明治三十年五月十四日。
広瀬さんにロシアへの留学が内示された。
帰ってくるなり台所に顔を出した広瀬さんは満面の笑顔だった。
「さつきさん、ちょっと座ってくれるか」
料理する手を止めて上り框に腰掛ければ、
「今日上から話があってね」
広瀬さんが話し出した内容に私は驚いてしまった。
知ってた。聞いてたよ。
……とは流石に言えなかったけど。
でも財部さんが近々内示が下りると教えてくれたの何日か前だよ。
流石に「近々」がそんなすぐだと思ってなかった。
でも、良かった。
良かった、良かった、本当に良かった。
話を聞きながら唇から零れるのはその一言ばっかりで。
濃紺の軍服を着た太腿の上に乗っているごつごつした手、それを自分でも気が付かない内に両手で握りしめていて。
いきなり触れても広瀬さんは嫌がりもせずに笑ったままで、その表情と内示の「予定」が「事実」になったという変化は私を更に深く安堵させた。
良かった。
広瀬さん、本当にロシアに行ける。
「辞令はいつ?」
ぽんと広瀬さんの片手が私の手の上で軽く弾んだのを機に、ゆるゆると手を離す。
「まだ詳しい事は……ただ辞令が下りたら一ヶ月程で出発になると思う」
「一ヶ月…………え?一ヶ月?」
日本とヨーロッパ往復するだけで四ヶ月かかるんだよね?
普通に考えて年単位、数年単位の長期滞在になるのだろうに、その準備期間が一ヶ月?
「陸軍だと最低三ヶ月はあるんだが海軍は短いんだ。大体その位」
その間に留学準備、地方の軍事施設の視察、関係者への挨拶諸々を済ませないといけないって。
嘘でしょ。
「広瀬さんご実家は」
「豊後竹田。知ってる?」
「大分の?私行ったことありますよ」
広瀬さんがとても驚いた顔で双眸を瞬かせた。
「温泉巡りで……別府、湯布院、それから長湯温泉行って」
「長湯か、なら近いな」
「うん、そこから黒川温泉。その途中でちょっとだけ竹田に寄ったの。広瀬さんの出身地だったんだね」
故郷を思い出したのか、ふっと優しげに細まる瞳に私も小さく笑った。
もっとちゃんと観光しとけば良かったな。城跡と武家屋敷、瀧廉太郎の記念館があった事位しか覚えてないや。
もしかしたら広瀬さん所縁の場所なんかもあったのかもしれない。
それにしても豊後竹田かあ。大分山の中だった記憶があるけど、それだと、
「出発までに帰るのは……」
「正直厳しい」
でしょうね。明治の交通事情考えると。
だって新橋神戸間が最速の列車で十七時間半かかるらしいし。
「海軍の上の人って人の心がないの……?」
「ふ、はは」
「笑うけど広瀬さん」
ご家族の事考えると笑い事じゃないでしょうに。
「それはとにかく。留学生には一斉に辞令が下りる。そうなったら俺も秋山もかなり忙しくなるよ」
「うん、そっか……そうだね。……何か手伝える事とかあるかな」
私に出来ることなんてなさそうだけど。
「ありがとう、その気持だけで充分。さつきさんは今まで通り、いつも通りでいいよ。ただそうだなあ……そろそろ心の準備をしていく必要があるな」
「心の準備」
「離れる準備。君も、俺たちも」
はっとして隣に座る人を見上げた。
「多分あと二ヶ月位しか一緒にいられない」
(二ヶ月かあ)
――いつまでもこの生活が続く訳ではないと分かってはいるんだが
秋山さんもそう言っていたし、私だって分かっていた筈だった、けど。
――実際にこういう話が出てくると寂しいもんだな
本当だよ。
いざ終わりが見えてくると湧いてきたのは形容しがたい寂しさと胸が詰まるような焦燥感だった。
この生活は続かないって分かってたし、広瀬さんの留学確定は本当に良かったって思ってるんだけど。
(……ちょっとだけ複雑)
それにちょっとだけしょんぼりしてる。
ゴールがはっきりと見えたのが私は結構ショックだったみたい。
広瀬さんの留学話が嬉しかったのは嘘じゃない。
それなのにその日の夜、寝る時になってじわじわとやってきたこのもやもやした感じ。
(もう少し一緒にいたかったな)
この暮らしが、あのふたりが、私は自分が思っている以上にきっととても好きだった。
こんな時になって初めてこの日常を手放したくないって思ってる。
あのふたりの近くはすごく居心地が良かった。
私が未来の人間だと知っても気持ち悪がらず利用しようともせず、一緒にいると言ってくれて。
明治の女性像からはかけ離れている私に驚いても、笑って丸ごと受け入れてくれて。
最近になって自然と増えてきたスキンシップ。この時代では恋人か何かだと思われても仕方ないような近い距離を許してくれている事も分かってる。
その上で、男の人しかいない家で怖い思いをした事なんてなくて。
居心地の良さの理由ははっきりと分かる。
(ふたりが私の事を知った上で受け入れてくれて、……)
ひとりの人間として尊重してくれるから。
物理的にも精神的にも蔑ろに扱わないからだ。
秋山さんと広瀬さんは私の事をとても大切にしてくれた。
現代でも経験した事ないような扱いで優しく接してくれていたと思う。
この世界で”ひとりきり”の私にはそれが本当に安心できて。心地良くて。
ふたりに甘やかされて、私は多分、現代にいる時よりもずっと我が儘になってしまった。
(もっと一緒にいたい)
ふたりといるとついそう言ってしまいそうで最近は少しドキドキしてる。
でもこれは口にしない方がいい。自分の為に。
だってこの気持ちは多分”好き”と同じ意味だ。
言葉にしたら、きっともっと気持ちが大きくなる。
言葉にしたらきっと、あやふやな気持ちが明確になってしまう。
言霊ってきっと本当だから。
今ならまだごまかせる。広瀬さんの言う通り今までと同じ通りでいるのが一番いい。
(あーあ)
溜息に次いで出てきたのは乾いた笑い。
(私ってば本当に男運が悪い)
前の男は浮気相手を妊娠させてその前の男はヒモになった。今度は形になる前に霧散するっぽい。
ホント、苦笑いしか出ない。
(考えたってどうしようもないな)
どれだけ一緒にいたくったって、どうにもならないのだから。
それならせめてどうすれば気持ちよく別れられるかを考えたい。
まあ、留学前に私が帰っちゃうかもだけど……
出発までに私はふたりに何をしてあげられるんだろう。
喜んでもらえるような事、何かできる事ってないのかな。
(できる事……できる事ねえ)
「……さん、如月さん?大丈夫かしら」
「あ、うん、何でもないよ。ごめんね」
呼び掛け声に私は顔を上げた。
目の前にいるのは以前クッキーを持ってきてくれた女学生の千鶴ちゃん。
来るなら手ぶらでと言ってからこの子は何度か清流庵に来ていて、その都度一緒にお茶しながら英語の教科書を読んだり話をしたり。
学校とは無関係の人間と話をするのが楽しいみたい。
まあ私はヘタな事は言えないから口数少なめだし、専ら聞き役なんだけど。
(ただなあ)
知人程度にしては少し距離が近いかなって、ちょっと心配になってきてる。
いつもお付きのオニーサンがイートインスペースの端っこで待っていたり、女学生が多くはないこの時代に女学生してたり、洋菓子を持ってきたり。
随分?相当?良いお宅の子なんだろうな…
それで、よ。
私が言うのもなんだけど、こんなザ・庶民の場に来てていいのかこの子。
それに私自身の立場を考えるとあまり近付き過ぎない方がいいと思うんだけど、名前を呼んで懐いてくれる様子を見ると、そう無下にも出来なくてちょっと困る。
でも彼女のとりとめのない話を聞いているのは結構楽しくて。
学校で流行っている髪型の事、お高くとまっているクラスメートがいけ好かない事。
食べてみたい洋菓子の事、新任の古典の先生が若くてかっこいい事。
現代の女子高生と似たり寄ったりの内容で笑って怒って、猫の目のように変わる表情がとてもかわいい。
(若者言葉とかあるのかな?)
スマホの微妙な絵文字群を思い出してぷふっと吹き出すと、
「如月さん」
ツンとした声に咎められる。
おっと、話の途中だった。
「ごめんごめん。習い事ね、してたよ。剣道とピアノ、あとギター」
剣道とピアノは受験や卒業のタイミングで止めて、ピアノの後にギターを始めた。
「えっえっ剣道?ピアノ?」
想像していたのと違っていたのか、目を丸くする千鶴ちゃんに私も目を丸くする。
そんなに驚く事?でも剣道は秋山さんと広瀬さんもびっくりしてたな。女流剣士だっていそうなものだけど、もしかして薙刀の方が多いのか。
ここでの女の子の習い事はお茶、お花、お琴。
基本的に花嫁修業になるお稽古がスタンダードらしいので珍しいっちゃ珍しいのかも。
それよりピアノとかギターってこの時代の日本にあったのかな。
……と思いきや、
「如月さん、ピアノ弾けますの!?」
「ん?う、うん……少しだけ。ホント少しだけ」
「聞かせて下さいませ!」
あるらしい、けど。
「……お家に来てという事だったら、ごめん、それはできない」
どこか違う場所でというのもね、と逃げ道も塞いでおく。
断られるとは思っていなかったんだろう。
意外という単語が張り付いた顔に、家にピアノがある事、そして家に呼ぶ気だったんだなと思う。
やっぱりこの子、資産家のお嬢さんだ。
資産家かあ……
お父さんが実業家?政治家?あー、なんだっけ華族?とか?いや流石にそれはないか……単に富裕層だって可能性もあるな。まさか教科書に載るような人じゃないよね?ね?
(……ひぇ……こっわ……)
「どうして?」
どうして、ともう一度震えたさくらんぼ色の唇に私は眉を下げた。
正直に言わなくったって良かったのについ口が弛んでしまった。
適当にごまかさないといけない所だったか。
馴染みのある楽器には心惹かれるんだけど……
でも、お宅に伺えばきっと、いや、絶対お家の方へ挨拶することになる。
その流れで私の容姿や来歴を根掘り葉掘り聞かれる事位は流石に分かるよ。
嫁入り前の娘が変な人間と付き合っていないかなんて、親としては当然の心配だと思うし。
うん、思うんだけどさ。
この子の親御さんが社会的地位のある人っていう可能性は、結構高い。
(そんな人にもし会う事になってしまったら……)
そう考えると身体が軽く震えてくる。
だって、その後何も起きないなんて保証はどこにもない。
(今でさえ少し危ない橋を渡っている気がしてるのに)
これで何かあったら秋山さんと広瀬さんに更に迷惑を掛けてしまう。
いや、迷惑で済むかどうか。
何よりも今、ふたりは留学を前にした大事な時だ。
トラブルなんて絶対に起こせない。
「ごめんなさい。でも本当にお家には伺えない。あなたと会えるのは清流庵でだけ」
「……」
「それも嫌と言われたら、私はもう貴方とは会えない」
「……っ……」
いつもと違う厳しめの口調に千鶴ちゃんは目を見開いて、すぐに膨れっ面になってふいっと横を向いた。
彼女からすれば気軽に振った話だっただろうに、ごめんね。
「あのね、私にはとてもお世話になっている人がいて。その人たちのお陰で私は今ここにいられるの」
戻ってきた視線に顔に軽く微笑って見せると千鶴ちゃんの雰囲気が少し和らいで胸を撫で下ろす。
「私こんなだから色々あってね、あの人たちに心配と迷惑ばかり掛けてる。これ以上負担になりたくないの。だからせめてあの人たちの目の届く所にいたい」
「……」
「こうしてあなたと頻繁に会うのも、本当はどうなんだろうって思ってる」
「えっ……」
「だから、ここでだけ」
「………」
「それで私との事もあまり周囲に話してはダメ。言わないって約束して欲しい」
威圧を感じるような、こんな頭ごなしな言い方は好きじゃない。
でもこれは大事な所だ。自分の為にも、何よりあのふたりの為にも。
(自分自身の保身が第一。それがふたりの為に繋がるんだから、うん、それで間違ってない。それに…)
少し黙り込んだ後、千鶴ちゃんはこくんと小さく頷いた。
「分かりました。人にも…はい、話してません」
話していない。
消え入りそうな声だったけど、了承を得られて、いやにはっきりと言われてほっとする。
「ごめんね」
「………はい……」
貴方が嫌いなんじゃないんだよ。
それは分かって欲しい。
ご無理を言いまして申し訳ありませんでした。
そう低頭されて安堵はしたけれど、何だかこっちが悪い事をしたみたいで本当に複雑な気分。
かと言ってどうしようもないけどさ…
後はお茶をしながらいつもの様に他愛無い話をして、何事もなかったかのように彼女は帰っていった。
(……あら、珍し)
今まで挨拶らしい挨拶も無かったのに、目を合わせて軽く会釈してきたオニーサンに私も頭を下げた。
店内に戻れば八重さんがこそっと声が掛けてくる。
「さつきちゃん、大丈夫?」
奥の方で私たちの様子をそれとなく見ていたらしく、つい苦笑いが漏れてしまった。
「誘ってくれるのは嬉しいんですけど、やっぱりちょっと……」
”その後”を考えると怖いし、警戒してしまう。
「そうだねえ」
言葉を濁しても言わんとしている事をちゃんと分かってくれる八重さんに緊張が解けた。
事情を知ってる人がいるって本当にありがたい事だ。
「でも……ごめんなさい。あの子もう来ないかも。折角のお客さんだったのに」
「いいんだよそんな事。それよりもあんたたちの方が大事」
え?と間の抜けた声を上げるとけらけらと笑われてしまって。
「そりゃあそうよ。それにあのお嬢さんまた来るよ」
「そうかなぁ」
「だってあの子、見るからにさつきちゃんの事好きじゃない」
確かに嫌われているようには思わないけど。
「そうじゃないとこんな鄙びた店に何度も来ないよ。あの子は颯太たちと一緒。さつきちゃんが好きで、困らせたくないし嫌われたくないから簡単に引いたんだよ。それにあの子、口の聞き方や態度を怒られたって何度も来てる。遠くでただ見てるだけの他のお嬢さんと違うよ」
「ええ……」
「きっとまた来る」
そうかなあ……
「――っていう事が先週あったんですけどね」
「で?来たのか」
「うん。今日ね」
八重さんの言う通り彼女は本当にやってきた。
あの話を蒸し返す事もなくて、いつも通りではあったんだけど。
流石にここまで懐かれるとは思ってなかったから正直戸惑っている。
「多分これからも来るんだろうなって。一応報告しときます」
本当に身近な人以外にはあまり個人として認識されたくない。無茶苦茶今更だけど。
清流庵からいなくなっても「あの人いつの間にかいなくなったね」程度の存在でいる位が丁度いいと思っているのに、あの子との関係はその線を跨ぎかけている。
「……何も起こらないだろうけど、念の為」
そう口にすると秋山さんは手にした湯飲みを机に置いて、暫く天井を見つめていたけれど。
「まあ……大丈夫だろう」
「俺もそう思う」
「えー広瀬さんまで?なんで?」
「さつきさんがちゃんと話していることもあるし……その子いくつ位?」
「もうすぐ十八って言ってたかな」
少し首を傾げて思い出すようにして伝えれば。
「ああ、なら余計に大丈夫だな。大方嫁入りでも決まったんだろう。その前に自由を楽しみたいだけだ」
「だからそんなに長くは続かないと思うよ」
「は?嫁?」
嫁入りが決まった?
嫁入りってこっちじゃ幾つで結婚するの!?
現代と違って随分早いんだろうとは想像つくけど十七、八でとか、こっちって数え年だよね?もうすぐ十八って事は今は十七。実年齢十六じゃん。じゃあ十六とか十七で結婚って事?少女漫画か?え?そんなもん?そんなもんなの?え?待って?もし、もしよ、秋山さんや広瀬さんが結婚するとなったらその位の女の子とって事?アラサーがJKと?は??事案か??犯罪では???
「……は?」
目の前のふたりを汚いものを見r……何とも言えない表情で眺めてしまう。
「え?」
「何か変なこと言ったか?」
「そこはかとなく漂う犯罪臭……淫行条例違反待ったなし……?いやギリセーフ?いやいやアウトじゃね?セウト?でも真摯な交際なら十六でも結婚できてた……」
明治時代は恋愛結婚じゃなさそうとか、個人の感情より家や男社会の問題だろうなってこの前思ったばかりだけど。
お見合いなら確かに真摯な交際なんだろうけど、抑々アラサーにミドルティーンを宛がう真摯な交際って何なの?
男は若い女が好きっていうのは一般論としてあるんだろうけどさあ。
それに年の差婚がこっちの当たり前だって言われても、じゃあ女の側から見たらどうなのよとは思う訳で。
身近なアラサー広瀬さんも秋山さんも”いい男”だけど、それは年が近くてそれなりに近い位置にいてそれなりの…かなりの好意を持ってる私だからそう思う訳で、JKから見れば一回り以上上の紛う事無きおっさんだ。そうだよJKからすればアラサーなんておっさんでしかない。それが恋愛経由のゴールインならまだしもお見合いでとか。
いやお見合いでだって後から恋愛が追い付いてくるかもしれない。かもしれないけど。
静かになった居間で目の前に並ぶ顔を見ながら、そっと座卓から身を引いてふたりから距離を取る。
いくらふたりの事が好きでもこれはちょっと……
「…………気持ち悪…………」
知らず零れた心の声にふたりともがげっほ!と勢いよく咳き込んだ。
いっけね生理的嫌悪感丸出しだったわ。
「き、気持ち悪い……?え、えっとさつきさん?犯罪、淫行って」
「年の差婚、十歳違うと離婚率四割近いらしいんで……気を付けて……」
「は!?」
「離婚原因は価値観の相違、性格の不一致、モラハラ、若い方の不倫」
「一体何の話だよ……あ?何だって?こっちではそれだけ年の差がある結婚が普通なのか……?」
現代での結婚の話を軽く説明すると、ふたりは顔を見合わせた後、秋山さんは机に両肘をついてうなだれ、広瀬さんは胡坐のまま両手を後ろについて天井を仰ぐと、はーっと大仰に息を吐いた。
今まで投げつけられたことのない気持悪いとか、犯罪とか淫行っていう言葉に驚いたみたい。
確かにこのふたりとは全く縁の無さそうな単語だもんね。
「あのな、さつきさん、」
年の差婚は身近でも聞く話ではあるけれど、普通に二十四、五でというのも多いって。
ふーん。
「俺たちの周りでもそれ位で結婚した奴は多いよ。海兵卒業して海上勤務に就いて一旦落ち着くのがその頃だから、陸に上がったら親や親族が縁談持って待ち構えてたり」
「へぇ……じゃあそこを外したおふたりは今後結婚するとしたら十代半ばの子と」
「うん、一旦そこから離れようか。そもそも俺は結婚しない」
「あと汚らわしいモノを見るような目で見るのもやめろ」
いくらなんでも傷つくと付け加えた秋山さんに私は笑った。
しかし、だ。
(嫁入り前の自由かあ)
ピアノを弾いて欲しいっていうのも、もしかしたらその自由のひとつだったのかな。
何のしがらみもないのだったらそれ位の事してあげたいけど、こればっかりはどうも。
……あ。
「あの、」
「何?」
「どうした」
「家がダメなら清流庵に持ってきた楽器は弾いてくれるかって今日改めて聞かれて。ホントに持ってくるかな?というかどんな楽器があるの?私日本の伝統楽器は全部無理」
だから何を持って来られても弾けないだろうなと。
「そう言えば軍隊ってブラバンなかったっけ。海軍にもあります?」
「ぶらばん?」
「軍楽隊か」
「それそれ、それです。使ってる楽器分かります?」
「ラッパ」
「太鼓」
「以上」
「括りが大雑把過ぎる」
もっと他にもあるでしょと言えば苦笑いされたけれど、西洋楽器にあまり馴染みが無いんだろうし、特に興味が無いなら仕方ないか。
「弦楽器は?」
「軍楽隊ではないな」
「俺たちが兵学校生徒の頃、水交社でダンス会というのはあったよ。バイオリンの楽師を呼んでいたらしいけど」
えっダンス。
この時代に学校でダンス習うの凄いなと思いきや、スイコーシャ?は生徒じゃ使えない施設らしく、当時生徒だった広瀬さんたちは話を知っているだけだって。
「今から大体十年程前、鹿鳴館の頃だな」
「うわあ歴史ィ」
「はは、何だそれ」
ただそのダンスパーティも一年程で無くなってしまったらしいけど。
「でもダンスとか、特に広瀬さんはこれからそういうのいるよね」
「え?」
「ん?」
きょと、とした目が向けられて、私も、え、と返したのだけれど。
「だって……ロシアの将校レベルの軍人って貴族だよ。兵隊ならともかく末端でも国家の責任を担う人が庶民っていうのは、この時代のロシアではまずないと思う」
例外はあるかもしれないけど。
「留学の目的、語学と先進技術の取得だけじゃないよね?ロシアって確か日清戦争後の仮想敵国だったもん。とりあえずは留学生で送り込んで、いずれは”公然たるスパイ”ってやつでしょ?えーと、なんてったっけ、駐在員?駐在武官?」
「あ、ああ……」
「貴族と付き合うような立場で敵情視察、軍事分析する事考えたら、社交場とかティパーティ位には出ないといけないと思うよ。好き嫌いじゃなくて、顔繋ぐ為に仕事の一環で上司や先輩に連れていかれる筈」
「……」
「……」
「きっとフランス語も必要になるね」
はは、簡単に言うけどこれは大変だ。
実地でもキリル文字やロシア語は慣れるまでに相当時間を要するだろうし、言語以外の負担を考えてもロシア滞在は欧州諸国に滞在するよりキツいものなんじゃないかな。今までロシアに滞在した人たちの苦労が忍ばれる。
でさあ、と話を変えようとして、目をかっぴらいてこちらを見ていたふたりに驚いて私は口を閉ざした。
「ど、どうしたの」
「どうしたもこうしたもさつきさん……」
「お前突拍子もなく凄い話始めるよな」
「え?」
「もう少し聞かせてくれるか?」
「え?」
avoidance:ひらりと躱しちゃう
財部君(31)が明治30年に結婚した時嫁のイネちゃんは18歳。当時は17〜19歳で結婚するのが一般的。芝にあった水交社では明治18-19年土曜の夕方からダンス会が開かれていました。鹿鳴館閉鎖で上流階級のダンスブームが下火になった事と海軍も組織として忙しくなってダンスどころではなくなっちゃった。20220612 20211021