47:rollin' days(2)




一旦落ち着こうか。
広瀬はそう言って袖を握ったままのさつきを連れて居間に座らせた。

眼前の座卓に視線を向ければ、その端には布巾を掛けた箸と茶碗、取り皿と湯飲みを伏せた盆が用意されている。
そして台所から淡く漂ってくる料理の匂い。
同居するようになってから約四ヶ月、これが今では見慣れた夕方の光景になった。



広瀬に留学が内示されて暫くしてから、さつきが設える食卓は豊かになった。
ちゃぶ台が少し手狭になって座卓に代わり、あれも食べてこれも食べてと勧めてくる女に、
「料理屋でも始めるの?」
やって来る度にそのお相伴に与る竹下が笑っている。

品数が多いのも量が多いのも、夕食の余波で弁当までが豪華になるのも広瀬は大歓迎だ。
しかしこれではさつきの負担が大き過ぎないか。
そう尋ねて返ってきた返事はまだ記憶に新しい。

「他にできる事無いからこれ位はさせて〜。なんだっけ……ほら、馬のはなむけってやつだよ」
「よくそんな言葉知ってるな、さつきさん」

『土佐日記』の冒頭だ。侮る意は無く秋山も広瀬も純粋に驚いた。
彼女は気を悪くする素振りも見せず、古典で習って印象に残る古語だったから、とさらりと言って、

「ふたりが美味しいって沢山食べてくれるから、献立考えるのも作るのも楽しい。だからね、大変じゃないよ」

剰え何か食べたいものがあったら言ってねと付け加えてふんわりと笑った。

秋山も広瀬も何も言えなかった。
餞別(はなむけ)だなんて自分たちが考えてもいなかった言葉がさつきから飛び出して、ただ驚いたのだ。
庇護者が近い内にいなくなる事について思う所はあっただろうに、そんな心の内など見せずにさつきは留学への祝意を料理に変えて贈ってくれていた。

同居開始当初、さつきが作る食事はギブ&テイクとか持ちつ持たれつとか、そんな言葉で自分たちの間に挟まっていたのに、それが今では完全にその質を変えていた。
「義務でもなく義理でもないのなら愛情だな」
なんて、財部にでも指摘されたなら今の広瀬はそうだろうなと素直に頷ける。

さつきからの餞別は愛情だった。
それも混じり気のない、大の男が面映ゆくなるような。
広瀬も秋山もそう受け止めたのだ。それなのにさつきは「これ位しかできる事がない」なんて卑下して、自分の言葉が持つ意味を全く理解していなかった。
さつきは自己肯定感が低すぎると、今なら広瀬にもよく分かる。だから他の人間より優先度が低くて当然だなんて事も無げに言えたのだ。
餞別なんて、物を贈る方が余程簡単だ。
自分たちの為だけに丁寧に作られた日々の料理の形をした気持ちは、”他にできる事”の代替になんて到底成り得ないのに。

「……おお……ありがとう……」
「そ、そうか」

ただ、照れ臭さに押し負けて、気の利いた言葉のひとつも言えなかった自分たちは男としては少し……いや、かなり意気地無しだったに違いない。

「え?ありがとうは私の方じゃない?」
「お前……お前は……本当に……」

男心を全く意に介さずにこにこ笑うさつきの無自覚に秋山は若干震えていたが、平然そうに見えてその耳や首元が赤くなっているのを広瀬はばっちり視界に収めていた。
分かる。広瀬だってきっと人に見せられるような顔をしていなかった。
胸の奥がじんわりと温かくなりそれが緩く体全体に伝わって、多分頬は熱かった。
あの時広瀬と秋山を包んでいたのはきっと、人から純粋に想われるという幸福感だ。

財部が言ったようにさつきの愛情と献身は確かに広瀬と秋山に向いていた。




隣に座ってもさつきは袖口を握ったままで、戯れに軽く手を揺すったがそれも無視。
珍しい甘え方に広瀬がふっと笑えば渋々離れていった。
別に、そのままでも良かったのだが。
少し拗ねたような顔には年に似合わないかわいらしさがあって、広瀬は僅かに目尻を下げた。
できれば毎日この顔を見ながら食卓につきたい。そう思う。
秋山も同じだろうと座卓の向こうに座った男を見れば同様に苦笑いだ。

(まあ、毎日は無理だな)
期せず生じた出発までの猶予約二十日。
遊んでいられる筈もなく、広瀬も秋山ら他の留学生が行く軍事施設の視察研修に同行する事になるだろう。
それに壮行会を開いてくれそうな友人知人の顔が幾つか浮かぶ。
確実に家を空ける日が多くなるが……
(それでも出発が延びたのは良かった)
自分の為にも、さつきの為にも、周囲の為にも。
渡航と別離に対する最終的な準備を終えるのに一週間は、いくら何でも短過ぎる。

心の事もそうだが、彼女の身の回りの事だって広瀬は気に掛かっていた。
広瀬の留学内示以降、借家の事やさつき自身とその周辺の事を三人で考えてはいたが、辞令発令以後の広瀬の渡航日指定はあまりにも急だった。
「俺と財部は八月五日出発、竹下は当分東京にいる。後の事は心配するな」
秋山はそう請け負ってくれたけれど、やはり気にせずにはいられなかった。
渡航が延びた事に広瀬は今更ながらほっとしている。
帰宅できない日はあっても、国内にいて顔を合わせられるのとそうでないのとでは天と地の差がある。

(とりあえず一度秋山と俺の予定を確認した方が良いか)
そう思い口を開きかけた矢先、さつきが顔を上げた。

「あの、ふたりの予定、改めて教えてもらってもいい?」
「ん?」
「広瀬さんこれから予定入るよね?秋山さんと財部さんが視察研修に出るなら広瀬さんも一緒でしょ?」
「そうだな、恐らく広瀬も一緒だ」
「秋山さんだって壮行会とかあるし……スケジュール帳持ってくるね。書いとかないと忘れちゃう」

さつきからは既に直前まであった甘えを含んだ雰囲気が振り払われていた。
もう気持ちを切り替えたのかと広瀬は内心目を瞠り、もういつも通りのさつきに戻ってしまった事がほんの少し残念でもあった。

――負担になりそうな事は避けるし、言わない。我が儘も言わない。甘えてもこない

財部に指摘されて改めて認識したばかりであっただけに、
(もう少し分かり易く甘えてくれてもいいんだがなあ)
そう思った。
先程のように子供みたいな甘え方でもいいし、不満を言ってくれても構わないと、余計にそう思う。
立ち上がり自室へと向かったさつきの背中に広瀬は小さく嘆息した。




左右両頁を四角いマスで区切り、日付を打った手帳を覗き込む。
「これは便利だな」
秋山の言葉に広瀬は肯首した。
さつきの手帳は自分たちが使っている当用手帳とは異なり月間の予定が瞭然だった。視認性が高い。
既に幾つか広瀬と秋山の予定が書き込まれていて、見ている内に「H出発」が二本線で抹消され、二十六日に再度記入されていく。

「あ、俺明日早速送別会」
「そうなの?」
「さつきさん、実は兄も渡航するんだ」
「えっいつ」
「十日にイギリスへ出発。それで明日旧藩の親睦会があるから俺も一緒にそこに出ろって、今日」

広瀬の兄勝比古は巡洋艦高砂の回航委員として渡英する。
同時期に職務で兄弟が選出されて海外渡航するのはレアケースで、広瀬の家にとってはこの上ない名誉な話だった。

「わあ、それは本当におめでとうございます、だ」
さつきはふたりが交互に説明するのをうんうんと聞いて喜んでくれたのだが、
「確かに名誉な話だけどちょっと心配だね。春江さん、頼れる人が一度にいなくなっちゃう。お子さんもまだ小さいし、ご実家も遠いし……お兄さんだって気掛かりでしょうに」
家の名誉よりも残される兄の妻子の方を気にしていた。

(これがさつきさんの"普通"なんだな)
そう思うに足る何気無い口ぶり。
(本当なら諭す所だ)
そうだ、本来なら、さつきがこの時代の女性なら窘められるべき事だった。
ここではまず家が一番で裏方の感情は二の次三の次。男の仕事に対して女は口を出さないし、ましてや負の感情は表立って口にしないものだ。自分の妹がさつきと同じ事を口にすれば恐らく自分は叱責するだろう。

しかし。
(この子だと違うんだよなあ……)
窘めるどころか優しい子だなと感じてしまう。
さつきは周囲にも、もちろん自分たちにも優しかった。しかもそこには何の下心も打算もない。
あの騒動以降、さつきからの優しさや思いやりに気付く度に、広瀬は建前や飾り気のない人の心の柔らかな部分に直接触れている気がしている。
それがまるで春の陽のように暖かで、広瀬にはそれが酷く心地良くそして好ましかった。
そしてそう思う気持ちが何かなんて、鈍くても流石に分かる。

(はあ……)
兄の予定を手帳に書き込む女の横顔を見ながら、心の裡、呆れで広瀬は自分を嗤った。
まあ、分かってはいた。
薄々ではなく、かなりはっきりと。
自分の気持ちの変化を直視していなかっただけで。
しかし同居を始めて四ヶ月程、あの騒動からまだ二ヶ月足らず、そして特にこの数日。
そんな短期間で特定の女にここまで心を浸食されるとは流石に思っていなかった。

共寝をしてからは特に、いや、広瀬としては女と共寝する事自体が異常事態であったのだが、広瀬も秋山もさつきも手や背中、髪や目元に触れる事に、触れられる事に疑問も抵抗もなくなっている。
全員がそれを許せるほど、気が付けば随分と心の距離が縮まっていた。
財部の言う通りインチともハートインチとも言い難く、普通の"仲良し"ではない。
独身主義を謳って今まで女と深い関わりを持たずに来たのにこのザマだ。
長年の信条を曲げてしまいそうな笑えない事態の筈だが、相手がこの目の前の女だと思うとそれはそれで悪い気はしないのが不思議だった。
本当に笑ってしまう。


「……で、今の所はっきりしている予定はこれ位だな。広瀬は?」
不意に名前を呼ばれ、広瀬は視線を上げた。
「ん、……ああ、俺は……これ以上は今の段階ではなんとも」
「ですよねー。今日聞いて今日じゃ無理ですよね」

そう応えながら、さつきが指に挟んだペンをくるくると回している。
器用に動く指先を秋山が「それどうなっているんだ」と凝視すれば、「え?すごいっしょペン回し。これ子供にめっちゃウケるよ」とさつきが笑った。
三人でひとつの部屋に寄り集まって何でもない事を言って笑い合う。
それは今日まで幾度となく繰り返されたありふれた日常の風景だった。

(これからこんな風に過ごす時間も少なくなる)
――否、違う。
(近い内に無くなって、もう二度と還らない日常だ)

そう思った途端湧き上がった曰く言い難い愛惜と寂寞に固く目を瞑り、緩く息を逃すと広瀬は口を開いた。

「時間作って写真を撮りに行かないか」

突然の提案に静寂が落ちる。

「……いいな、それ。行こう」

顔をこちらに向けて、視線を合わせて、秋山は恐らく広瀬の奥にある意を見通したのだろう、一呼吸置いて頷かれた。

「俺はここに書いてある日以外ならいつでもいい」
指先で帳面をコツコツと叩いた秋山に広瀬は空いているマスを指を差す。
「ならこの日だな。さつきさん、昼から空けておいて」
「え、私も行くの?」
数日後を指定しながら言えば、男だけの話だと思っていたのかさつきがキョトンと目を丸くした。

「三人で撮ってもらおう」
「でも写真は」
「何か記念になるものが欲しいんだ」

さつきの声に被せるように広瀬は言葉を続けた。
写真は残る。
それも顔かたちをはっきりと留めたまま。
それをまずいと考えるさつきの気持ちは、広瀬にだって分かる。よく分かるのだが。

このまま別れたら自分と秋山の手元に残るさつきとの思い出は彼女がくれた天然石だけになる。
それだけではなくもっと具体的な……
一緒にいた事をより鮮明に思い出せる(よすが)になるもの、はっきりとした記憶として彼女を留めておける何かが欲しかった。
流石に広瀬の口からそんな事は言えなかったが、好きな女の面影くらい手元に残しておいたって罰は当たらない筈だ。

「でも……」
「俺たち三人の分だけだ。周りには配らない。約束する」
「さつき、駄目か?俺も人の手に渡らない様にする。まあ……後世に残っても俺たちがさつきの事を言い残さない限り三人で写した写真というだけだ」

さつきは眉を寄せて暫く逡巡していたけれど、言い含めるように助勢した秋山に納得したのか、やがて納得したように頷いた。

「それもそっか。……なら私も欲しいな」
声には穏やかな明るさが戻り、俯いて軽く睫毛を伏せるとさつきは小さく笑った。

喜んでいる。
直接的な言葉はなくとも嬉々としている事がその表情からは滲み出ていて、それを目の前で見せられた広瀬は何とも言えないもどかしさに焦がれた。
かわいい。触れたい。触れられない。
肩が触れる程近くにいるのに、この言い表し難い恋しさを抱えてだと今の広瀬ではそんな事さえ難しかった。

「あーーーー、もう」

葛藤をそのまま声に乗せて吐き出せば、隣の薄い体がびくんと跳ねて、まん丸になった瞳がこちらを向く。

「ど」
「分かる」

唖然として寸時広瀬を見ていた秋山がさつきの声をかき消す声で断ずるように言うと、すぐに大きな声で笑い出した。

「え、えっ……?いきなり何?どうしたの」
「あっはっははは、さつきお前、きれいにして来いよ。八重さんに頼んでおくから着物を貸してもらえ」
「ええ……なんか全然分かんないし……その言い方……しかも着物指定……」
「馬子にも衣装にしてくれと伝えておく」
「ひっど!ちょっとどう思う?広瀬さん」

秋山の勢いに戸惑いから一転、破顔して振り返ってきたさつきの感情の起伏の激しさに広瀬も吹き出してしまった。

「っふ、はは、期待しとく」
「広瀬さんまで!元がコレですからね!大した事にはなりませんね!」

ケラケラと笑声を上げて背中から凭れかかってくるさつきを広瀬は胸元で受け止めた。
こっちの気も知らないでと女の罪深さに恨み節をひとりごちながら、しかしそれは受け入れるのだ。
窘めればさつきは止める、悩まされずに済むぞ。頭の中でもうひとりの自分がそう囁いたが、それは素知らぬフリをした。
狡く罪深いのはきっと自分の方だ。



47:rollin' days 20220715
rollingしているのはdaysだけではないのです……
6/26 留学辞令交付
6月末 副官に7/11の出発日と出発便を告げられる
7/3 出発が7/26に延びる
7/4 旧岡藩人親睦会兼広瀬兄弟送別会

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