メモ






解説がいりそうかしらと思うものを所々ピックアップ。いらなさそうなものもピックアップ。
要するに私のメモ。


★第六話★

九月一日の吉野街道、吉田街道付近で起きた戦闘について。

■ 経過は大体話の中で書いている通りです(殆ど書いとらんがな)。
政府軍が鹿児島市街地を立ったのが九月一日の午前五時。軍を二分割し新選旅団を吉野へ、第二旅団を川上村へと派遣。市街地に入る主街道を抑え、薩軍が纏まった数になる前に迎撃するのが目的。
一方薩軍は前・中・後軍の三軍編成。辺見隊を先鋒とし、蒲生から一路城下を目指します。前軍と中軍が吉野私学校に入り後軍の到着を待っている間に政府軍より攻撃。前軍の辺見隊は戦線を離脱し伊敷へと迂回して市街地へ、中軍は吉野の帯迫と花棚の南北方向に分断され、そこで交戦しはじめます。
同日夕方から実方辺りは薩軍が掌握していましたが、二・三日で衆寡敵せず後退。
しかしこの辺りって…読むものによって微妙に記述が違う…土地勘がないので土地の高低、距離感がイマイチ分からないのですが、進軍スピードは速い気がします。

■ 薩軍の動向に関し、鹿児島県庁はかなり神経を使っています。出先の政府軍に変わったことないかという打診もよくしていました。薩軍が尋常ではない速さで近づいてきているという事はよく分かっていたようです。ただ薩摩の先鋒隊が入って来た時の慌て具合を見ると、多分実感はなかった。笑。敵軍が市街地に入る前に迎え撃つという目的で殆どの軍が出払っており、虚を突かれたという点は大きいと思うのですが、それだけ薩軍が市街地に入ったスピードが早かったということでしょうか。
cf:
『薩南血涙史(復刻版)』(加治木常樹/青潮社/1987)
『増訂西南戦史』(川崎紫山/博文館/1900)
『新編西南戦史』(陸上自衛隊北熊本修親会編/原書房/1979) 付図集がとても便利
『鹿児島県史第3巻』(鹿児島県/1931年)
「河野翁十年戦役追想談」(『敬天愛人』18号/塩満郁夫)
『鹿児島県都市地図』(2001/昭文社)


★第九話★

本当は第八話でした。長かったので分けました。ふたつに割ると短い…
夏陰口より入城の想定。5町は大体500〜550mです。
時間的には9月4日の早朝だと思って下され。本を読んでいる限りでは、恐らくこれが城山方面に入れたぎりぎりのタイミングだと考えます。1・2日に檄が飛ばされ、3日に到着する人が多かったそうです。3日には補給の為に城山からすんなり出ている人もいるのですが、包囲が成ってしまい結局帰ってこれなかった。
6日に谷山口方面(城山から見ると西南方向)が閉ざされ、これで重包囲が完成したとする本が多かったです。


★第十三話★

西郷隆盛の助命嘆願の流れ

■ 何を見ても結構な行数を割いて書かれているので、特に説明も不要かと思われ候。依って個人的メモ。助命嘆願をしようという動きは2度起きています。1度目は詳細な日付が不明、9月10日前後かと思われる。讃良清蔵という人物が西郷の助命嘆願について相談しようと野村忍介を病院に訪ね、野村の近くにいた中島健彦、辺見十郎太の賛同を得て表面化。坂田諸潔が諸将を説き、山田亨次が意見書を起草。集まりで趣旨を説明するも、西郷は一言、「開戦以来どれ程の人間が死んだか」と。遅れて来た桐野が趣旨を知って一喝。会終了。しかしながら坂田は諦めきれなかったらしく、別府九郎に相談の上政府軍に使いを出すも梨の礫。すったもんだの末桐野にばれて、事流れたとのこと。
■ 2度目の助命嘆願の動きは9月19日、20日頃から。河野主一郎と辺見十郎太による。糧食問題、武器弾薬の問題、何より攻撃を仕掛けてくる政府軍との彼我の差から、薩軍の士気が目立って落ちてきたのがこの頃かららしい。前線で指揮を執っていた河野がそれを感じていた頃、病院にいた辺見からの要請で面会に行く。初めは戦況如何の話であったが、河野が常々考えていた「西郷先生は助けたい」という意見を述べると、辺見も直ちに賛成。隊長クラス数人にも相談、村田新八・池上四郎の賛意も得る。中心なって動いていたのは河野。


★第十四話★

西郷隆盛の助命嘆願の流れ 続

■ 先述のように辺見と語らった河野が9月19日、20日と薩軍幹部や隊長クラスを説いて回っています。彼が桐野を尋ねたところ、『微恙で寝ていた』。微恙とは書いて字の如く”ちょっとした病気”のこと。軽い病気という事で風邪か何かで熱でも出たのかと長い間思っていましたが、河野の追想談では「腸カタルで寝ていた」となっています。 「薩南血涙史」では河野が桐野を訪れた際、桐野が微恙で寝ていたため会わなかったと書かれていますが、ここに追想談と若干の相違が見られます。
追想談によると、河野が訪れた際桐野は眠っており、その傍らには別府晋介がいたといいます。河野が別府に説いて回っている趣旨、それに村田新八をはじめとする幹部なども賛成している旨を説明している間に桐野が目を覚まし、桐野にも同様の説明したところ、「先生にも直接意見を聞け」と言われ、西郷の元に向かったと。「血涙史」と「追想談」、どちらがどうかという判断ができませんが、「追想談」の記述を採用しました。
追想談には河野が話した時の桐野の反応が記されおらず、それが残念です。そもそもこちらが実際かどうかもよく分かりませんが、もし河野が桐野と面会していたらば、西郷に助命嘆願の一事を隠し通したのと同じく、桐野・別府にもそれを隠して説明したと考える方が自然な気がします。
しかし別府は寝ている桐野の面倒を見ていたのか、桐野の様子を見に来た時に偶々河野が顔を出したのか。多分後者でしょう(笑) 明治の話を読んでいると腸カタルという病名は結構耳にしますが、今でいう腸炎だったようです。急性と慢性があり、急性腸炎は食中毒や暴飲暴食、細菌が原因で罹患することが多いそうな。軽いと1・2日〜数日で治るとの事。
 cf:「河野翁十年戦役追想談」(『敬天愛人』18号/塩満郁夫)
■ 河野と山野田が軍使として政府軍に向かった日は、意外な事に特定ができません。9月21日か22日かのどちらかです。「血涙史」では21日、「西南記伝」「西南戦史」では22日と記されています。正直微妙な所ですが、19、20日の河野の動きを見、彼と彼をバックアップしている人間の心情を考えると城山を降りるタイミングを遅らせるのは、やや不自然のようにも思えます。その一方、22日に西郷隆盛の名前で2人の下山の趣旨書が出ています。内実はどうあれ政府軍に使いを出したという事に対する内部の動揺を抑えるというのが狙いだったと思われる文書、それを思うと22日だったのではとも思えるのですが…(苦笑)
ホント微妙な所ですが、前後の流れやタイミングを見て血涙史を採用しました。


★第二十話★

■ 城山陥落後に大雨が降ったという話はよく知られています。小説等を読んで、城山が陥ちて直ぐの話かと思っていたのですが、実際には午後の話だったようです。話中では城山陥落後間もなくのように書いていますが、ここは事実と相違しています。幾つか小説など読み物等も調べてみましたが、勘違いしやすい表記であったり、「陥落直後」と明記していあるものもちらほらありました。が。かく言う私も陥落直後だと思っていたひとりです(笑)。『翔ぶが如く』を読んでそう思ったのですが、よくよく読んでみると戦闘が終わった後に「夕立ちが」降ったとあるのですよ…なんて微妙な書き方(笑)
cf:『元帥公爵大山巌年譜』(尾野実信編/昭和10年/大山元帥伝刊行所)
『午前四時各旅団より、二中隊を選抜して進撃す。戦闘一時間余にして、敵の首領等悉く斃れ、七時過、戦闘全く終る。午後大に雨降る。(日記)』

★第二十一話★

■  城山陥落後、捕虜や降伏者の収容に利用されていたのが、磯にある集成館の石蔵だったそうです。最もすぐにこちらに移動させられたようではなく、一度米倉(9月4日に貴島清が夜襲を掛けた所と同所と思われます)に収容された後、集成館に移動した模様。集成館は現在観光地になっている尚古集成館。手元にある資料にも幾人かの言があります。
1)『西南戦争前後の思出の記』、別府九郎の段。捕虜を「集成館の石蔵に留置する」ために、城山から引率される様子が描かれています。捕虜の面々は特に拘束もされていなかったようです。
2)前出河野主一郎の「追想談」。河野と山野田が軍使として下った際、まず磯の集成館に連行され、「磯の紡績の石蔵」に幽閉されています。河野によると、石蔵は五十枚敷(五十畳敷か)、一間の戸口がひとつと、西側に三尺(180p)の窓があるのみ、そこが薩軍の人間でいっぱいになっていたそうです。しかもそこではコレラが流行しており、それが原因で相当数の人間が死んでいる様子が記されています。山野田は23日に城山に帰り、河野はそのまま止まり石蔵に幽閉されている。24日の夕方に城山で負傷した薩軍の人間が更に石蔵にやってきたことから、その日に城山が陥ちた事を知ったといいます。
2)『鹿児島之史蹟』、別府晋介の駕籠(輿?)をかいていた大内山平畩の談。いよいよ城山での戦闘が終わりに近付いた時に別府に暇を出されたが、逃げ惑っている内に政府軍に捕まり連行されています。「米倉には沢山の者が縛られて居りました翌日磯の集成館跡へ送らるゝ途中田の浦の重富屋敷の本営の前で一寸検べられ、磯集成館で調べがあり翌日放免になりました」。何を聞かれても本当に何も知らなかったため、簡単に釈放されたようです。人数考えたら、全員が石蔵に収容されたとは考えにくいですがねえ。いかんせん他に情報がありません。
■ コレラ…経口感染する感染症の一種。日本では幕末・安政五年の大流行が特に有名です。四・五日の潜伏期間を経て下痢や嘔吐による激しい脱水症状で死に至り、幕末には十万に及ぶ人が罹患して死んだとも言われています。正確な数字は分からないようですが。感染するだけに患者の隔離が重要とされます。河野がそう言った知識を持っていたかどうか分かりませんが、石蔵にいたのが多く非戦闘者(人夫等)で、「死を覚悟している士官ならいざしらず彼等をこんな事で死なせるのは忍びない、場所を分けて助けてやれ」と進言したようですが、「そんな場所が無い」と却下されたようです。違う資料で西南戦争末期から市内ではコレラが流行していたとあったのですが(西南の役/旺文社/1984)、なんとなくこの捕虜の扱いがそれに輪をかけていたのではないかという気がします。
cf:
『西南戦争前後の思出の記』(竹内才次郎/昭和12年/自費出版)
「河野翁十年戦役追想談」(『敬天愛人』18号/塩満郁夫)
『鹿児島之史蹟』(林吉彦/昭和5年/鹿児島県教育会印刷部)
■  濫觴(らんしょう) 。嚆矢濫觴という四字熟語でも使われます。嚆矢こうしは鏑矢の事。鏑矢は戦を始める時の合図として利用された第一矢です。音が鳴る。どちらも同じ意味で、「物事の始まり」という意味です。

★第二四話★

■ 『蹞歩を積まざれば 以て千里に至る無し』
原文は『不積蹞歩無以至千里』となります。荀子の勧学編。
「蹞歩を積まざれば 以て千里に至ることなく、小流を積まざれば江海を為すことなし」
千里の道も半歩半歩の積み重ねがなければ到達しないという意味。「きほ」と読みます。大漢和字典によると「一足の距離」、「半歩」という意味。「両足進むこと」を「歩」というのだそうです。漢字の意味は深いですね。
■ 九州臨時裁判所についてちょこっと。西南戦争中の4月以降設置された臨時裁判所で、戦争遂行と並行して捉えた薩軍参加者を裁いていました。所在地は福岡、後長崎、各地に出張所が設置されていたようです。当初は司法臨時裁判所も存在していました(県令であった大山綱良はこちらで裁判を受けています)が、後に九州臨時裁判所の方に併呑されています。鹿児島、福岡、熊本等各県の生き残った薩軍参加者の内、指導者格がいずれも斬罪、禁錮以上の刑に処せられた者は2764人。裁判にかけられ免罪になった兵卒及協力者は4万余名に達するという、未曾有の大裁判でした。
量刑の基準としては「主謀、参謀・斬、大隊長級10年、中隊長級5年、小隊長級3年、半隊長級2年、分隊長級1年」。処刑2764人、免罪40349人、無罪449人、判決前死亡47人。
処刑者中斬罪22人、懲役10年31人、同7年11人、同5年126人、同3年380人、同2年1183人、同1年614人。その他100日以下の懲役、除族など。裁判の執行については、斬刑は長崎、熊本の各臨時裁判所で執行。懲役刑の執行については各県へ懲役人を配属していたようです。
『薩南血涙史』によると、鹿児島の九州臨時裁判所出張所は島津久明邸に置かれていたとあります。下方限警察署もこちらに置かれ、更に獄として同家の土蔵が利用されていた。国事犯全てをこの獄に係留し、裁判所の取り調べが済んだら磯の集成館へ移動、そこから長崎の臨時裁判所へ護送していたとあります。
「河野翁十年戦役追想談」では、河野はいきなり集成館の石蔵に放りこまれ、戦後日置屋敷の九州臨時裁判所に二日拘留された後、四・五日して長崎に護送されたとあります。河野の話は西南戦争後の事になりますので、色々と前後している可能性がありますが。
■ 21話のメモにも石蔵の様子をピックアップしましたが、実際の所は河野が残した話以外今のところ材料がありません。実際の所傷病者の為に医者が入ったかどうかも定かではありませんが、その辺りは創作という事で御寛恕下さい。
■ 奥静吉について。少年と実方で再会させる積りでしたが長くなるので話中では触れませんでした。彼も桐野の刀を持って無事実方に辿り着いた思いたい所ですが。桐野家に着いた事は着いたと考えていいのではとは思いますが、では刀のその後は?といった不明な点がちょっと多いですな。
桐野が刀を託す際、「お前の兄も行方知れずになっているのだから云々」と渋る静吉を説得していますが、その兄の消息が『鹿児島之史蹟』に載っていました。「奥常次郎は可愛嶽突破後転戦又転戦の間に於て道を失し或炭焼小屋に潜伏し、戦争が鎮まつて後帰鹿したことは周知の事実」だったそうです。蛇足ながら。
cf:
『日本政治裁判史録 明治・前』(我妻栄 編/昭和43年/第一法規出版)
「河野翁十年戦役追想談」(『敬天愛人』18号/塩満郁夫)
『鹿児島之史蹟』(林吉彦/昭和5年/鹿児島県教育会印刷部)

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