35:thinking too much




昨日の夜は竹下さんも財部さんもそのまま麻布の家に泊った。
ふたりとも東京に帰る所があるのにと思わないでもなかったけれど、家で飲み直すとか私が知らない内にそういう話になったみたい。
「さつき、付き合わなくていい。お前も疲れただろうし、まだ本調子でもないだろう。今日は休め」
肴でもいるかなあと考えていたら秋山さんにそう釘を刺されてしまった。
久しぶりに随分お酒も飲んで正直なところ疲れたしめんどくさいなとは思っていたから、その言葉に甘えてそのまま寝たのだけれど。

「うわー」

朝起きたら居間には雑魚寝の連中が……
しかも部屋が酒臭い。どれだけ飲んだんだ。
部屋を占領している図体の周りに転がっている洗いものをひょいひょい回収した後、雨戸を開けて空気を入れ替える。
静かに開けたつもりでもある程度の音がして、でも誰ひとり起きるような気配がない。

(この人たち暫く起きそうにないな)

本当にどれだけ、何時まで飲んでいたんだろう。
きっと朝ご飯もいらない位で、もしかしたらお昼も辛いんじゃないかな。
竹下さんと財部さんは確か今日の昼過ぎに帰ると言っていたからちょっと頑張ってご飯でも作ろうかと思っていたのだけど、この様子だとどうだろう。
現代なら作り置きもできるけど、冷蔵庫がないここではそれができないのが辛い。
でも作ったら作ったで食べてもらえるかなとも思うし、食べるのが無理なら持って帰ってもらってもいいかな。


「おはよう」

台所で作業をしていたら後ろから声を掛けられた。
「広瀬さん、おはよ」
見れば顔を洗ってきたのか、広瀬さんの手には手拭いがある。
もしかして他の人ももう起きてるのかな。

「あいつらはまだ当分起きないと思う。それより昨日は竹下に随分飲まされていたみたいだけど大丈夫か」
「うん。でも少し飲み過ぎたかな。勢いで変な話もしてしまってすいません……」
「はは。外であまり飲み過ぎない方がいいかもなぁ」
「き、気をつけます……」

でも自分でも不思議だったのだ。
あんな黒歴史、今までどれだけ飲んでも親友以外に話した事なんてなかったのに。

「本当に気が緩んだのかな」
「昨日もそんな事言っていたな」
「え?」
ふと顔を上げる。
「気が緩む、か。何か安心するような事でもあった?」

あーそりゃ気になりますよね。
広瀬さんは知りたそうな雰囲気を纏っていたけれど、やっぱり昨日と同じように内緒とだけ告げて私は笑った。
今話さなくてもその内分かる事だし。
「気になるなあ」
とか何とか言うもののあまり突っ込むつもりもなかったのか、広瀬さんはそのままお茶を飲もうとしていたのだけれど。

「そう言えば広瀬さん、朝ご飯」
「あるなら食いたい。あいつらは酒飲んでるけど俺は飲めないから茶だけなんだよ、酷いよなあ。夜通しは結構腹減るし」
やっぱり何か食べるものを作ったら良かった。
すぐに食べられそうなものあるかなと水屋箪笥を覗けばバスケットに無造作に突っ込んであるパン。
「…………」
「俺たちだけじゃこうなるよ」
「簡単なものしかできないけど」
というか広瀬さん、これを食べたら良かったのでは。

苦笑いした広瀬さんにはスライスしたパンを挟んだ網を渡し、パンを炙ってもらっている間に卵焼き器でスクランブルエッグを作る。
少し焦げ目のついたパンに胡瓜の薄切り、その上に卵を広げてサンドして半分に切ったものを渡せば、本当にお腹が空いていたみたいであっという間に平らげられてしまった。
「あー……美味い」
ホント、この人は通常運転だ。

「広瀬さん、お午餐多めに作ろうと思ってるんだけど、あの人たち大丈夫かな。二日酔いとか……竹下さんと財部さんそういうの平気?」
「平気平気。起きたらみんなけろっとしてるよ。何作るの?できる事があるなら手伝うけど」
その一言にポカンとして広瀬さんの顔を見つめてしまう。
「五人分、ひとりで作るのは大変だろう」
にかっと笑うこの人は本当に通常運転だった。




広瀬の提案にさつきはきょとんとしたものの、一呼吸置いて「助かります」と笑った。
以前ならきっと「大丈夫だから」と断られただろう。そう思うと関係性はかなり進歩したと感じる。

「じゃあこれお願いします。素揚げだからこのまま揚げるだけ」

切った野菜が入ったザルと菜箸を渡されて広瀬はさつきの隣に立った。
胡瓜が軽快に薄切りされていくのを見ながら「何作るの」と問えば、
「ご飯とお味噌汁、鶏と梅肉のみぞれ煮、野菜の揚げ出し、さやえんどうの卵とじ、胡瓜の酢の物、豆腐の和風あんかけ……足りる?」
確かにいつもよりも品数が多い。多分もうひとつ机を出さないといけない。

揚げた野菜を出汁に漬けてしまえば手伝う事はなくなってしまったけれど、広瀬はその場を去るでもなくさつきの隣で料理が出来上がっていく様を見ながらあれこれと話を続けた。
今までどういう所に転勤になってどういう仕事をしていたのかとか、航海でハワイや南洋に行ったのだとか。

「ハワイ!いいなあ……楽しいよねえハワイ」
「!行った事があるのか」
「え、うん。ハワイとかグアムは割とポピュラーな海外旅行先だと思うよ」

今とさつきのいた時代では海外の様子も随分と違うようで、つい話し込んでしまう。
と言ってもさつきの話はあまり聞かない方がいいと思うから、こちらが見て来た話が中心になるのだけれど。

「ロシアに行くにはどの位時間が掛かるの?」
ふと思い出したように零された言葉に広瀬は首を傾げる。
「二ヶ月位かなあ」
「二ヶ月!そっか、船で行くんだもんね……うわあ、二ヶ月かあ」
欧州に行くのに大体その位の日数は掛かる。それが普通なのだが。

「普通っスか」
「さつきさんの所だと」
「聞かない方がいいと思うけど…新潟からウラジオストクまでなら一時間半位、東京からモスクワまでなら十時間位じゃないかな」
聞かない方が良かった。

「だから言ったのに。日本人も沢山いるの?」
いる事はいるけれども、多いというほどではないと思う。やはり英仏独が主流だろうし。
「ふーん……江戸時代はロシアはそこそこ仲の良い国だったのにね」
「え?」
「え?いや、ほら、漂流民の保護とかで」
聞いてみれば大黒屋光太夫の話だった。
広瀬もその話は知っていたけれども、そのまま先を促してみればさつきは江戸時代に海流の関係で漂流した漁民の話をしだした。

ロシアが鎖国する日本と貿易したがっていた事、それ目的で漂流民を保護して日本国学校の教師にしていた事。
ただ大黒屋光太夫は時の女帝に直談判して帰国した事。
高田屋嘉兵衛とゴローニン事件の事。
「ロシアはそれまでの付き合いもあったから日本の門戸の叩き方を知ってたけど、アメリカはいきなり来てドア蹴り破って鎖国止めさせた感じだよねえ」
笑って料理を作りながらそんな事を言う。

広瀬は驚いた。
前話した時は「勉強はしたけど殆ど忘れた」なんて言っていたけれども、そんな風にはとても見えない。

「大黒屋光太夫だとソフィアの歌≠ニかいいよねえ。広瀬さんはロシアの歌なんかは知ってる?」
聞かれる事の方向について行けなくて生返事を返す。
「私も少ししか知らないけど、カリンカ≠ニか黒い瞳≠ニか。あとアムール河の波≠セなあ」
と、酢の物に入れる油揚げを炙りながら軽い調子で口遊む。

「見よアムールに波白く、だよ。かっこいいよね」
「日本語?」
「海外の名曲は結構翻訳されてて、私は中学の合唱コンクールで歌ったよ。ロシアの曲は物悲しい感じのが多いね。なんでだろう」
受け答えしながらさつきは炙った油揚げを短冊に切っている。

「君は本当に不思議だな」
「え」
「勉強した事は殆ど忘れたなんて言ってもそれだけ覚えていれば大したもんだし……そんなのは氷山の一角だろう。昨日聞いた働きぶりだって本当に感心する。家に縛り付けておくのはもったいないなあ」
「えええ?いきなりどうしたの?」

慌てたように言葉を繋げたさつきに広瀬は口角を上げた。
別にいきなりという訳でもない。
家の事にしても何も知らないところからよくやってくれているというのは秋山共々思っていた事であるし、昨日の話を聞いて今までのさつきの態度に合点がいっただけだ。
「買被り過ぎですって……褒めても何も出ませんよ……」
その言い草に広瀬は声を上げて笑った。

「前から思ってたんだけど広瀬さん、その気もないのに女の人をすごく褒めたり、優しくし過ぎたり、親切にし過ぎない方がいいよ」

どういう事だろう。
突然の忠告じみた言葉に酢の物の仕上げに掛かっているさつきの手許から視線を上げた。
隣の顔を見下ろす。

「誤解と勘違いの元だよ。ここと私がいた所では女の人の受け取り方が違うかもしれないけど」

そこまで言われて広瀬はどきりとした。思い当たる節がある。
それが表情に出たのか、目ざとく気付いたさつきは顔を上げて、ニヤニヤしながら広瀬を肘でつついてきた。

「あー……横須賀の料亭でさ、芸者が妙に馴れ馴れしくなったり女将に『変な間違いだけはするな』と念押しされたり、それってもしかして」
「それはちょっと広瀬さんが鈍いかな……相手の人絶対勘違いしてるよ。『広瀬さん私の事好きに違いない』って」
夜道で刺されないように気を付けてね、と物騒な言葉を付け加えてさつきがけらけら笑う。
言い返せないところが辛い。

そして黙り込んだところでいきなり始まった歌声に思わず咳き込んでしまった。
耳元でお前が好きだと言った広瀬に騙され、とか、小粋に私を誘ったあんな男を今更許せるかとか。
何その歌。広瀬に騙されってどういう事だ。

「何って……、ぴったりじゃない?」
その芸者さんの心情多分こんな感じですよ、となんとも恐ろしい憶測をのたまった。

「ぴったりって心外な……あのなさつきさん、」
「元はヒロシです」
「いやいやそうじゃなくて」
「題はそんなヒロシに騙されて≠ナすよ」
突っ込もうと口を開き掛けた時、背後から財部の笑い声が飛び込んで来た。


「じゃあ今のはそんな広瀬に騙されて≠ゥ」
「ですねー」
「財部……お前な」
いつからいたんだこの男。

「悪い、水を飲みに来たんだが話聞いてると入れなくなった。如月さんは広瀬をからかうのが上手いな」
「やだなあ、からかうだなんて人聞きの悪い」
「昨日もそうだったじゃないか」
「そうでしたっけ?」

突然入ってきた親友と蟠りなさそうに話しているさつきの様子に広瀬はホッとした。
昨日家に来た財部が席を外して欲しいと言った時、さつきの顔は随分と強張っていた。
だからその時は内心どうなる事かと思っていたのだ。席は外したけれども。
でも昨夜も打ち解けてはいたようだし、酒の入っていない状態でこの様子なら問題はなさそうだ。
しかし。

(ホッとした、気が緩む、なぁ…)

昨日財部と話した直後に先程と同じ言葉を彼女は言っていた。
それを考えると自分が彼らをふたりにした時の会話の中にさつきにそう思わせる何かがあったのだろう。

顔を合わせたのが片手の指以下の回数である財部がどんな話をすればそうなるのかと思う。
それにさつきが内緒の一点張りである事だって気になる。気にはなるが。

(悪い事ではないようだし、いいか)

持ち前の楽観主義で広瀬は割り切った。
それに元々話したくなければ話さなくていいと彼女に言ったのは自分たちだ。
必要ならばきっと向こうから話しに来る。

そこまで思ったところで広瀬は目前のふたりの間に流れる微妙な空気に気付いた。
どうしたのだろう。

「えっと、もう一回言って貰えます?」
「だから、俺の舅は山本権兵衛だ」
「…………」

一体何の話をしていたのか何が問題であったのか、さつきが「山本権兵衛?」「え?でも」「嘘でしょ」とかなんとか口の中でブツブツ言っている。

(どうしたんだよ)
(どうしたも何も、舅も海軍かと聞かれたから名前を出しただけなんだが)

「さつきさん、もしかして山本さんを知っているのか?」
広瀬はふと思った事を口にしてみただけなのだが。

「……知っ……てる…………この前新聞で読んだ……」

(嘘か)
(嘘だな)

そりゃあ確かに新聞に名前が載る人ではあるけれど。

「未来でも有名な人なのか」

財部の一言にさつきの顔が盛大に曇ってしまった。

「……私が知ってるというだけで察して……」
それはどこか諦めの混じる軽い口調だった。
見ればさつきの腕には鳥肌が立っていて、広瀬には少し過剰反応のように思えたのだけれども。

「ごめん、海軍の偉い人って、まさかそんなにすごい人だとは思ってなくて、ちょっとびっくりして」
どうやら親友は広瀬(や本人や周り)が思っているよりも随分偉(くなるらし)い人物を舅にしたようで。

「お願い財部さん、私の事は話さないで下さい。お願いします」

さつきが深く頭を下げたのを目の前にして、驚いた表情の財部がこちらに視線を投げてきた。そんな目で見られてもこちらだって驚いているというのに。

「もう面倒事を起こしたくないんです。それに山本権兵衛だなんて、そんな歴史に影響力がありそうな人が近くにいるなんて」

(れ、歴史に影響力って)

確かに当代の軍務局長は剛腕果断な人物ではあるけれど、そこまで?
きっと同じ思いを抱いたに違いない財部の顔は軽く引き攣っていたけれど、

「他言しないと広瀬たちと約束しているし、俺も元より誰かに話すつもりはない。安心してくれていい」

親友が伝えた言葉にホッとしたのかさつきは微笑したが、それもすぐに苦笑に変わった。

「素性がばれてどこかに行くって言っても私ここを出たら行き先もないし……今の状態じゃ本当に何もできないって今回よく分かった。元の世界ではひとりで何でもしてたけど、ここじゃ助けてもらわないと何ひとつできない」
「でもひとりでしてた≠チて言うのも、本当はひとりでしてたつもり≠セったんだろうな」

(こういう子なんだよなあ)
そう思い財部を見れば親友は微妙な表情を浮かべていて、広瀬としては苦笑いを禁じ得なかった。

財部からすればそうだろう。
自分の行動が今回の騒動を招いた一因になったと随分気にしている事は広瀬も知っている。
財部の謝罪をさつきも受け入れ、一応の解決を見たとはいえ昨日の今日だ。気持ちとしてはまだ彼女に負い目があるだろう。
その思いが財部の表情には出ていた。

(こういう状態で立て続けに本人が持っている一番良い所を見せられるのは、)
罪悪感がどんどん更新されていくようで結構きつい。
(あまり気にしすぎないで欲しいんだが)
その方が互いの為だろうし。

しかし広瀬がやきもきするのを余所に、親友はいつも通りに見える様子でさつきと話をしていた。

「知らない所で助けられていたり、それに気付いていない事は誰にだってあるもんだろう。誰かに何かあった時、君が同じ事をしてやればいいんだ」
「そんなものですか?」
顔を上げて問い返したさつきに「そんなもんだろう」と財部が頷く。

「如月さん、君は何でも自分だけでやろうとする癖でもあるんじゃないか?昨日話していた働き方もそうだし、ここに来てからできる事は何でもきちんとやろうと思っていたと言っていただろう」
「え?はい……」
「ここと君の世界の環境が違う事は知っているのだから、できない事があっても広瀬たちは何も言わない。それよりそんな中でもなんとかしてくれようとしている気持ちの方が嬉しい。でもな、何もかもひとりでする必要なんてないんだよ。できる所までして誰かに助けを請うのも、誰かを頼るのも恥ずかしい事じゃない」
「……」
「ましてや違う世界の人間というのなら尚更だ。できない事は無理せず助けてもらえ。それに広瀬たちも頼られるのは迷惑ではないと言っているのだし。遠慮なくもう少し息抜いて、気楽にしてりゃいいんだよ」
「…………」
「あまり思い詰めるな」
「……ハイ……」

こいつ本当に片手の指(以下ry



広瀬は自分のやきもきが杞憂過ぎるほど杞憂に思えてきて小さく笑ってしまった。
(この分なら大丈夫そうだな)
財部の中のさつきの位置は恐らく微妙なものだと広瀬は思う。
今回の騒ぎついても、さつきが自分たちが知りえない海軍の大先輩の情報を握っている事についても。
それでも自分から見てこれだけ彼女に普通に接する事ができるなら、特に問題はなさそうだと感じる。

それに昨日といい今日といい、財部と話す事でさつきは気持ちを随分と軽くしたようだった。
相手が自分でも秋山でもないという点に多少嫉妬というか……
複雑な気がしないでもないが、第三者が自分たちの事情を知った上で話をしているのが良かったのかもしれない。
秋山によると竹下の言葉にも素直に耳を傾けていたようであるし……

(ふたりに話したのは正解だったな)

心配事はまだ残っているけれど、今回の事はほぼ解決に向かっている事実に広瀬の気持ちも少し軽くなった。



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thinking too much:考えすぎ
大黒屋光太夫の話は明治20年代中頃には子供向けの書籍等も出ていて、知る人ぞ知るという感じではなかったようです。なのでロシア関係の勉強をしていた人だったら知ってたかなと思って。『アムール河の波』は日露戦争最中に作られた曲。『そんなヒロシに騙されて』はサザンで愛が横須賀に消えていく歌ですw

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