをして体を密着させた。
今だけでいいから、せめてもう少しだけ物理的な隙間を埋めて近付きたいと、そう思う位は許して欲しい。
このまま一緒にいられたらと湧いた気持ちも、伝えないから、そう思う事位は許して欲しい。
***
※海軍隠語でした
POSる→セッ……する
フォース→強姦(直ちにクビ!
KI→KISS
ホワイト→素人女性。玄人はブラック。海軍士官が素人に手を出すのは大大御法度!
ハートインチ→本来の相手は芸者、肉体関係のない仲良し兄妹のような男女関係の事。肉体関係がある場合はインチ
モーニングスタン→そのままw
ヘル→助平、ヘル談→スケベ話(いやらしさのないコメディチックなものが多い)
ナイス→美人な女性。かわいいと言うよりは美人っぽい
20210923
#29.5 Escape:エスケープ・フロム・リアリティ 現実逃避の半宵
無防備に寝てしまった後の話。