1:道






じーわじーわ、じーわじーわ。
蝉が鳴く。
ひとりであったから隣に話しかける人もなく、俯き加減に視線を落として、少しでも日を避けるかのように黙々と歩く。

(あの木の下まで行ったら休もう)

そう思い自分を騙し騙ししながら、家路に向う高台を黙々と。
だらだらと流れる汗を手の甲で乱暴に拭い、あとどれ程の距離があるのかを確かめたくて顔を上げれば、暑さで歪む空気の中、黒い集団がこちらに向ってくるのが見えた。

(何じゃあれ)

目を凝らせばひとりは馬上に、その後ろに四、五人が徒歩で付いている。
先頭にいる馬上の男は見たこともない姿だった。
上から下まで真っ黒で、でも何年か前にご城下で沢山見たダンブクロとは全然違う。

星のついた帽子を目深に被り、この夏日に暑くはないのかと思うような黒地の軍服。
それに縫い付けられた金モールや金釦が殺人的な陽射しをキラキラと跳ね返している。
それが、その姿が何というか……

すれ違い様ぽかんと、それこそ口を開けて見上げる子供に、

「化けモンに会うたような顔しちょっど」

男は手を伸ばし、笑いながらその頭を撫でて行った。

それは何の変哲も無い、ありふれた出来事だったと思う。
子供から視線を外し馬を進めてしまえば、男の記憶にも残らないだろう些事。
ただそれだけの事。
それでも自分の生まれ育った土地と、その中に存在する世界しか知らない要之助には強烈な出来事だった。

「…吃驚した(たまがった)…あれがご一新…?」

ご一新、ご一新と大人は言うが、年少の要之助には何が新しくなったのかなんて分からなかった。
ご一新とは一体何なのか見当も付かなかったのだけれど、多分、あれが。
(あれがご一新じゃ、きっと)
男の綺羅綺羅しい姿とその一団の存在は要之助が今まで住んでいた世界に穴を開けてしまった。小さくても、確かに。

その時の要之助は男に返す言葉もなく、過ぎていく一団をただ見送った。
僅かな兵卒を連れて城下へ戻る黒い軍服が高台を下り、山の緑に飲み込まれていく様子をいつまでも見ていた。


剣豪として名の知れた人がいる。
そしてその剣豪は自分の家から近い所に住まう人だということを、少年 ― 加納要之助は知識としては持っていた。
帰り着いて兄の道之進に話をするとその剣豪、桐野利秋が山道で出くわした”ご一新”…
黒服の化けモンだった。
驚く要之助を余所に父と兄は、
「確かにあれは”ご一新”かもしれんなあ」
笑いもせずに静かに頷いた。

武士階級とはいえ、米を口にすることが稀である程の貧しい生活。
武士の端くれとはいえ、内職をしなければ生活できない日々を送っていた吉野の下級武士は唐芋侍とも紙漉き武士とも呼ばれ蔑みの対象とされてきたものだ。
中でも中村 ― 桐野 ― の家は罪人を出した事もあって、僅かな俸禄さえも奪われて無かった。
そんな中から這い出して己の腕一本で少将にまで上り詰めた桐野は、正にご一新を体現している男だろうと。

「ふぅん…」

父と兄の言葉に生返事だったわけではない。

きらきら、きらきら。
間近で見た新しい世界。
きらきら、きらきら。
太陽の下で一際強い光芒を放つ存在。

目に見える”ご一新”の姿に単純に感心し納得し、そして強烈な憧れを持った。
生返事だったのではなくて、出会った時の印象が強すぎて要之助はそんな感想しか出せなかったのだ。

それはもう何年か前の話。





ご一新の頃と言われると要之助は今以上に幼くて、生まれ育った故郷が世の秩序を一変させる役割を担ったという事など殆ど分からなかった。
けれど周囲の大人が、二才(にせ)が、親が語る言葉の端々に自分が知らない、及びもつかない世界で何やら大きく物事が動いているという事くらいは、感知する事は出来た。
世間の尺度は、以前とは大きく変わったらしい。

「らしい」という伝聞形であるのは、要之助が生きる世界まで“変わった世の中”が及んでいないからだ。
幾分か更新はされても旧然たる藩秩序がまだ生きていた故郷では、何が変わって何が変わらないのか、飛びぬけた形でなければ要之助にはよくは分からなかった。
だから明日も明後日も、そしてそのまた次の日も、今迄と同じ様な日々が続くのだと自然に思っていた。


そんな日常の中、要之助は実家の傍で“ご一新” ― 桐野の姿を見かける事があった。
桐野は宇都谷(うどんだに)にいる事が多かったようだが、合間を縫って老母に顔を見せに来ることがあるようで、鉢合わせする事がたまにあった。

(うわ、うわわわ)
…あったのだけれど、話しかける機会もあった筈なのだけれど。

その姿を見ると要之助はどぎまぎして、ついつい挨拶もそこそこに逃げ出してしまうのだった。
少女じゃあるまいし、小稚児でもあるまいに。

(いい年してお笑い草じゃ)

その度に地面にのの字を書いてしまいそうな勢いで落ち込んだけれど、強い憧憬は簡単には要之助を離してはくれなかった。

(じゃっどん…わっぜカッコよかな…)

そうは思っても言葉を交わすなんて事が殆どできず、機会を逃しては背中を見送る事が多かったので、桐野と言えばその後姿ばかりが目の裏に映るのが現状で。


会う度に失敗した笑顔を張り付りつけた近所の少年。
目が合うたびに姿を隠してしまう要之助を不審に思ったのか、友人である兄にある時桐野は笑いながら、
(おい)なおはんの弟に嫌わるっとじゃろか」
などと言ったらしい。そんな言葉に、
「そっ、そげん事なか!ありえもはん!!」
眦を上げて(兄に)猛抗議するのだけれど、説得力なかな、と、
何故(ないごて)桐野に関してはそげに引け腰になるんじゃ」
本当に仕方無さそうに兄は溜息をつくのだった。

背中を見つめるばかりで、前にも後ろにも進めないでいる要之助をそれとなく慰めるのはいつも穏やかな兄で。
物事に拘らない颯々とした男振りに憧れている事を知ると、自分や同朋が知る桐野の話をしてくれたのも兄で。

きらきら、きらきらと目の奥にいつまでも残るあの日の光。
光に包まれた世界にいた人。
あの人に近付いてみたいと。手を伸ばしてみたいのだと。
要之助の言う事を笑いもせずに聞き、背中を押してくれたのも兄で。

「一度吉田に行ってみっか」

やはり手を引いてくれる兄の言葉に夢中になって、

桐野の今の姿が何処から来とっともんかも考えんといかんぞ

単に見える所だけを見ていても駄目だと付け足された言葉を、その時はあまり考える事無く軽く流した。







吉野の台地には西郷大将が関わる開墾社があり、そこから北方約五里の宇都谷で桐野も従僕と開墾に勤しんでいる。
行けば意外なほど簡単に会えた。
久闊を叙した道之進の後ろからぴょっこりと現れた要之助を見ると桐野は、おや?と片眉を上げて、

「俺な汝に何か悪かこっしたじゃろうか」

何の前置きもなく、覗き込むように真顔で尋ねるものだから、

「…!…そっ「ははははっ!」」

そげん事ありもはん、といつものように反論しようとしたのだけれど、道之進の哄笑に阻まれてしまった。
見れば兄も桐野もこちらを見ながら、示し合せた様に笑っている。

「桐野、あんまりからかわないでやってくれ。この子はお前に会いたくて来たのだよ」

兄が少し低いしかし明るい笑いの残る薩音でそう告げると、桐野は軽く頷き、一指の欠けた手で自分より遥かに若い後進の背を押した。

「ゆっくりしていけ。茶でん淹れっか」


20201024改訂再掲/070924
副題は「言葉な束」様旅立ち10題「道」から



| back | next
Long | top