「さつきさん、明日は晩飯の用意しなくていいよ」
寝る前に突然そんな事を言われて。
「食べてくる?」
ふたりともか、珍しい。
前に「少しは羽根を伸ばせ」と自分で言ったにも関わらず私はそう思った。
「いいや、五時過ぎに仕出しが来るから。汁物も飯も何もいらないよ」
仕出し。広瀬さん、何でまたそんなに急に……
「夜に兄と義姉がここに来る。それなら一緒に晩メシでもという事になってね。さつきさんに全部準備させるのもどうかと思うし、お詫びも兼ねてという話になったんだ」
ここに来るなら結局私が準備する事になってしまうけれど、謝るのに呼び付けるのもどうかと思うし、それに大丈夫だと思うけれどあちらの家には誰が尋ねて来るか分からないからって。
「急な話でごめんな。大丈夫か?」
そう聞かれて頷く。
そりゃ大丈夫ですけどこれは家の掃除が大変だ。
「そんなに深く考える必要ないだろう」
そうのたまった秋山さんに、いやいやあるよありまくりでしょうよと突っ込む。
「さつきさん、本当にそんなに深く考えないでいいよ。いつも通りで十分」
「いつも通りだと軽く掃いて拭く位なんですけど」
「うん。だからそれで十分だよ」
いーやそんな事ない。絶対にそんな事ない。
当事者だしやって来るのがご家族だからそう思うのかな。
でもね広瀬さん、お兄さんたちが家に来るのは謝罪だけが理由じゃないよ。
(男は何も分かってないわ……)
そう思うのは私だけ?
「如月さん」
ごめんなさいね、と言いながら台所にやってきた春江さんに軽く会釈する。
「おもてなしさせる側にしてしまって」
広瀬ご夫妻は家に来るなり申し訳ないほど丁寧な謝罪をくれた。
急いで頭を上げてもらって財部さんにしたのと同じような話をした上で、本当に気にしないで欲しい事、もうすっぱり忘れて欲しい事を伝えた。
向こうもほっとした表情だったから、これで良かった、そう思った。
変な感情を後に引かせたくない。広瀬さんが前にそう言っていたけど今ならそれは本当だと思う。相手に謝罪をさせないのはある意味一番キツい仕打ちだろう。ホント危なかった。あの時強引に話を纏めてくれた秋山さんに私は感謝すべきだな。
「私も手伝うわ」
お膳の片付けをしていた私の後ろで襷掛けをしようとした春江さんにやんわりと断りを入れる。
流石にそれはちょっとね。お客さんだし。
でも一向に立ち去る気配がないので、台所ではあるけれど腰を下ろしてもらった。
それでも特に話し掛けられる訳でもなく。
仕方なく私は黙々と後片付けを続けていたのだけれど。
(き、気になるわー)
背中に視線が突き刺さってます!チクチクと!
(そりゃ品定め位しますよね!)
全くの他人ならとにかくこの人は広瀬さんの義姉だ。
広瀬さん自身も随分お世話になっているようだし、理由はどうあれ距離の近い女を厳しい目で見るのは仕方ないと思う。
広瀬さんたちには言わなかったけど、今日ご夫妻がこの家にまで来たのは私への配慮の他に弟がどんな環境で生活しているのかを知りたかったからに違いない。
てゆーかメインは寧ろそっちじゃないの?……なーんて……
(いつも通りの掃除でいい?)
んな訳ねーわ広瀬さん。
私別に嫁でも何でもないけどやっぱりねえ。
「如月さん」
呼ばれて振り向けばそこにあったのはちょっと所在なげな表情で、そうだよね、放置はいくらなんでもあんまりだ。ふたり分のお茶を煎れて後で出そうと思っていたお茶菓子を出して私も隣に落ち着く。
(あ?)
お客さんに対して台所でお茶を進めるって随分失礼だな私。
今更ながら気が付いてわたわたしていたら、
「いいのよ。気になさらないで」
春江さんは軽く笑って、
「少しお話しできるかしら?」
お話しできるかしら……
できるかしら……
かしら……(エコー)
(うわー……来たよ……)
春江さんが台所にやって来た時点で何となく予想はしていたけれど。
この展開、あまり良い話が待っているような予感がしない。
ちょっぴり顔が引き攣ってしまうのは勘弁して欲しい。
でも。
「貴方にはご迷惑だったと思うのだけど、今日は寄せて頂いて本当に良かった。貴方がどんな方かも分かったし……」
続いたのは悪い話ではなくて。
聞けば広瀬さん、お兄さん宅で私の事を随分褒めてくれてたみたい。その上、だ。
「色々と事情もあるけれど、貴方がいて本当に助かっている。貴方にとっても秋山さんと義弟にとっても今の状態がベストだと思うから、口を出さないで欲しいって」
「…………」
ちょっと広瀬さん……
本当にそんな事言ったの?
お世話になってる人にそんなきつい事言うような人には見えないのに。
「あら、ああ見えて結構厳しい所があるのよ」
でも散々世話をしてきた人間にそんな事言われたら、さぞ不愉快だっただろう。
「そうね。ただ貴方の話を聞いたら勝手な事をするなと怒る理由も分かるわ。それに神隠しだなんて……苦労されましたね」
神隠しといった広瀬さんの言葉を春江さんはそのまま、本当に信じてくれているみたいだった。
「ご家族もさぞ心配されているでしょう」
「私家を出て一人暮らしであんまり連絡も取ってなくて、どちらかというと職場の方が……」
向こう、どうなってるんだろう。
あちらでも急にいなくなったのなら本当に行方不明になっているか、状況考えたら事故死だろうけど。
何日も無断欠勤しているなら実家にだって連絡が行っているだろうし、いずれにせよ大騒ぎになっているに違いない。
ここで考えてもどうしようもないけれど、溜息が落ちてしまう。
「職場?働いていらっしゃるの?」
「あ、はい」
「それで殿方と同じ格好を?」
「(殿方……古風な言い方だ)そんな感じです。スカートもありますけど動きやすいから私はズボンばっかりで」
仕事の格好で明治に来たから、着ていたのは色気もへったくれもない地味なパンツスーツ。
しかも殿方って、そうだよね。
スーツ着てたから男と思われて、ついでに髪色と身長から外国人だと思われて。
ここではスーツを着る女性なんてまずいない。
「前にこちらに寄せて頂いた時も洋服でしたね。普段から洋服なのかしら?」
「ええ、私にとっては着物が余所行きで……恥ずかしい話ですが着物はひとりで着られないし」
待合茶屋で女将さんに教えては貰ったけど、まだまだ「着られない」の範囲だろう。
「私、出張で東京に来てそのままここに。それで着替えが二、三日分しかなくて」
シャツが破れちゃったし、オシャレ着に近いシフォンブラウスはちょっと場にそぐわない気がして今はキャミソールの上にジャケットを羽織ってるだけ。この格好、明治でどう思われるのかなとは、ちょっと思う。
「デコルテが見えたりするのはあまり良くないんですよね?服が無くて仕方ないとはいえすいません」
「…………」
「あの?」
「え、ええ。如月さんそのシャツ見せて下さる?」
「あー……部屋にあるので」
取ってきますねと続けようとしたのだけれど。
「なら私も行きます」
…………。
………………。
へ、部屋には物がないから大丈夫だけど、ほんとあちこち掃除しておいて良かったよ!
「少し生地が伸びているけれどこれならなんとか。お針箱はあるかしら」
シャツを見せるなり春江さんはそう言った。
びっくりだよ直せるの?それも今?すごい。
私なんてダメになったら買い替えようとしか思えないのに。てか、お、お針箱ッスか……
私が持っているのはお針箱なんていいもんじゃなく、最後に使ったのがいつかも覚えていない携帯用の簡易ソーイングセットだ。
(お粗末で渡し辛過ぎる)
でもそんな事も言ってられないのでセットを鞄から取り出して(すぐ見つかって良かった)春江さんに渡そうと思いきや、
「あ、糸がない……うわああどうするよコレ」
「……ふふっ」
とうとう笑われてしまった。
「あの、私こちらの女性が当たり前にできる事、多分殆どできないんです。裁縫とか、ボタン付けたり裾上げ位しかできなくて、と言うか裁縫自体殆ど……だから裁縫道具とか」
「如月さん」
言い訳がましく続きそうだった言葉は途中で遮られてしまった。
広瀬さんが悪く思われそうで些細な事でも呆れられたくない。多分そんな気持ちがスケスケだったんだと思う。
顔を合わせればふんわりと微笑まれて。
「大丈夫よ、そんなにおどおどしないで。気を遣わないでいいの。貴方のいた所とここでは環境が大きく違うようだと聞きました。ここでは当たり前の事でも貴方の所では違うのかもしれない。そうでしょう?」
「う、それは、そうですけど」
裁縫なんてできるに越した事はないし、できた方が良いに決まってる。
私が思う位だから、この人は尚更そう思うだろう。でもフォローしてくれる気持ちはすごく嬉しい。
「これ、二、三日お借りしてもいいかしら。直して届けるわ」
「え?」
直して届ける?
いやいやいや。なかったらなかったで何とかなるのだし、そこまでして貰わなくても。
「着替え、少ないのでしょう?なかったら困るじゃない。……それに直させて欲しいの。お願い」
お願いって。
「これがダメになった原因は私にあるし……ねえ如月さん、今日は本当に気を遣って頂いたのでしょう?玄関、居間、廊下、お手洗いも台所もすごく綺麗に掃除されていました」
「…………」
「今日は朝から大変だろうと分かっていて出向いた私たちも私たちですけど。そこまでして頂いていて嬉しかったの。それもあるわ」
そこで春江さんは少し言葉を切った。
「義弟はね」
と、続けて曰く、広瀬さんは秋山さんと同居を始める前、始めた後もよくお兄さん宅に足を向けていたみたいで。
それがある時からがくんと回数が減り、東京にいる事は分かっているのに、それが突然であったからどうしたのかと思って。
「心配するような事はない、元気にしているよ。あれにはあれの都合もあるのだろう。放っておきなさい」
同じ職場の旦那様から様子を窺おうとしても、そう言われるばかりで。
(そりゃそうだ)
「それはそうですよね」
「…………」
「…………」
「「子供じゃあるまいし」」
お互い顔を見合わせて笑ってしまった。
「でもお弁当の話を聞いて……男性ふたりで下宿している筈なのにどうなっているのかしらと思って。そうしたら貴方がいた」
その後に取った行動は先日の通り。
「若い女性と暮らしていると知った時は本当に驚きました。それで、ね」
「……いいです、分かりますから」
私がいると聞いた時にどう思ったかなんて言葉にしなくても。
(男女三人で暮らしてるって聞いたら、家族でなくてもどんな生活してるのかと思うよ)
「いい加減な事をしているのではとか、だらしない生活をしているのではとか、色々気を揉んだのだけれど」
前に来た時もこの家はきれいに掃除されていて、予想していたのとは逆の清潔感があった。それに話していて予め想像していたのとは随分様子が違う女性だと思い始めると、違和感がどんどん膨らんで。
「その上貴方、娘にこう仰ったのよ」
――ね、おじさんの事好き?
――大切にしてあげてね
(そんな事言ったかなぁ)
あの時は内心酷く荒れていたから、何を言ったのか細かい事はよく覚えてないんだけど。
心の中での呟きは音になって口から零れていたようで。
「言ったのよ。貴方、あれは意識せず口にした言葉だったのね」
春江さんは少し驚いた風になり、ひとつ息を落とした。
「『大切にしてあげて』なんて。もしあのふたりを利用しているのなら、そんな言葉、厳しい要求を押し付けた私たちには言わないでしょう。それもあんな時に。これは本心だと思ったら居心地が悪くなったの。それで奪うように娘の手を取って玄関を出ました」
「……」
「貴方のあの言葉を聞いた時、私は何か酷く間違った事をしてしまったという気がして」
「如月さん、本当に申し訳ない事をしました」
広瀬兄弟はあまり似ていない。
広瀬さんは随分勢いがあるけれど、お兄さんはそうじゃない。人柄の丸そうな、見るからに優しげな人だった。
「ああ、広瀬大尉は穏やかで部内でも敵がいない事で有名なんだ。広瀬とは随分違うな」
笑った秋山さんに、
「どういう意味だよそれは」
広瀬さんは少し不服そうだったけれど、穏やかで敵がいないと言うのは全面同意のようだった。
おふたりが帰り支度をしている間、私は少し片付けようと空いた湯飲みや酒器を持って席を立った。
広瀬さんと秋山さんが相手しているならいいでしょ。
そう思っていたのだけれど、台所から居間に戻る廊下でぱったりと広瀬さんのお兄さんと顔を合わせる事になった。
今思えば「ぱったりと」じゃなかったんだろう。
多分お手洗いとかなんとか言って居間を出て、私が戻って来るのを待っていたんだと思う。
一言二言言葉を交わした後、酷く丁寧に頭を下げられて、
「弟から聞いた通りでした。貴方とも秋山君ともとても良い関係で、その上貴方には良い環境を整えて頂いているようで」
なーんて。
趣旨としては春江さんと同じ事言ってたんだよね。
兄弟仲はすごく良いみたいだし、なんだかんだ言ってもやっぱり広瀬さんの事が気に掛かっていたんだと思う。
そんな事を思い出して、目の前に座っているふたりをついジト目で見てしまう。
ちゃぶ台を囲んでお茶を飲んでいた男どもは私の冷た〜い視線にすぐに気がついて、「ん?」とか「何だ」とか問いかけてきた。
「朝から大掃除しといてホントーに良かったなーと思っただけでーす」
ちょっと嫌味っぽく返せば心当たりはありありだったんだろう、ふたりは苦笑いした。
「帰り際、兄も義姉も改めて君によろしくと言っていた。気持ちよくふたりを帰す事ができて俺も良かったと思う。今日は本当にありがとう」
「……」
ありがとう、か。
「さつきさん?」
「……んーん。本当にお礼を言わないといけないのは私の方だなって」
そう答えれば、ふたりの顔には「どうした?」といった表情が浮かんだ。
この話の流れでいきなりそんな事言われてもって感じ?でも本当にそうだと思う。
「広瀬さん、おふたりを呼んで下さってありがとうございました。あと秋山さんも」
「俺も?」
「この前秋山さんが後押ししてくれなかったら私、多分意固地になってずっと謝罪はいらないって言ってたと思う」
今日ここに来てもらえたから「皆が嫌な思いをしたまま」という、一番望まない結末にならずに済んだ。財部さんの事にしてもそうだし。
これは本当に今目の前にいるふたりのお陰だと思う。
「だから、ありがとうございました」
改めてお礼を述べて頭を下げたのだけど。
「俺はお前のそういう所は嫌いじゃない」
「あ、俺も。君の良い所だよなあ」
「……」
「さつきさん顔真っ赤」
「――ちょ、は、恥ずかしい……すっごく恥ずかしいんですけど!なんで面と向かってそういう事言えるかなあ!」
「ふっ」
吹き出す広瀬さんの隣で、
「前から思っていたんだが……お前本当に褒められ慣れてないんだな」
「そんな可哀想な子を見るような目で見ないでよ!私はあっきーみたいに優秀じゃないの!」
「君の周りの人間は見る目がなかったのか?」
ふたりのかわいそうな子を見る目が本当に痛い……
てか見る目がないと言うより本当に褒めるところがないんじゃない?
「さつきさん、あまり自分を卑下しない。君はよくやってるし頑張ってる。本当は褒めるなんて言葉だけで片付けられないと俺は思うよ」
「みんなが助けようとしているのは広瀬と同じように思っているからだ。前にも話しただろう、何度も言わせるな」
「……ハーイ」
(そう言えば秋山さんも前にお兄さんが東京にいるって言ってたよね?あの時は『問題ない』って軽く流されちゃったけど……)
頷きつつ、ふと思い出して黙り込めば「どうした?」と。
「秋山さん、お兄さんに私の話してます?私の事というより、住み込みでお手伝いがいるって話になると思うけど」
「……………………いや、してない」
何その間。
「だ、大丈夫⁉また同じような事が起きるのだけは」
「流石にそれは大丈夫だ(と思う)」
秋山さんは大丈夫と言い切ったけれど、なんて言うか、うん、いつもと違ってちょっと歯切れが悪い。
「つかぬ事をお伺いしますが、もしかしてお兄さん苦手……とか?」
「……」
(え、マジ?秋山さんにも苦手があったんだ)
「別に苦手という訳では……年も離れているし、実家で育てられたのも学校に行けたのも、上京できたのも全部兄のお陰で」
それは兄と言うより寧ろお父さん的存在なのではないかと。
(てゆーか実家で育てられるとか学校に行けるとか普通の事じゃないの?サラッとヘビーな話聞いてるような気がするんだけど)
…………。
(あ?お父さんみたいな?)
あー、そっか、そういう事だ。
思い当って妙に納得してしまった。
(そりゃ確かに、そういう存在の人に向かって私みたいなのがいるなんて事はちょっと言い辛いかも)
だって要するに秋山さん……
「お兄さんには頭が上がらないんだ」
「…………」
(ぶふっ)
「(やだ図星?)お、怒らないでよぉ」
「……別に怒ってはいない」
広瀬さん笑うの我慢してるし!吹き出しかけたの気付いてるんだからね!
「いやいや別にそんなに変な事じゃないでしょうよ!な、なんてーの?ほら人間ひとつ位怖いものがあった方がいいって言うか?その方が真っ当に生きられるんじゃない⁉」
「あっはっははは!真っ当に=I」
「広瀬さん!笑ってないでちょっと位フォローしてよ!」
なんか秋山さんも笑い出してるし。
「そうだな、兄には頭が上がらない。それに小手先の言い訳やごまかしが効かないような気がするんだよなぁ」
そうなんだ。怖い人なのかな?
「しかし次に会った時にでもお手伝いがいて助かってる≠ニいう程度で軽く触れておくよ」
確かにあまり突っ込まれても困るよね。まあでも。
「変な心配を掛けないようにしてあげて下さいね」
折角東京にいる兄弟なんだから。
私なんてここでは家族もいないもんなぁ。
(それにもしかしたらもう会えない可能性だってあるんだし)
春江さんが言ってくれた通り、現代では本当に私の家族が心配しているかもしれない。
なのにここじゃ連絡を取る手段さえない。
考えてもどうしようもないから忘れておこうとは思ってるけど、気にならない訳じゃない。
だから、せめて目の前にいるふたりには家族に心配掛けたりとか余計な波風が立たないようにして欲しい。
「……うん、家族は大事にしないとねえ」
ふたりは何も言わずただ柔らかく笑うだけだった。
A kindness is never lost:思えば思わるる。要するにこちらも「情けは人の為ならず」20211115121125