(#32.5)
すとんと肩から寝巻きが落ちると白い背中が露わになった。
栗色の髪が肩甲骨の下辺りまでを覆い、そこから続く腰回りには弛みがなく、すらりとした後ろ姿は洋服や着物の上からは想像しにくい華奢なものだった。
思っていたよりもずっと細い。
力を入れたら折れそうだと言った広瀬の気持ちが分かる気がするし、ここの女将に令嬢か高級娼婦かと思われた位には身体がきれいらしいが、目の当たりにすればそれもさもありなんと思う。
覚醒しきらないままぼんやりと女の背を見つめていると、横座りの姿勢のまま布団の傍にある着替えを取ろうと手が伸ばされる。
敷布の上に溜まっていた寝巻から体が軽く浮いた拍子にまろい尻が僅かにのぞき、軽く捩じられた拍子にふるんと乳房がこぼれ揺れるのが見えた。
(きれいだ)
日本の女性は髪の結い方もあって頭部が大きい上上半身の起伏に乏しく、胴長短足でどっしりとした骨太な体型だ。西洋人から見る日本人は随分と不格好らしく、総じて評判は悪い。
成程秋山の知る女の身体とさつきの身体は随分とかけ離れている。
後ろ姿を目に映しながら、きれいだと極めて健全な気持ちでもって秋山は心中で再度呟いた。
うなじから肩、背中から腰、腰のくびれから尻、胸から腹にかけて繋がる線は美しく、神が生み出した傑作のひとつは女の曲線美ではないかと柄でもない思いが頭に浮かぶ。
払暁の暗がり、まだ夢の中にいると思っているのだろう、布団に横たわる秋山が自分の動作を見つめていることに気付いていないさつきは着替えを続けている。
上半身を覆うには面積の足りない下着、その紐に両腕を通して浅く屈むと後ろ手で背中のホックを留める。
秋山の位置からは見えなかったが、右手で左胸を左手で右胸を前に寄せているらしい。形を保つ下着のようで、それであの谷間かと冷静に納得した。
同衾した時その柔らかさに絶句した広瀬に笑いを抑えられなかったが、今思えばあれはかなり酷だった。
この肢体に抱きつかれておかしな気を起こさずに夜を越えたのは男としては褒められていい事だろう。
よく耐えたなと思うものの広瀬は一度決めれば割り切る男だったから、そのままさつきの背を抱いて、足が絡むのを許したままさっさと寝てしまった。鉄の自制心だ。
それなのに、だ。
待合を出る直前に秋山が起こすまでさつきは目覚める事もなかったから、待合から麻布への道すがら広瀬は「これで完全無実だな」と笑ったが、
「……いい子だよな、本当に」
次に続いた言葉に秋山はぎょっとして目を瞠ったのだった。
そこには深更の軽口とは異なる意味が込められている。
広瀬がさつきに絆されて微妙な空気になっていた。
ああ、これは良くない。
瞬時にそう思った。
仕方ないと思う。
だってさつきは本当にかわいいのだ。
慣れない中努力して男の生活を支えてくれているのを知っている。
大変な事が多いだろうにこちらに向ける顔は笑っている事が殆どで、男のふたり暮らしが思い出せない位に家が明るかった。
終業後に待っているのがこれだと思うと本当に早く帰りたくなる。
それにこちらに迷惑を掛けまいと頑なであった所なんて思い返せば本当に健気の一言だ。
頑張り屋でいつも笑顔で明るくて、その上健気。
そんな女、明治でも探せば沢山いるだろう。
ただその中に自分たちの為に身を投げ出すような事までしてくれるような女がいるか?
今まで一緒に過ごして、こんな時間が続けばと感じ始めてきた上でのあんな献身 ―― 献身としか言いようがない行動に広瀬の心が動かない訳がなく、秋山の心が動かない訳がなかった。
「広瀬」
「あー……ああ、うん、大丈夫、うん、分かってる」
やや丸みの欠けた声で隣を歩く男を呼んだものの、戒めようとしたのは広瀬だけではなく自分もだ。
自分たちがさつきに対して違う方向に心を砕くのは色々とまずい。
「大丈夫、分かってる」
言いたいことは正しく伝わったのだろう、広瀬はそう繰り返したが。
「……あんな子中々いない」
「ああ」
「布団の中で無責任にもここにいてくれたらと思った」
広瀬の告解にも似た言葉に点頭する。
「彼女、恐らく未来で男が待っている」
「まあ……だろうなあ」
こちらの肯定にちらりと下りてきた視線。
「布団に誰かが入り込んでくる事に慣れている風だっただろう」
さつきはきっと男との同衾に慣れている。
秋山は特に見返しもせずにそう答えた。
「ああ、そんな感じ」
「いい女だぞ、あれは。それに着飾ればそこそこナイスだ」
「ああ」
「いるだろう男ぐらい」
広瀬はふっと息を吐くと苦く笑った。
「……もう少し違う形で、普通に会いたかったなあ」
「見合いか」
「見合いはダメだ、顔見る前に門前払いにしてしまう」
喉の奥で笑う広瀬に秋山はふんと鼻を鳴らした。
秋山はこの男が周囲から持ち込まれる話を片っ端から断っているのを知っている。
海軍士官にとって縁の深い女性たち ―― 即ち玄人筋はあくまでも遊びであるし、秋山が知る限り広瀬は付き合いで芸者遊びはしても彼女たちと体の関係を持つような事はしなかった。
その男が含みを込めて「いい子」とか「ここにいてくれたら」とか……
広瀬は普段そんな事を口にする男ではなく、抑々独身主義を掲げている。
そんな男にこんなことを言わせるなんて。
広瀬が意識的に避けている女が女である部分を見ても尚好意を口にするのは、秋山に言わせれば相手がさつきであるのなら結婚もいいと言っているのと同義だった。
(罪深い……)
そして秋山にも広瀬と同じ程度の熱量が生まれつつあった。
本当に罪深い。
ただどんな気持ちを持ったとしても離れる事だけは確定しているのだから今の関係が一番いいのだ。
今以上に心を乱されるような事は避けなければ。
「ハートインチか」
「ハートインチだな」
口を突いて出たさつきとの関係の方向性が被っていて、どちらからともなく吹き出した。
相棒よりもそちらの方がしっくりくる気がする。
「罪作りな女だよ」
「本当に」
そんな風に言い合って互いを納得させ合ったというのに。
――お前らのどっちか、さつきちゃんを嫁さんにする気ないの
それは酷く嫌な抉り方だった。
竹下に悪気はないのは分かっていても、秋山は舌打ちせずにはいられなかった。
このニ、三日で広瀬も、秋山だって竹下が言う未来を思わなかったわけではない。
寧ろ頭の片隅で漠然とその想像をしたのだ。
その上でいいなとすら思った。
ただそれを言葉にしなかっただけで。
しかし行きつく結論は「もう少し違う形で、普通に会いたかった」という広瀬の台詞に集約されていたし、だからこそハートインチだと笑ったというのに。
竹下の一言で、さつきとふたりきりで夜を過ごす羽目になった男の心がどれほど波立ったか。
恨みがましいが、寝た子を起こすような真似をした同僚をぶん殴りたくなったのは許して欲しい。
しかし「ふたり」「不安」「襲われる」とケラケラ笑い、その上で「何にもする気なんかないくせに」と言い放ったさつきに完全に毒気を抜かれて、正直ほっとしたのだ。
微妙な軽口を叩ける程度には信用されている。
さつきに手を出すつもりは本当になかった。
なかったけれど、そうなってもと思われる程には想われていること位は、少しでいいから察して欲しい。
(衝立を入れるべきだったな)
眼福ではあるが、いくら信用されているとは言えこれは無防備に過ぎる。
柔らかそうな体が布に包まれていくのを横目に見ながら、静かに寝返りを打って背中を向けた。
「秋山さん……?」
動いた気配に気づいたのか、起きてる?と呟きながらさつきが近付く。
背中辺りの布団が軽く沈み、四つん這いで後ろから覗き込んできた女の髪が秋山の体にふわりと掛かる。
さつきは須臾の間秋山を見つめていたが、不意にその背後に転がって両手を背中に添えると、
「見てたんでしょ、やーらし」
囁くように口にして笑い出した。
「男がいる所で着替える奴があるか」
「ごめんなさい」
くすくす笑いながらも退く様子のない女の方へと体を翻すと少し見下ろす形になる。
向かい合わせになるのが予想外だったのか、さつきは目を丸くしてこちらを見ていた。
双眸がぱちぱちと何度か瞬くと暗がりにとろけるように細まり、口元がゆるく弧を描く。
かわいい。
(クソ)
堪らなくなって秋山は自分に掛かっていた肌掛け布団を剥ぐと巻き付けるようにしてさつきを包んだ。
そのままの勢いでさつきを腕の中に閉じ込めたが、彼女は小さく身じろぎしただけで抵抗もなく収まっている。
片腕を枕にして、片腕は肌掛けにくるまれて繭のようになっている女の背中に。昨日の広瀬と同じ体勢になる。
この距離でさつきを直視し続けるのは色々とまずい気がして、視線を奥に見える窓の向こうに彷徨わせた。
雨戸を閉め忘れた窓の外には星が見える。夜明けにはまだ間があった。
「他の男だったら襲われてる」
「でもここにいるのは秋山さんだよ」
「お前な……」
「秋山さんと広瀬さんじゃなかったら同じ部屋で寝たりしない。こんな事しない」
笑いを潜めてそっと瞳を伏せながら紡がれる言の葉の、このタチの悪さ。
これが睦言でもなんでもない所が恐ろしい。
(広瀬を笑った罰が当たったか)
そうとしか思えず苦笑しかけた所で、さつきが口元で両手を擦り合わせた。
「冷えるのか」
「うん、ちょっと寒くて。日中は大丈夫なんだけど、朝晩は手足が」
「昨日も冷たかったもんな」
「え?」
暗がりで軽く開いた唇を見て、あ、とは思ったものの揶揄うように口角を上げた。
「昨日広瀬と寝たの気付いてなかったか?」
「え?知らない、え、広瀬さん?一緒に?」
「夜中に寒いと言ってあいつにしがみついて朝まで寝てた」
こんな風に、と背中に添えた手に軽く力を入れて少し引き寄せると、え、え、と目を白黒させて驚いている。
「暖かかっただろう」
ふは、と噴き出しながらそう告げるとさつきは素直に頷いた。
「なんか急にあったかくなって。抱き枕?湯たんぽみたいだなって」
「それ広瀬な」
「広瀬さん顔合わせても何も言わなかった」
「お前が気付かないから無かった事になったんだよ」
たった今広瀬は無実でも無罪でもなくなってしまったが。
「なにそれ」
ぽやんと笑いながら「秋山さんも湯たんぽにしよ」と躊躇いもなく体を寄せるから、秋山はおかしくなって声を上げて笑ってしまった。
かわいい。
これはもう仕方ない。
かわいい。
(笑って本当に悪かった)
心の中で広瀬に謝りながら、秋山も遠慮せずにさつきの髪に触れた。
後頭部をするすると撫でてやると猫のように気持ちよさげに瞳が閉じられる。
「あのね」
「ん?」
「優しさがあったかくて、嬉しくて、気持ちいい」
「そうか」
「秋山さんも広瀬さんもどうしてそんなに優しくしてくれるの」
「…………お前が俺たちに優しくするからだ」
「そっかぁ」
くふくふと密やかに笑う。
ゆるゆるとした話し方にふわふわとした雰囲気。
静かに落ちる閑やかな声、肌掛け一枚を隔てて伝わる体温。
意識しなければ気が付かないだろう桃のような乳のような甘やかな匂い。
世間から隔絶された部屋は穏やかで、身を浸していたくなるような心地良さだった。
(このまま閉じ込めておきたい)
ここにいてくれたらと吐露した広瀬をどうして責められるだろう。
しかし……
(これは恋人にしか許されない空気だな)
芸者などの商売女とでは生まれない、恋とか愛とか、そういったものを孕んだ空気だ。
色恋に重きを置かない男でもそれ位ははっきりと分かった。
今まで見てきたさつきとは随分違う姿に、この女は恋人の前だとこんな風になるのかと取り留めもなく思う。
そうだ。
“親密”にならなければ見ることのない、秋山や広瀬では見ることのできない姿だった筈だ。
本来ならさつきの男が享受する姿の筈。
―― 彼女、恐らく未来で男が待っている
―― いるだろう男ぐらい
思い出された昨朝の広瀬とのやりとりは存外重く秋山にのし掛かった。
いるだろう、男ぐらい。
「さつき、」
「なあに」
お前、俺にこんなことを許していいのか。
誰にとっても不毛な問い掛けが飛び出しそうになった所で、はたと思い至る。
さつきは起きている。
昨日の広瀬とは状況が違う。
起きている。
さつきは男がいるのにこんな不誠実な事をする女だろうか。
「……抱きしめていいか」
寸考の後の言葉にさつきは「今とどう違うの?」と笑ったものの拒みはしなかった。
「いーよ。抱きしめて下さい」
「は、はは」
「えぇなんで笑うの……?」
そうか、未来で待っている男はいないんだな。
それで心が軽くなる単純な男に笑ってしまう。
「……秋山さん」
「ああ、悪い」
「違う、違うの、あの、あのね、少しでいいの、今だけでいいからお願い、」
「どうした?」
口ごもる様子に冗談だと続けようとした軽口を止めれば、
「……………………甘えさせて………………」
消え入りそうな声にぎょっとして体が固まった。
「入るぞ(自分の軽口に殺される……)」
応えを待たず、軽くぐらつく心を悟られないようにさつきをくるむ肌掛けに入り込む。
左は肘枕、右手で抱え込むようにしてさつきを抱き寄せると薄い体が少しだけ強張った。
さつきが言い出したというのに、肌掛け一枚でも隔ては大きなものであったらしい。
「あー……抱きしめるだけだ。何もしない」
「うん」
「他の男だったら誘っていると誤解されても仕方ない、襲われても文句は言えないのは分かってるな」
「うん」
さつきの左手が自分の胸元におずおずと寄せられる。
安心するように落ちた吐息に、性欲を介在させず、本当にただただ甘えたかっただけなのだと秋山は察した。
さつきには寄る辺もなく一緒に暮らしているのは赤の他人の男だけ。近くても異性には相談できないこともある筈だ。
近所に仲のいい人間はいても、まだ心の奥底を見せるような関係にまでは至っていないだろう。
さつきはこの世界で本当の意味でひとりだった。
今までにも誰かに縋って甘えたい時だってあっただろうに、さつきにはその誰かさえいなかったのだ。
そしてそんな素振りさえ見せなかった。
大の男でも甘やかされたい夜はあるというのに。
(寂しいし不安にもなるか)
あんな事があったばかりで、その上仕方ないとはいえ知らない人間の家に預けられて。
不安にならない方がどうかしている。
今まで気丈に過ごしてきた女が雰囲気に託けて甘えさせてと言い出すだなんて、よほど弱っている。
はーっと内心で大息した。
今までさつきの明るい所ばかりを見ていたから、その表層に目を取られて彼女が見せない心の裡を軽視し過ぎていたのかもしれない。
「お前はよく頑張ってるよ」
「うん」
「よくやってくれてる。本当に感謝してる」
「うん」
「……こんな風に甘えたいならいくらでも甘やかしてやるから、もう少し俺と広瀬に寄り掛かれ。大丈夫だから」
自分たちが不自由を強いているのは分かっているから、それぐらいはしてやりたい。
「ただ男の前で不用意に肌を晒すのは止めろ。下着で男の寝床にも入るな。お前はきれいなんだから、気をつけて欲しい」
「うん………………うん?」
胸を押すようにして少し隙間を作ったさつきとぱちりと視線が重なる。
「かわいい」
「秋山さん?何言ってんの?」
「広瀬もそう思ってる」
「う、うん…………?」
盛大に疑問符を浮かべる顔を見て秋山はふっと口元を緩めた。
「さつきはかわいいよ」
暗い中でも目の前の頬に朱が刷いたのが分かる。
「かわいい」
左右に目を泳がせるとさつきはそのまま秋山の胸元に額を擦り付けた。
分かりやすい照れ方に声にならない笑いが漏れたが、
「あんまりからかわないで」
耳に届いたさつきのくぐもった言葉、それを否定しようとして止めた。
からかってなどいないがそういう事にしておいた方がいいのかもしれない。
まだ暫くは同じ屋根の下で一緒に暮らすのだから。
「もう少し寝るぞ。手伝いをさせる為にここにさつきを置いているんじゃない」
さつきが着替えていたのはここでも朝食の用意をしようとしていたからだろう。
それにしても早すぎる時間だ。
「二度寝したら起きられないと思う……」
身体を寄せ合う温かさに眠気がさしてきたのか、さつきは欠伸混じりの緩めの口調でそう零した。
「それでいいんだ。広瀬の朝メシ用意する必要もないんだから」
「広瀬さんだけなの?」
「あいつの方がよく食うだろ」
くすくすと忍び笑いするさつきに「もう目を閉じて」と促すと、はあいと存外かわいらしい返事をされて秋山も釣られて笑ってしまった。
「ほら」
頭が小さく縦に揺れたので背中で軽く手を弾ませてやれば、間を置かず寝息が聞こえてくる。
夜明け前のたった数十分。
共有する温もりと密やかな笑い声。
明け方に見る夢のように、目覚めて暫くすればそれもきっと忘れるのだろう。
忘れた方がいいのだろう。
だがこの心地良さを夢うつつの狭間で忘れてしまうのは惜しい気がして、はあと溜息が落ちる。
(……一体どうしたいんだか)
どうにもならないし、どうにもできないというのに。
そう自分に言い聞かせて秋山も目を閉じた。
さつきに合わせてゆるやかに呼吸を繰り返す内に意識が淡いまどろみの中に溶けていく。
寝て起きたらまたいつも通りの日常が始まる。
それでいい。
20211002
Escape:エスケープ・フロム・リアリティ 現実逃避の払暁
当初のタイトルは「波高し」でした