次の日。
使わせてもらった部屋の掃除をして、私は一旦麻布に帰る事になった。
「夜にまた集まるなら居続けていいんだよ?気にしなくていいのに」
女将さんはそう言ってくれたけど、麻布の家もほったらかしで少し気になるし、着物は借りているもののやっぱり着替えたい。
スーツはまだなんとかなったけどシャツはボタンの所が若干破れてしまっていて、この状態ではみっともなくって着られたもんじゃなかった。着物は慣れていないだけに動き辛いし。
それに女将さんには菓子折りなりちゃんとお礼をした方がいいと思う。
清流庵にこんなに行かないでいるのも初めてで、そろそろ顔を出した方がいい気がするし。
それはあのふたりが上手く説明してくれていそうだけど。
と、思っていたのだけれど。
清流庵に顔を出すなり抱え込まれるように店の奥に引っ張り込まれてしまった。
「さつきちゃん!大丈夫?体調が悪いって聞いてたのにいきなり秋山さんが来てないかって尋ねてきたり……」
どうしたの、心配したんだよ、困った事があるなら何でも言ってくれたらいいんだよ!
ばーっと八重さんに捲し立てられてしまった。
心配、してくれてたんだ……
「何言ってんの!当たり前じゃないの殆ど毎日ここに顔出してたのに。それにあんたに世話になっていない子供はこの近所には少ないんだよ。どういう事か分かる?」
どういう事か?
「この辺りは商売している家が多い。だから皆ありがたいって思ってるんだよ。勉強教えてくれて、親の代わりに子供の面倒見てくれて。子供たちは子供たちでお話の続きはとかおやつがおいしかったとか……最近姿が見えないからどうしたんだろうって家の前まで行った子もいたんだよ」
「えっ?」
「ここに来た初めの頃はただの迷惑な客だったのにねえ。自分が知らないだけで、さつきちゃんはもうすっかり近所の馴染みだよ」
キャミソールとジーンズに着替えて箒を持つ。
何日か家を空けたら廊下の端に目に見える埃が溜まっていた。
それが気になって、家に帰ってきてとりあえず掃除を始めてしまった。
初めてこの家に来た時もこんな感じだったっけ?
千代さんに家事一式教えてもらって、本当に何にも知らない子だねって笑われて。
そんなに遠い昔じゃないのに何だか酷く懐かしい。
そうだ。そんなに時間が経っている訳じゃないのに、私は自分で思っていたよりももう少し深くこの時代に馴染んでいたみたいだった。
八重さんも八重さんの旦那さんの颯助さんも本当に心配してくれていたみたいで、今回の騒ぎの当たり障りのないところだけを話して、私のちょっとした悩み事を話してみた、ら。
「ふたりが転勤になったら行く所がなくなる?それなら家に来たら?」
あまりに簡単に言われて、え、と思わず首を傾げてしまった。
「ああ、あのね、開いている部屋もあるし、嫌じゃなければ店を手伝って貰えたらうちとしてはありがたいよ。さつきちゃんがいると子供は来るし若い女の子は来るしで売上げが伸びるからねえ」
掃き終わって濡れ雑巾で廊下を拭きながら言われた事を反芻する。
家においでと言ってくれた八重さんも颯助さんも、一緒になって「売り上げが伸びるなら大歓迎だなぁ」なんて笑って言ってくれた。
なんだろう。
すごく、すごく気が楽になった気がした。胸の奥がじんわりと暖かくなる。
明治に来て嬉しい事は沢山あったけど、あのふたり以外にも私の事をきちんと見てくれている人がいたというのが何よりも嬉しい。
清流庵での余韻を引きずってぼんやりとしたまま廊下を拭いていたら突然ガラッと引き戸が開いた。
「あれ、開いてる……さつきさ、」
「あ。広瀬さんおかえり」
声掛けるなり広瀬さんはピシッと固まってしまった。
「広瀬どうした、入っていいのか?」
そのすぐ後ろからひょこっと以前この家で会った人の顔が。
「……………………」
財部さんも固まってしまった。
「さつきさん!ちょ、なんて格好!何か着て!」
これと言いながら渡されたのは広瀬さんが急いで脱いだ紺のジャケットだった。
なんて格好ってそんな変な格好してたっけと思いきや、あー……キャミソールで四つん這い……
「いやーんんん広瀬さん見た?見た?」
「見たんじゃない!見えたんだ!……あ」
「見たんだ〜!二回目!ここで私の胸の谷間にほくろがあるの知ってるの広瀬さんだけだよ!」
「誤解を招くような言い方をしないでくれ⁉」
けらけら笑えば後ろから咳払いが聞こえた。
「あ(忘れてた)。……えーと、こんにちは……?」
「……………こんにちは」
「さつきさん、まだ向こうにいるものだと……家に帰ってきているとは思わなかったよ」
うん。確かにそうかも。でも長く家を開けていたし、一度帰りたかったし。
「そうか」
「それで広瀬さん、あの、私出掛けてこようか?」
「どうして?」
どうしてって。貴方の隣で黙りこくってお茶を飲んでる財部さん怖過ぎです。
「広瀬、すまないが席を外してもらってもいいか」
「ならちょっと用を片付けてくるよ」
(は?広瀬さん本当に行っちゃうの?)
いきなりふたりきりにしろと言った財部さんを追求する事もなく広瀬さんはさっさと席を立って行ってしまった。
どうしろと。
ヤダな。前回この人とここで会った時の事を思い出して少し嫌な感じにドキドキしてきた。
「……」
「……あの、」
「悪かった」
「え?」
いきなりの謝罪に思わず少し逸らしていた顔を財部さんの方へ向け直す。
「君や広瀬たちの事情も聞かずに、いきなり失礼な事を言ってすまなかった」
そうだった。日を変えて謝るってそういう話だった。
でもあれは財部さんからしたら当然の行動だったと思う。
「いや、和菓子屋で会った時もそうだっただろう。本当は怖がらせるつもりもなかったんだが」
「もういいです」
被せるように言葉を遮れば、目の前の人の目がスッと細まる。
「もう終わった事ですし……元々謝ってもらう必要ないって広瀬さんには伝えてましたし」
「しかしな」
「財部さん、私の事あのふたりから聞きました?」
少し黙って財部さんは無言で頷く。
「全部?私が……」
「未来の人間かも、という話も聞いた」
そっか、本当に全部話したんだ。なら話は早いよね。
「私は本来ならここにいる筈のない人間です」
存在している筈のない人間より、元々明治時代に生きている人の行動や感情を優先するのは当然の事だと思う。
それに広瀬さんや秋山さんの場合は留学という大きな問題が関わっていたのだから、私としては余計に何とも言えない。
寧ろ財部さんの行動は財部さんの立場なら正しいと思うっていうのが正直なところで。
「それは違う」
「違うって、」
「君はこの時代の人間ではないのかもしれない。しかしそれは今、確かにここにいる君を無視していいという理由にはならないだろう」
「……」
「この前、君には広瀬の留学は決定事項のように話したが、」
実際にはその前の段階だってふたりから聞いた。
「そうか。あのな、これは黙っていて欲しいのだが」
「近々広瀬に留学の内示が下りる」
「えっ」
「留学は広瀬が自分の力で勝ち取ったものだ。しかし聞いていれば君がかなりの協力をしていたようだ。広瀬もそう感じているみたいだな。……竹下の言う通りだ。事情を知らない人間が横から口を出す問題ではなかった。謝らせて欲しい。本当に悪かった」
そう言って目の前で頭を下げた財部さんが酷く滲んで見えた。
「……おい?」
焦ってこちらに寄って来た人の顔はやっぱりぼやけている。
「だ、大丈夫か、すまん、頼むから泣くのは止めてくれ」
「本当に?広瀬さん本当に留学できるの?嘘じゃない?」
「嘘じゃない。確かだ」
「どうしてそう言えるの?」
少しの沈黙の後、財部さんが口を開く。
「俺の義父は海軍のお偉いさんだ。ハンコを押す立場の人からの話なんだよ」
「……よ……った……私のせいで広瀬さん、留学できなかったら、どうしようって……」
言葉と一緒にぽたぽたと雫が落ちていくのが分かる。
「良かった……ずっと気になってた、本当にどうしようどうなってるのって、でもそんな事中々聞けなくて」
「ああ」
「ねえ財部さん、私無駄じゃなかったのかな」
あのふたりにお世話になってばかりで何も返せるものがない。
それはここに来てからずっと心苦しく思っていた事だった。
だからせめて私ができる事は何でも、ちゃんとやろうと思って……そう思って家の事をしてきたのは無駄じゃなかった?
「無駄どころか役に立つ以上の事をしてる。あいつらも感謝してたよ」
「本当?」
「如月さん、思ったんだが君は……」
財部さんは少し考えるようにして言葉を途切った。
「君は広瀬の留学を後押しする為にここに呼ばれたのかもしれないな」
思わぬ言葉にはっとして財部さんを見返した、その時。
「さつきさん!泣いてるのか⁉女泣かせて何やってるんだよ財部!」
「………………」
「………………」
絶妙なタイミングで、慌てて部屋に入ってきた広瀬さんに思わず笑ってしまった。
「違……大丈夫、だから」
「本当か?財部に何もされなかった?」
「何もって何をするんだよ人聞きの悪い」
「じゃあなんで泣いているんだ」
なんか言い合ってるふたりを見ながら笑みが止まらなかった。
(留学、できるんだ)
良かった。本当に良かった。
「広瀬さん、本当に大丈夫。ちょっとほっとしただけ。気が緩んだみたい」
広瀬さんはよく分からないといった表情で首を傾げたけれど、その顔を見ていたら益々安心して。
「……良かった……良かったよう広瀬さん……」
「な、なんで泣くの」
肩口に額を押し付けるとなんか酷く焦ってたけど、押し退けるような事はせず好きにさせてくれた。
「何か良い事でもあった?」
「……あった。すごく良い事。でも教えてあげない」
そう答えれば小さく笑ったような空気が伝わる。
大丈夫かと聞かれたので肯定して顔を上げたら、
「秋山さん」
襖に手をかけたままの秋山さんが廊下に突っ立っていた。
おかえりと言葉を継ごうとした時、
「さつき、泣いているのか」
「え?」
「女泣かせて広瀬お前何やってるんだよ」
「ええええ!俺かよ!」
今まで黙って見ていた財部さんが後ろで爆笑していた。
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