準備は終わったけどお午餐にするにはまだ早い。
しかもあの人たちは遅くまで飲んでいたみたいだから、広瀬さんには気の毒だけど少し遅めの方がいいかもしれない。確かに財部さんはけろっとしていたけど……
まだ顔を見ていない秋山さんと竹下さんは咽喉が渇いているんじゃないかな。
そう思ってお茶を持って行ったのだけど、ふたりは既に起きて身支度をしているみたいで居間には誰もいなかった。
「お茶置いときまーす。飲んでねー」
音が聞こえる水場の方に声を掛ければ何ヶ所かから返事が飛んでくる。それを聞いて私は一度自分の部屋に戻った。
「はー、驚いた」
部屋についた途端、吐き出すような声が出た。
何に驚いたって財部さんのお義父さんだよ!
山本権兵衛?嘘でしょ⁉
ま、マジかー……。
それ以外、それ以上の感想があったら教えて欲しい。
新聞で見た事がある、うん、それは嘘じゃない。
なんと言っても今は明治三十年で、歴史上の人物として偉人として知られている人と私は今同時代に生きている。
そりゃ新聞を見ていれば今のナントカ省の大臣とか国のお偉いさんとか……歴史の教科書や史料集で名前や写真を見た事ある人ばっかりだよ。今の首相?松方正義だよ!いたねそんな人!
でもいくらそんな人たちと同じまちで同じ空気を吸っていると言ってもね。
関わるのは新聞を広げた時だけで実際に会う事なんてまずないし、ナマで顔を見る機会があるかもなんて考えた事だってない。
そうだな、テレビで芸能人を見るのと同じ位の感覚。
つまり自分の実生活とは無関係の違う世界の人たち。
だからそんな人物がこんなに身近な所にいるなんて思いもしなかった。
それを言うなら私が名前を知っていた(ほぼ名前だけだったけど)時点で秋山さんと広瀬さんも歴史的には結構な有名人なのだろうとは思うのだけど。
山本権兵衛かあ。
私が普通に知っている位だから本当にかなりの有名人だ。
有名も何も教科書で何度か眺めた肩書は総理大臣だった。大正の初めと……確か終わりの方の。
でもそれよりは小説で読んで得た「海軍の人」というイメージの方が強い。と言うかそれしかないよ。
(えーと、何だっけ……海軍の父?)
「○○の父」なんてその組織そのものとか組織の基礎を作り上げた功績者にしか冠されないよね。
そういう人が財部さんの義父で、秋山さんや広瀬さんたちの組織のかなりのお偉いさんって事か。
(以前財部さんは広瀬さんと秋山さんをエリートコースに乗り掛かってるって言ってたけど)
広瀬さんは財部さんを「親友」「いい奴」としか言っていなかったけど、彼こそエリートコースに乗っている人だろう。
明治時代の結婚に恋愛結婚の感じは薄いし、個人の感情より家や男社会の問題というイメージの方が強い。
話した感じでは財部さんと山本権兵衛さんの立場には開きがあるようだし、それを思うと財部さんの縁談は向こうから持ち掛けられたものなんだろう。
普通に考えて下から持ち出せるような話ではないと思う。
(という事は、よ)
財部さん自身が娘を嫁がせてもいいと思われるほど山本さんに見込まれたって訳で。
(財部さん、マジもんのエリートだわ、あの人)
海軍の人は婚姻関係で総理大臣の親族になる可能性があるのか。
そう思うと広瀬さんや秋山さんだってその可能性があるって事で、海軍軍人は社会一般から見たらかなりのエリートなのかもしれない。
海軍の人は結婚するのに許可がいるとか、素性の知れない人間との結婚は許されないと財部さんは言ってたけど、それならそうだろうなと納得してしまった。
国防に関わる人たちだから国家機密の問題なんかもあるのだろうし、おかしな事はできないというのもあるのだろうけど。
事情を知れば知るほど自分はやっぱり出て行くべきだったのではという思いが頭を過る。
同居人ふたりが「出て行くな」と言ってくれたから、もうその事は考えないようにしようと思っていたのだけれど。
溜息が出た。
そりゃあどこの馬の骨かも分からない若い女が同じ家にいたら迷惑だわ……
財部さんもそうだけど、広瀬さんのお義姉さんには本当に気の毒な事をしてしまったと思う。
義理とはいえ家族なんだし、仲も良いみたいだし、心配も一際だっただろう。
財部さんの話を聞いてあちらの言い分は正論過ぎるほど正論で、本当に広瀬さんの事を考えての行動だったって余計によく分かった。
色々あったけどあのトラブルは私の特殊な事情から生まれた事故みたいなもので、あちらには本当に気の毒だったとしか言いようがない。誰も悪くない。多分。
広瀬さん、責めるような感じでお義姉さんに話してなかったらいいんだけど。
「はァ……」
財部さんは「ふたりは頼られるのは迷惑じゃない」と言ってくれたし、あのふたりもそう思ってくれているみたい。
(でもなあ)
そう思ってくれるのは本当に嬉しいけど、自分でもふたりに頼るのを最小限に抑えられるような、できたら頼らないでやっていけるような方策を考えるべきじゃない?
(……本当に現代に帰れるのかどうか、分からないのだし)
そう思うとぞっとするけど。
(でもそうなら尚更いつまでも頼っていられない)
あー……私、一体何の為にここに来たんだろう。
明治時代にやって来た理由。
今まで何度も考えたけど、答えらしきものなんて一度も思い浮かばなかった。
だからこのタイムスリップは単なる事故だったのかなって。
……単なる事故、ねえ……?
(広瀬さんの留学を後押しする為に呼ばれたのかも、か)
昨日財部さんに言われた言葉が正解かどうかなんて分からない。でももしそれが本当だったとしたら。
(私はそろそろお役御免って事だよね)
鞄からスマホを取り出して電源を入れる。
相変わらず通話と通信は無理だけどそれ以外なら普通に使えるし、電源は減る気配もない。
どう考えてもこれだけはおかしくて、でももしかしてこれ、広瀬さんに正式に留学の内示が下ったら減り始めたりするんじゃないかなー……なんて。
……。
…………。
いくらなんでもファンタジーか。
(今ここにいる事自体がファンタジーだしなあ)
「……………」
「……さつき」
「うわあっ‼」
考えに沈んでいた時に名前を呼ばれて大声が口から飛び出した。
「あ、あきやまさん、びっくりしたなあもう」
「俺の方が驚いたわ。いや、そうではなくて、大丈夫か?居間にいなかったからもしかしてまだ具合が」
過!保!護!
そう思って小さく笑ってしまった。
「大丈夫、少し考え事してただけ。私元の世界に戻れるのかな、なんでここに来たんだろうって」
「何か分かったのか?……心当たりとか」
「ぜーんぜん。でも財部さんは留学の後押ししに来たんじゃないかって」
そう伝えれば秋山さんは少し驚いたような顔で、そうかとだけ言った。
秋山さんからはそれ以上の言葉はなかったけれど、きっと広瀬さんの事だと分かったと思う。
とは言えこの文脈だと広瀬さんしかいないんだけど。
突っ込まれなかったから私もこの話はもうしない。あまり話すと襤褸が出ちゃいそうだし。
「後ね、もう少し自分で何かできるようになった方がいいかなって思ったの。もし財部さんの予測が当たってて私のここでの役割≠ェ終わっても、本当に元の世界に帰れるかどうかって分からないじゃない?ふたりがいなくなったら頼れる人だっていなくなる訳だし。……あ」
「ん?」
怪訝な表情でこちらを見てくる秋山さんを見て思い出した。
本当にすっかり忘れていた事がある。
「秋山さん、清流亭の颯助さんと八重さんがね、居場所がなくなるなら家に来てくれたらいい、部屋はあるからって言ってくれた。嫌でなければお店を手伝ってくれたら嬉しいって」
「そうなのか」
もしかしたら社交辞令かもしれない。いや、普通の感覚で言えば社交辞令だと思う。
でも昨日の様子は、颯助さんと八重さんは軽い感じで口にしていたけれど社交辞令ってそんな感じじゃなかった。
真面目な話をちょっと冗談で紛らわすとか、そんな感じの口調で。
「……あのさ、ここではそんな風なのが普通?みんなそうなの?」
嬉しいけど、親しくしていると言っても私と八重さんたちは所詮ご近所さん止まりの赤の他人だ。
しかもあの界隈の人たちは私がこの世界に急に現れた事を知っている。
今ではそんな噂があるという程度になっているみたいだけど、人力車とぶつかって倒れていた時の騒動は殆どの人が知っている。
客観的に考えて……って客観的に見なくても私は本当に怪しさ満載だ。
そんな私の同居人が秋山さんと広瀬さんだってのは大きくて、ふたりとも国家公務員という固い職業だから保証人としてはこれ以上の人はきっといない。
その上そのふたりの人となりを八重さんたちも知っているし。
それでも、「家に来れば?」なんて、そんな簡単に言える事じゃないと思う。
それに他人を家に上げるのは本当は怖い事だ。おいそれと言う事じゃない。
そこまでを言葉に乗せると、黙って聞いていた秋山さんは笑い出した。
「俺たちは身分保障的な意味でも確かにお前の後ろ盾になっているだろう。でもな、俺たちどうこうではないんだ」
分かるかと言われて、私は頭を左右した。
だってふたりがいての私の立場だと思うし、それ以外にはないと思う。
待合茶屋の女将さんだってふたりを信用して私を預ってくれたんだし。つまりはそういう事だろう。
「確かにそうだ。だがそれは単なる入り口で、そこからみんなさつきがどんな人間かを見ているんだ。結局はお前自身の問題なんだよ」
「如月さつきを見て悪くないから助けてやろうと思うんだ。竹下も財部もそうだろう。広瀬がいくら頼んでも本人がイマイチなら協力なんかしない。八重さんだって同じだ。それにお前、初めに人力車から颯太たちを助けたんだろう」
そうだった。
八重さんたちや清流庵に来る人たちに受け入れられたのはあの騒ぎがあってから。
「地域の子供を助けて説教までして、今じゃ勉強見て話聞かせて兄弟連れてきても嫌な顔せずに世話してやってる。誰とどこに行った、何を食べた、どんな話をした……子供はそういう事は全部親に話すんだよ。そこで何らかの疑問を持ったら親は八重さんにさつきの事を聞く。そこから八重さんの見た『如月さつき』が広がっていく。前に一度聞いたがさつきの印象は結構いいぞ」
え?前にっていつの間に。
聞いてみれば、私が清流庵で財部さんと言い争った時の話だった。
迎えに来てくれたふたりがそういう話を八重さんから聞いていたみたい。
秋山さんが言うには、八重さんの場合は私が颯太くんを助けた事とその後の対応が私に対する大きな判断基準になっているって。
そこから子供を含めた付き合いをしても大丈夫な人間だと判断されているって。
確かにあの後の私の対応がまずければ、今のように密に付き合うような事はなかったと思う。
「それに子供の勉強を見てやれるのが大きいな。その上外国の話をしているし、財部と揉めた時は英語だったんだろう?さつきの所では違うのかもしれないが、ここでは外国に行ける人間は一握りだ。普段の生活で気軽に触れられるような世界ではない」
「容姿や服装の事もあるし、お前は帰国子女で、どこかで教師してたのを辞めてここに来たんだろうというのが、あの辺りで出ている噂だ」
ちょっと待って。
「は?そんな話聞いた事ありませんけど⁉……なんでそんな話に」
教師?帰国子女?
私そんな大した事してないのに話が大袈裟過ぎる。
「大袈裟?いいや、そんな事はない。ここではそれだけお前が特殊なんだ。それがいい方に捉えられているなら、それだけあの界隈の人には受け入れられていると取っていい」
「あそこの人たちとは初めに俺たちを挟まずに知り合っているだろう?そこから色眼鏡なくさつきを見て付き合って、最終的に八重さんは家に来てもいいとまで言ってくれた。これが普通か?いや、ここでもそんなのは普通ではないな」
「さつきが自分で作り上げた人間関係だ。喜ぶべき事じゃないか」
おい?と覗き込むようにしてこちらの反応を伺ってきた秋山さんに笑い返しはしたけれど、多分それは随分いびつだったに違いない。
「大丈夫か」
「あー……秋山さん、泣いていい?ちょっと涙出そうなんですけど」
「え、おいおいおい」
この数日色んな事があり過ぎて、色んな言葉を貰い過ぎて完全に感情がキャパオーバーしている。
「みんな私の事買い被り過ぎだよ。家の事はできる事だけはきちんとやろうってそれだけで。清流庵の方は家以外の居場所を作ってくれるお礼みたいなもので」
俯きがちにそう答えれば、ぽすんと秋山さんの手が頭に乗る。
笑っててまるっきり子供扱いだけど全然嫌な気にならないのはなんでだろう。
「しかしさつきの言うように家に他人を住まわせるのは確かに大事だからな。先方には広瀬と挨拶に行く予定だから、その時にそれとなく聞いておこう」
社交辞令かもしれない。
しかしそこまで言ってくれた好意はそのまま自分への評価だと思って受け取っておけ。
「まあ、なんだな。いつまでもこの生活が続く訳ではないと分かってはいるんだが……実際にこういう話が出てくると寂しいもんだな」
(もう何なのこの人?泣かす気満々ですか?)
本当に涙出て来たよ……
「な、なんで泣くんだ」
「あっきー……泣かすような事言っといてなんで泣くとか言わないでよー今本当に涙腺緩いんだから……」
秋山さんの言う通りこの共同生活はずっとは続かない。
それどころか出口が見え掛かっているのが財部さんの言葉から分かってる。
終了するのは多分そう遠くない未来だ。
(寂しい、か)
本当にそうだ。私なんかは特にそう思うよ。
でもそう思っているのが自分だけじゃないっていうのがすごく嬉しい。
「秋山さんありがとう。そんな風に思ってくれるなんて思ってなかった」
「お前の中で俺はどれだけ冷たいんだよ」
憮然とした顔で不満を口にした秋山さんに私は思わず笑ってしまった。
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当時は第二次松方内閣です。大隈重信が外相で樺山資紀が内相。20211017120925