37:relax




「しかしさつきにとっては俺たちがいなくなった時にどうするかという問題が杞憂である事が一番なんだよな」
暫くの沈黙の後に秋山さんは「帰る手立てさえ分かればな」と呟いた。
本当にそうだ。
帰れるのなら、その手段が分かるのならこんなに悩みもしない。

「この前私のスマ……電話見たでしょう?」
「ああ」
「あれは電気を電話の中に貯めて動かしてるんだけど、いつもなら一日、二日で使えなくなる。充電せずに一週間使えるようなものじゃないの」

手許に置いていたスマホの画面を秋山さんに示す。

「なのにここに来てから全くバッテリー減っていないんだよね」
「ちょっと待て、広瀬を呼んでくる」




「じゃあ、さつきさんは俺たちの生活が一区切りついたら電話の電池?が減り始めていずれ帰れるんじゃないかって、そう考えているという事か」
広瀬さんに聞かれて私は頷いた。
「清流庵の辺りは行く度に様子を見てるけど気になる事も変な事もないし……それ位しか思い浮かばなくて」
実際自分の周囲にある異変はこのスマホ位しかない。

ただ思い返せば現代から明治時代に来た時は大型車に撥ねられたのだ。
意識を失って気がついたら麻布の家にいた。
「だったらまた死に掛けるような大事故に遭えば帰れるって事もあり……?……それもやだなあ」
「それは俺も嫌だな」
「確かに心臓に悪い。しかしな……手段が分からないというのは本当に……」

「困る」
「困るな」
「困りますよねえ」

「なんでそんなに他人事なんだ……」

「お、竹下。……と財部」
秋山さんも広瀬さんも長い時間戻って来ないから竹下さんと財部さんは様子を見に来たみたいだった。
「入っていいか?」
女の部屋に足を踏み入れる事に気を使ってくれたのだろう、財部さんに快諾して場所を空け、何の話をしていたのかを説明した。

「不可抗力でこちらに来たのなら、不可抗力で帰される可能性が高いというか。その可能性しか無いのでは?しかもそれ、タイミングというか何かの切欠があって、という感じを受けるし……疑問を持つような事も生じてきているのなら、尚更今無理に帰る方法を探らなくてもいいんじゃないか?」
「それよりものすごく今更な話題だな。帰る方法なんて今まで話した事なかったのか」

竹下さんの後に続いた財部さんの言葉に三人で思わず苦笑いした。
本当だ。清流庵の辺りを見には行ってもそれだけで、帰る方法なんて実際には雲を掴むような話でどうしようもなかったというのもある。
だけどそれ以上に慣れてきたとはいえ私がこの世界での生活に手一杯で、そんな話を持ち込めるような状態でなかったというのも正直な所。
余計な話は随分したけど、私の状態もそんな感じでふたりも忙しいから、なんとなく話題にするのを延ばし延ばしにしていた感じは否めない。

「昨日四人で話したんだが……さつきちゃんには厳しい言い方だけど、そもそも帰れるのかどうかが分からない。だから今は帰れなかった時の事を主に考えた方がいい。こいつらが留学しても当面は俺が東京にいるけど、海軍は転勤が多いからなあ」
「そこだよな。本当に頭が痛い。さつきさんひとりを置いて行くのは心配だし」
「あ、その事なんですけど」
私が続けようとしたのだけれど。
「俺の所にと言っても、山本さん家に来るんだよ。散歩がてらとか言って。家事ができるならいねを助けてくれたら嬉しいんだが、ちょっとなあ」
リスクが高いと財部さんが言葉を被せてしまった。

と言うか、いね?奥さんかな?家事手伝いか何かで財部さん家にいればいいって考えてくれてたって事?
「俺の兄の所もさつきさんの事情はある程度話してあるし納得してくれたから大丈夫とは思うが、何せ海軍士官の出入りが多いから」
いやいやいや。一体何の話。


(……おいさつき)
秋山さんに耳打ちされて聞けば、この人たちが朝方まで飲みながら話していたのは私の処遇についてだった。
(うわあ、私呑気に寝てたのに)
ちょっと凹む。でも私の状況を知っても私に害がない環境を探すのは本当に難しくて、お酒が入っていた事もあって話は堂々巡りになったって。

「その事なんだが、もしかしたら解決するかもしれない」
「何か心当たりがあったか?」
ああだこうだと話が続きそうな所に秋山さんが横から口を挟めば、広瀬さんが身を乗り出してきた。

「あ、あのね、八重さんが行く所がないなら来てくれていいって昨日言ってくれて」
「八重さんが?」
「その話は俺もさっき聞いたんだ。向こうには近い内に礼に行くだろう。その時にそれとなく真意を確かめてみようと思っている」
「そうか。清流庵は思い浮かばなかったが……あそこなら。挨拶に行く時なら渡りに船か」
「八重さん?」
「ああ、竹下は知らなかったな。如月さんが懇意にしている和菓子屋のおかみだ」
「もし住むとなったら色々と事情を話す必要があると思うが、それは大丈夫なのか?」
「竹下さん、八重さんや清流庵の界隈の人たちは私が突然ここに現れたって知ってるの」
「そうなのか」

今はそんな噂があるという位になってるみたいだし、そんな突飛な話信じてるかと言われたら多分殆どの人が信じていないと思うけど。
でも見た目からして怪しいばかりの私を八重さんたちが心から良くしてくれているのは確かだ。
「それはさつきさんがそれだけの事をしてきているからだな」
(広瀬さんもそう言ってくれるんだ)
嬉しくてちょっと笑ってしまった。

「秋山さんが言うには私はそれなりには信用されてるみたいだし、私も今まで清流庵の人たちと付き合ってきてそんな変な感じはしてない。だから大丈夫だとは思うんだけど……」

でも怖い事は怖い。
私にとっては死活問題になりかねないから、自分のインスピレーションだけで判断していいのかという思いもあるし。
清流庵にお世話になる事になれば、全てを打ち明ける事はないにせよ竹下さんの言う通りある程度は本当の事を話す必要がある。
それを信じる信じないは別として、話した時にどう思われるのかなという不安はもちろんある訳で。
私自身いきなりそんな話を聞かされても相手を頭が残念な人として扱ってしまいそうだし。

「その辺りの確認は俺と広瀬に任せてくれたらいい」
「まあ、俺も清流庵の夫婦は大丈夫だろうとは思うよ」

「忙しいのに」
ごめんなさいと繋ごうとして、「如月さん」、財部さんに止められてしまった。
(あ、頼ってもいい、できない事は無理せず助けてもらえ、だっけ)

「……ありがとう……よろしくお願いします」





「さつきちゃん、お代りもらえる?」
「はーい」

六合(!)のご飯が入ったお櫃の底がちらちらと見えかけております。
「どうかしたか」
広瀬さん。どうかしたも何も。
皆さんよく食べますね……本当に飲んだくれて寝てた人たちなんだろうか。
最早乾いた笑いしか出ませんよ。
そう言えばお茶碗を受け取った竹下さんが目を細めた。

「これだけ集まればその位すぐなくなる。それに前にご馳走になったのも美味かったしなあ。そりゃ早く帰って家でメシ食おうと思うよ。秋山、いつもこんなのなのか?」
「今日は少し豪勢だな」
「品数が少し多いですね。いつもはもう少し手抜きです」
返事をしたところで笑い声が起った。

「海老の……あれが美味かった。あと牛蒡の甘辛」

いきなりの財部さんの話に何の事だろうと思う。
この人私が作ったご飯食べた事あったっけ?
考え込んでいたら、「あー……弁当か」と広瀬さんが思い出したように言葉を挟んだ。

「ああ。あの弁当の中を見て、俺は家に若い女連れ込んでるなと思ったんだ」

噎せた。
ゲホゲホ言ってる私見て財部さん笑ってるし……

(本当にお弁当から足がついたんだな)
しかしおかずを見て「若い女連れ込んでる」ってどう考えたらそうなるんだろう。
結構な洞察力だと思うんだけど。
でも今となってはそれも笑い話になっているから良かったんだ。
禍福は糾える縄の如しという言葉があるけれど、本当にそうかもしれない。

「しかし向こうでも忙しかったんだろう?料理する暇なんてあったのか」
そう尋ねてくる秋山さんに「まあそうなんだけどね」と返したけれど、本当に忙しかったのはこの一、二年だし、休みの日は纏めて作り置きもしてた。
何と言っても冷蔵庫とかオーブンレンジとか、長期保存や時短できる文明の利器があったもんね。
でもさあ……

「ここと向こうとでは台所回りとか調理器具が違い過ぎて。調味料も少ないし」
味の素ないし、オイスターソースとかコチュジャンとかもないし。
せめてインスタントの出汁系のものがあれば料理の幅も随分広がるのに。
「あっちだったらもう少し色んなものを作れるんだけど」

「いや、お前赤や白のソースなんかを作ってるじゃないか。あれ結構美味いぞ」
ケチャップとマヨネーズの事かな。
「食べた事がない物も洋食も結構出てくるし。家でプリンが出てきたのは本当に驚いたよ」
プリンね、確かに驚かれましたね。

「さつきさんがここに来た当初は酷かったのになあ」
「あー、あれは確かに……朝っぱらから台所から派手な音が聞こえてきて、本当に大丈夫かと思った」
「ふたりとも笑ってるけど、あれはあれで必死だったんだから……」
慣れとかそういう以前の問題で、家事どころか飲料水がどれかさえ分からなかったんだし。
本当に千代さんがいなかったらどうなっていた事か。

「如月さん、本当にこことは随分違う世界にいたんだな」
確かに随分違うよね。
私だって日本語が通じるってだけで日常があまりに違い過ぎて戸惑いしかなかったし。
本当に分からない事しかなかった。

「ならさつきちゃんはそんな所から今の状態までもってきたって事?」
「そんな中で家事覚えて、なおかつ食事の工夫までしていたのか」
「え?いやいやいや工夫っていうか自分が作れる物と食べたい物を追求したら、そうせざるを得なかっただけで。家事だって同じですよ」
できる事がないからやらざるを得なかっただけで。

何故か酷く感心している財部さんと竹下さんにすごく焦った。
だってこのふたり、私にできる女フィルターを掛けつつあるぞ……
(うわあああちょっと待って)
私そんないいもんじゃないしできた人でもない。
今は自分のすごく良い面ばかりを出してるという自覚もある。
しかも「できる女」は実際には「頑張れば人並みにはできる女」間違いだ。

「私ひとりでいたらすっごく自堕落ですよ⁉洗濯物とか溜めて一度にやるし、しんどかったら顔洗っただけで寝て起きたら朝なんて事もあるし、ご飯だって作り置きがなくなったらフツーに抜くし外食するし酷い時は十秒チャージだし」
「襖は足で開けて広瀬さんに怒られるわ秋山さんには男みたいとか言われるわ清流庵では男だと思われてた上にこのふたりのヒモだと思われてるわ女らしさからは程遠いんです!ふたりの女に対する夢を壊しまくってるんです!良い方に誤解しないで下さい!」

一気に吐き出せば一瞬その場がシーンとして、……爆笑された。
秋山さんと広瀬さんは笑い転げてるし、財部さんと竹下さんもげらげら大笑いしてる。
(……ちょっと!)

「『良い方に誤解するな』なんて……ふはっ……、如月さん、それは自分で言う事じゃないぞ」
「本当に楽しそうに暮らしてるな〜広瀬たちが羨ましいわ……さつきちゃん?」
「は、はい?」
「面白いしメシ美味いし、こっちに来て短期間でここまでやってきた根性もいい。欠点を曝け出せる気取らなさもいいし、人の話を聞く耳も持ってる」
「はぁ」

そこですっと手を取られた。
それがあまりに自然な動作でなされるがままだったんだけど。

「広瀬と秋山なんて捨てて俺の所に来ない?俺君みたいな子すごく好きだわ。ちょっと考えてみてよ」
……は?
「……え?えええ?」

「「真面目に口説くな」」

広瀬さんが財部さんと同時に突っ込んだかと思うや、スパーンと竹下さんの頭をひっぱたいた。
「あっはは、は、……あーはっはっはっはっは!」
なんか秋山さん畳に突っ伏して大笑いしてるし。
酔ってないのにこのテンション。まだお酒抜けてないの?
(……海軍の人って……変……)

「じゃあ広瀬、秋山、その和菓子屋に確認した後連絡をくれるか」
「分かった」
「さつきちゃん、教えた住所にいつでも連絡くれたらいいし来てくれたらいいよ。別に用がなくても構わないし、遠慮しないでくれ。そうだな広瀬、場所の確認がてら一度家に来いよ。あと財部の家も一応確認しておけ」
「そうだな」
「如月さんも時間がある時は少し出歩いてみたらどうだ?大雑把でも道はある程度知っておいた方がいい。目立つから怖いかもしれないが、君が容姿を変に気にするほど周りも気にするもんだ。堂々としてりゃ大した事ない」

そんな事を言い残して、「また近い内に」とふたりは帰って行った。




(つ、疲れた……)
悪い意味ではなく。
玄関で後姿を見送った後小さく息を吐いたのが分かったのか、広瀬さんが声を掛けてくれた。
「台風一過というか、なんと言うか」
苦笑いと一緒に嵐のようだったと伝えれば、秋山さんも声を上げて笑う。

「あのふたりとは同期でも特に仲が良いんだ。もう一人向井というのもいる。十五、六の頃から学校もずっと一緒で、柔道仲間」
そういや前に秋山さんが海軍に柔道を入れたのは広瀬さんと財部さんだって言ってた。
「秋山さんは同期じゃないの?」
「ああ、俺は違う。俺は元々東京帝大に進むつもりでいたんだが、」
「は?東京帝大?……え、東大?」

びっくりして思わず距離を取って秋山さんを眺めてしまう。
東大に入ろうとしていた?
(そらーこの人、頭の回転早い筈だわ)
なんでそっちに行かなかったんだろう。素朴な疑問……

「金が無かった。それで学費がいらない海兵………海軍兵学校に進んだんだ。広瀬は違うだろう?初めから海軍に入るつもりで」
「攻玉社に入って受験勉強、それでそのまま海兵だ」
「俺はその間予備門にいて、途中で進路変更した。期が違うのはそれで入学年度が違うからだ」
予備門?東大の予備校みたいなものかな?と言うか……

「東大で何を専攻するつもりだったんですか」
「文科大学に進んで文学だな」
「文学ゥ⁉」
少しむっとした表情でこっちに顔を向けた秋山さんに急いで笑って繕って。
「ちょ、ちょっと意外だなあと……(あんまそんな感じには見えない)」
もう本当に海軍の人っていう印象しかないんですけど。

「だが幼馴染はそのまま帝大に入ったぞ」
「す、すごいですね」

ぽかーんとしか言いようがない。
エリートの周りにはエリートしか集まらないんだろうか。現代では私がまず触れる事のない世界だわ。
「エリート?エリートなあ。そういうのとはちょっと……途中で辞めて新聞社に入ったが今は記者とも言い難いか。最近は句を詠んだり歌論を出したり色々と書いているな」
「へー」
「ここにも何度か手紙は来ているぞ」
「え、そうなんですか?」
家に来た手紙は秋山宛て広瀬宛てと機械的に分けているだけだから流石に差出人までは見ていないんだけど。

「正岡升、子規という男だが……おいさつきどうした」

幼馴染……だと…………

(正岡子規ってあの正岡子規だよね)

あのも何も正岡子規なんてひとりしかいないよ。
私ですら横顔の写真が思い浮かぶ位のチョー有名人じゃん……秋山さんと幼馴染?は?
と言うかなんかそんな話あったな?何かで読んだ気がするな?

「……幼馴染……?」
「もうそれ以上は言わなくていいよ、さつきさん」
慣れたもので苦笑しながら広瀬さんが止めてくれた。

「あ、そう言えば俺の近くにもすごい人いるな。外務省高官で岩崎弥太郎の長女の婿さん」
「えっえっ岩崎弥太郎って三菱」
「財閥創業者の娘婿か。それはすごいな」
「加藤高明と言うのだが、義姉さんの従兄だよ」
「は⁉加藤高明⁉」

「…………」
「…………」
「…………」

もうやだこの人たち。



relax:気持ちがほぐれてきました
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