32:around him




竹下さんは今日は私の顔を見に来ただけで、初めから長居する気はなかったみたい。
晩ご飯を食べた後にまた近い内に会おうなと言い残して帰って行った。

それから広瀬さんを待っていたのだけれど、廊下から聞こえるのは別の部屋に入っていく人の足音ばっかりで。
(単なる用事じゃなくて、込み入った話をしに行ってるんじゃないかな)
例えば、そう、例えば一昨日の事とか……

「さつき、もう寝ろ」

そう声を掛けられて時計を見ればもう日をいくらか跨いでいて、昼間あれだけ寝たのにうとうとし始めていた私を見て秋山さんがそう勧めてくれた。
「え、だって広瀬さん」
遅くても来るって言ってたじゃん。

「この時間だ、もう今日は無理だろう。俺ももう寝る準備をするから」
「えーあっきーとふたりか〜やだーふあーん襲われるー」

きゃらきゃら笑って言えば、額をぺちんと軽く叩かれた。

「あほか。お前は警戒心がなさすぎる。女将も普通にこっちに布団運んでくるし、どうなっているんだ」
「普通に布団受け取って寝ようとしてる辺り秋山さんもどうなの?」

何にもする気なんかない癖に。
そう言えばぼすっと枕が飛んできた。やっぱり何にもする気なんかないんじゃん。
あははと笑えば苦笑いが返って来る。



「まだやる事ある?大きな灯り点けたままでいいよ?」
寝ると言いつつ枕元にランプを引き寄せた秋山さんに話し掛ければ、もう少し本を読んでからって。
「明るくて眠れないか?」
「それは大丈夫だけど……ね、秋山さん。広瀬さんはお兄さんの所に行ったんじゃないの?東京にいらっしゃるんでしょう?」

そう問えば書籍から目を離して秋山さんはこちらを向いた。
そして肘枕で暫くそのまま黙っていたのだけれど。

「俺と広瀬は今軍令部という部署にいるんだが、広瀬の兄もそこにいる」
同じ部署って、もしかして同僚ですか。
「そうだ」
「い、今までよくバレなかったね」
「広瀬大尉はさつきの存在を知っていて黙っていたようだがな」
え。
「今回の騒ぎをどこまで知っているかは分からないが、放っておけなくなったんだろう。今日の昼に話がしたいと言われたそうだ」
「……揉めてるのかな……」

かもな、と言われて溜息が落ちた。

「広瀬さんのお義姉さん、広瀬さんの事すごく心配してた。……ねえ、やっぱり私」
あの家にいない方がいいんじゃないかな。
「そんな事はない。広瀬も言っていただろう。俺たちがいてくれと言っているのだからいいんだ。何度も同じ話をさせるな」
「ハーイ……」

小さく返事をすれば、秋山さんの表情が少し柔らかくなる。
「兄弟で喧嘩別れなんてならないよね」
時間が掛ってるなんて、あまり良い風には思えないんだけど。
「それは広瀬がなんとかする事だ。なるようになる。あまり心配するな」
「そうだけど……秋山さんは?秋山さんは東京に御家族はいないの?」

聞けばお兄さんが東京にいるそうで。秋山さんは問題ないって言うけれど、さあ。
「本当に大丈夫?私に気を遣ってるんだったらそれは」
「さつきこそ気を遣い過ぎだ」
「そんな事はないと思うけど……ねえ秋山さん」
「ほら、もう寝るぞ」
気になっていた留学の件を聞いてみようと言葉を繋げたけれど、これ以上続けるのは許さないと言うように秋山さんは枕元のランプを消してしまった。
仕方なくそのまま目を閉じたけど、本当に広瀬さん関係は気掛かりが多すぎるよ。





「おかえりなさい」

今日は部屋で、昨日と同じように出迎えれば広瀬さんはきょとんとした表情でこちらをじっと見てきた。
え、えーっと?凝視してないでなんか言って!恥ずかしい!

「着物似合うね。借りたの?」
「………」

秋山さんみたいに特に冷やかすような言葉もなく。
笑いながらストレートに褒められると何だか居た堪れない。
いや、そうじゃなくって。今日は聞かないといけない事がある筈でしょう?
そう思って声を掛けようとしたのに。

「あ、メシの用意してある。さつきさんが作ったのか?嬉しいなあ。仕出しは美味いけど量が足りないんだよ」

にこにこしながらそう言う目の前の人があまりに普段通り過ぎて、ちょっと戸惑ってしまった。
その様子を見て察したのか、少し高い位置からこちらを見下ろして広瀬さんが軽く口の端を上げる。
「話はメシ食ってからでいいか?俺腹減ったわ」


話っていうから身構えたけど、秋山さんと軽口を叩きながらご飯を食べる様子は全くいつも通り。
何だか機嫌もいいみたいだし、昨日は悪い方向には話は進まなかったのかもしれない。
……どうだろう。
窺うようにちらちらと広瀬さんを見れば秋山さんが吹き出すようにして笑った。

「さつき、気持ちは分かるが挙動が不審過ぎだ」
そんな事言われましても。
「だって……ねえ広瀬さん、昨日大丈夫だった?私のせいで諍いとか」
「え?いやいやそれはない。大丈夫だよ」

そう言うや、ぱちんとお箸を置いて広瀬さんは少し考える素振りを見せて話し始めた。

「兄の家に行ってきた。君の事でね。それは秋山から聞いた?」
頷く。
「お兄さん、同じ部署だって」
「ああ。秋山と俺の様子を見て家に女の人がいるらしいと薄々気付いてはいたみたいなんだが、」

少し離れた所から見ていたが生活に乱れは感じないし、弟が自分から言って来ないのにはそれなりの理由があるのだろう。
子供でもないのだし、特段問題がある訳でもないのならこちらから口出しする必要はないだろう、と。

「そうなんだ」
「うん。でもな」

どうした訳か弁当の事が嫂の耳に入ったようで、その時点で彼女はあれ?と思ったらしい。
秘かに調べてみれば義弟が住んでいる借家にいたのは思いの外若い女性で、しかも通いではなく住み込んでいた。
嫂は義弟が独身主義を唱えて周囲からの話を撥ねつけていたのをよく知っていたから、それを知った時の驚きは一通りではなく。

それに若い女が若い男しかいない家で住み込むなんて随分非常識な話で、どういう料簡の人間かと思ったのだが、しかしこれはいい機会だと。若い女性と暮らせる位なら、考えも変わるんじゃないかと。

「それで麻布に来られたのね」
「うん。それでその時の君の様子が、その、あまりにも普通じゃなかったから、帰ってからもずっと気になっていたって」

そしてややそわそわした様子の嫂を見た兄がどうしたのかと問うた時にさつきの名前が出た。
そこで兄は嫂が麻布でどういう話をしたのかを、ついでに嫂から見たさつきがどんな女性だったのかを聞き出して……

「余計な事をしたのではないかと思ったと」
「そんな」
余計な事だなんて。
「昨日の俺の様子を見てそう思ったんだと思う。流石にさつきさんが家を出たところまでは知らなかったようだけど」
「……ね、もしかして昨日その話したの……?」
「した」

少し眉を寄せてしまった。
そんな事わざわざ知らせなくても良かったんじゃないかって、そう思ったから。
それに家を出たのは広瀬さんのお義姉さんのせいじゃない。引き金にはなったけど、千代さんの所へ向かう段階で自分で決めた事だ。

「うん。そうかもしれないけどさつきさん、そんな事言えない位危うい状況だったんだよ。竹下が君を見つけていなかったら本当にどうなっていたか」
あのまま離れ離れになっていたら悔やんでも悔み切れない。

「その通りだな」
秋山さんを見れば手酌でお酒を注いでいた。
「貧民窟の近くで危ない目に遭ったと言えば、大抵の人間はぞっとするよ」
「そうなの?」

聞き返してはみたものの、あまり話すような内容ではないのかふたりは何も答えてくれなかった。

「さつきさんは若い女の人だからなあ」
ああ、そういう事か。大体の考えられる事態は想像できたけど、だとしたらそんな話をされた広瀬さんのお義姉さんはどう思ったのだろう。

「真っ青になっていた」
「……あの、あの、……広瀬さん、本当にお義姉さん悪くない……」
「うん」
「私がお義姉さんの立場でもきっと同じ事思うし、するかも」
「うん」
「財部さんの立場でも、きっと同じ事言う」
「うん。ふたりとも今度謝りに来るって」
「――広瀬さん!」

思わず大きな声を上げてしまった。

「確かにちょっと嫌な思いはしたけど!私謝って欲しいなんて思ってない!」
何よりもここで、この時代を生きている人の意思を優先すべきだと思う。

「ああ、それは分かっているし、さつきさんがそう思ってる事も伝えた」
なら、なんで。
「でもな、ふたりとも俺たちの事情も知って、君がそういう事を言える人だと分かったから余計に謝りたいって」
「…………」
「そうなのか」
「ああ」

「な、さつきさん」
呼び掛けに広瀬さんの顔を見返す。
「色々と考えてしまうのは分かる。でも俺からも謝りたいんだ。俺たちも君に黙っていた事があるし、もう少し早く手を打っていたら怖い思いをさせずにすんだかもしれない」

「すまなかった」

そう言って頭を下げた広瀬さんに続いて、同じ言葉を告げて秋山さんまで頭を下げてしまった。

「ちょ、止めて、秋山さんも止めて!そんな事しないで」
「謝らせてやれないか?それだけで向こうも気が済むんだ。謝れもしないとなると今回の事はきっと後に引く。それは避けたい」
そう言われてしまうと……

「さつき、俺からも頼む。嫌か?」

嫌か、なんて。

「……元はと言えば転がり込んでいつまでも甘えてる私が悪いのに」
「まだそんな事言うのか……」
「だからそれは違うと言っているだろう」

「……………」
「……………」
「……………」

その沈黙に誰ともなく笑うと、「あー、もう止めだ止め」、秋山さんが姿勢を崩した。

「何度同じ話するんだ俺たち。堂々巡りだ。もうこの話は止めだ」
「はは、確かに」
「さつき、さっき『少し嫌な思いをした』と言ったな」
うん、確かに言いました。
「ならその事について謝られると思えばいい。それに俺たちの生活がいきなり掻き回されたのも、お前が危ない目に遭ったのも確かだ。生きている時代が違うとか、そういう問題じゃないだろう」
「……はい……」
「なら謝罪は受ける。決まりだ。これでこの話はもう止める。広瀬もそれでいいよな?」
「あ、ああ」

そのまま口を付けたままだったお酒を飲み干してお箸を持ち直した秋山さんの様子に、若干ぽかーんとした表情の広瀬さんと顔を見合わせ、改めて笑ってしまった。
ここに来てから毎日その話してたもんね。
昨日だって秋山さん相手に私ずっと同じ事言ってたし、そりゃ嫌にもなるか。

「……じゃあ広瀬さん、お願いしてもいいですか?」
「こちらこそよろしく頼むよ」

そう言われて広瀬さんから差し出されたお茶碗を受け取った。



で、だ。
留学の話、出そうかと思ったけど、なんかもうそんな雰囲気じゃなくなってしまって。
私からあんまり触れない方がいいのかな。でもこのまま放置って事もできないだろうし。

「どうした?」
ちょっと考え込んだら広瀬さんが突っ込んできて。
「あー……私もう帰れるよ?ここ貸座敷なんでしょう?もう三日もいるし、料金とか……」

違・う・だ・ろ。
凹む。自分のヘタレさに滅茶苦茶凹む。
でも広瀬さんはそんな私の様子には気がつかなかったようで。

「それは気にしなくていいから、本当に安くしてくれてね。それで明日なんだが半ドンだろう?財部がここに来る」
「え?」
「さつきさん、ここでも食事を作っていてくれたみたいだが、女将に世話になりっ放しも何だからさ。竹下も呼んでちゃんと遊んでから帰ろうか」
「は?」

いいよな?なーんて秋山さんに確認を取っているのを横目に見ながら、遊んで帰る?
まさか広瀬さんの口からそんな言葉を聞こうとは。その意外さで重要な話が一遍に頭から抜けてしまった。

「さつき、偶には人に作ってもらったメシ食うのもいいんじゃないか?ここが頼む仕出しも結構美味いぞ」
「はあ……ならよろしくお願いします……」
「何だその気のない返事は」

明るく笑う秋山さんに杯を渡されお酒を満たされる。一気に飲み干して息を吐けば、ほっとしたように微笑した広瀬さんがいきなり爆弾を落としてきた。

「さつきさん、突然だけど『三国志演義』、俺のでよければいるか?」
「え?……は⁉」
「君がいなくなった時に部屋を少し改めたんだ。その時にちょっとノートの中を」
「……読んだ?」
「悪いとは思ったんだが」
「全部?」
「全部」
「……ごめ、ちょっとトイレ……」
「え、おい、さつき?」

そのままそそくさと部屋を後にしたのだけれど。

ひ、広瀬ー‼‼
顔が!私今顔が真っ赤だよ‼倒れそうだよ廊下に!

広瀬さんは私が誰にも言わず、手慰みにひっそりこっそり書いていたなんちゃって小説を読んだのだ。
あれには時代は違うもののここに来てからの自分の気持ちとか体験が結構反映されている。
あんなの知ってる人が読んだら私の体験記だって一発で分かってしまう。
それを読んだ?なんて事を広瀬さん……涙目だ。

「…………恥ずかし過ぎて死ねる……」



「何の話だ。ノート?」
「小説ノート」

何の事だと首を傾げた秋山に広瀬が酒を注いでやった。

「『指輪物語』じゃないのか」
「あれとは別物。一昨日さつきさんの部屋に入っただろう」

その時に指輪物語のノートと家計簿、あともう一冊何か細々と書かれていたノートを見たのだ。

「家計簿。つけてたのか」
「秋山が清流庵に行っている間に見たんだが、彼女俺たちが渡してる金も大半は使わずに生活費に回している。そもそも何とかできるほどの金額渡してないのに。本当に出て行ってどうする気だったんだか」
広瀬が苦笑いする。
「で、もう一冊が小説だった」

何気なく手に取ってページを捲って……目が離せなくなった。
ノートに綴られていたのは三国時代の小説だった。その時は時間がなくてざっと斜めにしか見られなかったが、この数日のさつきの不在をいい事にノートを拝借していた。
内容はどういう訳か現代から三国時代にやってきた女性が誰かと出会って……という彼女のここでの体験をそのままなぞったかのような話。
しかし戦の順番や地名の記憶が曖昧であったり覚えていない点も多いようで、文字の脇には「?」と疑問符が沢山付いていた。

「……それは実際にはあいつ自身の話ではないのか」
「それもあるだろうな。ここでの話を下敷きにしていると思う。あの話の書きようだと俺たちも彼女にそんなに悪くは思われていないみたいだな」

ものすごく今更な話だが、広瀬は大袈裟に「ホッとした」とおどけたように笑った。

「どんな話だ?三国志をなぞる話なのか?」
「そうでもあるし、そうでもないな。恋愛の話が軸になっているようだが」

三国時代に迷いこんだ主人公の女性を拾うのは蜀の宰相諸葛孔明で、疑いや危機を克服しながら彼に惹かれていくのだが……

「諸葛亮には妻がいただろう。黄氏だったか」
「そうなんだ。そこで悩んでいる辺りで丁度途切れててさ、すごく気になる。俺あの続きが読みたいんだよ」
「……だ、そうだ。さつき」
「え、いるの?」

秋山が横着して体と腕を伸ばし襖をぱーんと滑らせれば、真っ赤になって廊下に蹲っているさつきがいた。



「さつきさんごめんな。でもあれ本当に面白かった」

近付いてきた広瀬さんに腕を引かれて部屋に迎え入れられ、はい、と杯を持たされて。

「誰にも見せないつもりで書いていたんだろうけど、そんな風には思えない」
「…………褒めても何も出ませんよ……」
また秋山さんにお酒を注がれて。
「何も出さなくていいから、俺にも読ませろ」
「勘弁して下さい」

本当に今まで通りの日常が戻ってきたような感じがして嬉しかったのだけど正直泣きたいよ……



(120618)130307
around him:彼の周辺の話
暇にまかせて小説を書いていた夢主。しかし忙しい回です。

wavebox(wavebox)