2:嵐の前







兄に引き合わせて貰ってから要之助は幾度か桐野を宇都谷に訪ね、何度か開墾小屋に泊まりもし、その内住み込んで開墾を手伝う事になった。

「実方のモンじゃっで教えんでも出来っな?」
分からなかったら見て覚えろと鍬を振るう姿は堂に入っているし、
「こいが崇高なる"野良着すたいる"じゃ」
とドロドロの農耕姿で、どこで覚えたのかあやしい横文字を使っては要之助や周りにいる人間を大笑いさせた。

要之助相手に多くを語ることは無かったけれど、桐野は楽しく、そして優しかった。


桐野には子供がいない。
だが要之助程の子供がひとりふたりいてもおかしくない年であったし、元々子供が好きだったということもあるのかもしれない。
口には出さなくても桐野は年少の後輩をまるで我が子に対するように接してくれた。
シラス台地に鍬を支え、
「もっと力入れんか!」
とそのへっぴり腰を励ます豊かな笑顔は、周囲や、それを向けられた要之助さえもがハッとするほど穏やかで、 彼が旧幕時代にはその剣の腕が敵味方から恐れられていたと言われても、要之助には俄かには信じられなかった。

ただ、そうではあっても桐野は周囲の人間とは何かが違った。
宇都谷の桐野の周辺にいたのは彼の従僕であったし、開墾地にいるのは若い者ばかりであったから余計にその違いが水際立ったのかもしれない。

一言で言えば”迫力”。
幕末から維新にかけて己の生命を時代の荒波に晒し、己の力で生き残ってきたという隠しようもない矜持と雰囲気がそこには立ち込めていて、その存在感たるや黙っていても圧倒的なものだった。

例えば桐野の左手の中指は途中から切断されて無かった。
初めて宇都谷を訪れた時から気が付いていたものの、面と向かって聞く事も出来ず。
しかし気になるように、ごく偶に投げかけられる要之助の視線に気付いた桐野が理由を話してくれた事があった。

「江戸にいた時にな、……不覚じゃった」
東京がまだ江戸だった頃、刺客に襲われ、躱し損ねた刃が中指切断に及ぶ傷を負わせたのだと桐野は言った。
風雲の中にいた己を思うのか、それともその後の絶頂期を思うのか、桐野は少し睫毛を伏せ考える素振りを見せて黙り込んだのだが、
「…じゃっでこいはちょいと力加減が難しゅうてな、農作業中に俺の大声聞いたら頭回す前に逃ぐっ事じゃ」
「剣豪も泥土(どろつち)には敵いもはんか」
周囲の若者の声に「おお、敵わん敵わん」と朗らかに笑うと、周囲もそれに釣られて笑ったものだった。
そんな時は年の酷く離れた兄の言葉が脳裡に浮かんだ。

「桐野の今の姿が何処から来とっともんかも、考えんといかんぞ」

(兄さぁ、こん人の奥には折れん自分の"型"がある)

その型が是か否かは別として、桐野が彼を取り巻く状況に対しても自分の型を堅持しようとしているのは過ごした時間が僅かであっても見て取れた。

彼には彼独自の生き方があり、美学があり、哲学がある。
そしてそこから派生する優しさにも、厳しさにも、その凜とした姿にも、剣を持つ事で培かわれてきた強さが反映されているようだった。

それは他から与えられたものではなく、桐野利秋というひとりの男が剣を振るい、血と汗を流しながら、自分の力で手にしてきたものだ。
それが今の彼を ―― 彼の存在感を作り上げている。


それが朧げながら分かり始めると、要之助の頭の中にいた"憧れ"は手の触れられる"桐野利秋"という実在の存在に変わり、そして遥かな後年、同時代の誰からも愛された薩摩隼人のひとりと謳われた一個の男の姿を、要之助もまた以前にも増して愛するようになった。






寒風が汗をかいた背中を吹き抜けると、わっと要之助は身を縮め木刀を収めてしまった。
いつもなら続ける剣の稽古も、もう今日は止めようと思う程集中が出来なかった。
はあっと寒さで凍える手に息を吐きかけ、両手を擦り合わせながら、何度となく訪れる客に胸騒ぎを覚えた。

(あ、またじゃ)

目を血走らせた男が桐野を訪れては肩を怒らせて帰って行く。
要之助が宇都谷で世話になるようになってから、今まで似たような事は何度かあった。
その時も何やら恐ろしげな緊張が走ったものだが今回はまたそれとは違っていた。

何かが違う。
尋常の様子ではなかった。

(何が起きちょるんじゃろう)

要之助には勿論分からない。
しかし桐野に聞ける様子でもなかったので、桐野の従僕の幸吉なら知っているかもしれない、そう思い彼を探そうと視線を巡らせた所で、兄の道之進が馬を走らせて来る姿が見えたのだった。

「兄さぁ!」

何故かホッと息を吐いて大きく手を振ると、こちらに気付いた浅黒い顔から白い歯が零れたのが分かった。
道之進はどっと土埃を上げて降り立つとすぐに、

「おう、息災の様子じゃな。…桐野は?」
「奥においやっとです」
「荷物ば纏めちょけ」
「え?」

どうしたのかと問い掛ける間も無く、兄は家屋に吸い込まれて行った。

(荷物?)
訳が分からずその場に立ち尽くしていると、
「さあ、私も手伝おか」
と不意に声を掛けられ、驚いて振り向くと妙に小ざっぱりした格好に着替えた幸吉がいた。
にこにことした人の良い笑みが今は浮かんでいない。

「あんな、この様子やったら戦が始まるかもしれへんわ」
「…戦?」
「そや。せやから要之助さんは、家に帰って母上を守ったらなあかんねんで」


いかにもピンとこないといった風情の少年の顔を幸吉は見つめた。

何が起こっているのか。
実を言うと幸吉にもよく分かっていなかった。
ただ分かるのはこの今の状態が、桐野が望んでいない方向に進んでいるということぐらいだ。
そして桐野とその周囲の様子を傍で見ていた幸吉には、今のこの状況がどう見ても良い方向に転ぶとは思えなかった。
元来楽天家である主の懊悩する後ろ姿を見れば見る程、それは疑問符の付いた思いから確信に変るのだった。

この雲行きの悪さ…
戦か、戦に近い事になる。
それは幼い日に故郷の京都が戦に巻き込まれ、自らも孤児になった強烈な原体験から来る幸吉の実感だった。

そして戦が起これば要之助の兄は、桐野よりもやや若いこの子の兄は、軍の主力部隊として駆り出されるだろう。
そうなれば恐らく五体無事で帰ってくることはまず難しい。
(…生還(かえ)ってこられへんかも)
だが要之助はまだ十三歳だ。
この少年は戦場に赴く事なく済むかもしれない。

「幸吉どんはどげんすっ」
些か緊張感を欠いた声が響く。
子供特有の明るさはこういう時は本当に救われる。
幸吉はそう思った。

「私?私は…先生の従僕やからな、どこへでも付いてくで」


さあ、荷物纏めて先生の所に行こ、挨拶の口上は大丈夫やね、そう言いながら背中をぐいぐいと押す幸吉の表情は、要之助には最後まで見えなかった。


20201024改訂再掲/070928
単なる憧れだった人が、血の通った存在に切り替わるのってどんな時なんでしょう。
桐野の指については BTBRBあとがき でも書いた通りですが、このサイトでは左手中指ということ統一したいと考えています



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