右から二番目の星より先に



 夜道を歩いていると先生が空を見上げて「今日は満月か。月がおれんじ色してる」と仰った。先生の抑揚の無い声に導かれて深い青に暮れた夜空を見上げれば、黄色よりうんと濃度を上げたオレンジがぽっかりと浮かんでいる。ぶらぶらと揺らしていた手をお気に入りのパーカーのポケットに入れた先生は淡々としたまま「きれいだな」と一言付け足した。その言葉には他意などなく、俺はまごつくこともなく「そうですね」と言う。
 夕暮れ時に協会から呼び出しを受け、D市まで怪人退治に向かったのは数時間前のこと。「もうすぐ晩飯時だから、俺もついていく」と仰ってくださった先生は、二人揃って夕食をとる為に、貴重な時間を割いて俺に付き合ってくださった。
 先生なら一撃で倒してしまえる大型の怪人に、俺は身体を壊されないまでも思ったより時間をかけてしまい、結局方がついたのはいつもの夕食時を疾うに過ぎた頃だった。そのあと、怪人の残骸を協会に任せ、D市のスーパーで安売りされていた卵を二パック買ってから帰路についた。
 時刻は21時を回っている。
 ゴーストタウンの手前は中心街と比べると人の気配がほとんど無く、左手に持つ買い物袋がカサカサと揺れる音がよく響く。
 じり、と切れかけた街灯の明かりが夜を一層青く照らしてた。
 耳は買い物袋が立てる音ばかりを捉えるが、俺の思考はまるきり、先生に囚われている。
 先生は、ご自分であれば数秒で倒せる怪人を俺に任せてくださった。先生よりもずっと劣る俺では、時間が掛かるのは火を見るよりも明らかなのに、それでも俺が強くなる為に、俺に任せてくださったのだ。しかし俺に任せるだけなら、先生は家で待機してくれていたってよかった。それをしなかったのはやはり二人で揃って夕食をとる為で、もし俺に分が悪い怪人であれば、俺の身体が破壊される前に手を貸してくださるつもりだったのだろう、と考える。つまり、俺は先生に少なからず大切に思われている。一緒に食事をとりたい、と思ってもらえる程には。
 怪人と対峙している時にも、排除しなくてはと正義を貫く意識の傍らで、そればかりを考えていた。加えて先生がそばで見ているのだと思うと、戦闘の最中、コアを中心に力がみなぎり、動かす身体もいつもより幾分軽く感じられた。時間は掛かったものの身体に傷がないのはそのお陰だろう。
 先生は偉大だ。行動一つで俺を強くしてしまう。
 半歩ほど斜め前を歩く先生は一度夜空を見上げてからそう時間も開けず、またぼんやりと月を見ていた。それから前触れもなくこちらを振り返る。露になった表情は一見普段と変わりなく見えるが、その胸の内にはうっすらとした感情を秘めていて、どうやら先生は今機嫌が良い。
 俺の出動で夕食が遅れたのに、言ったっていい不満の一つも口にしない。それどころか怪人を退治した俺を「よくがんばったな」と褒めてくださった。
 先生は偉大で、そして寛大だ。
 先生が仄かに浮かべる楽しげな表情につられ、俺の心もふんわりと浮かぶ。

「ジェノス、家に帰ったらうどん作ろうぜ。月見うどん」
「はい。作りましょう」
「玉子は半熟な」
「ええ」

 いつもとそう変わらない表情と声音をして、その中でゆるやかに機嫌の良さを窺わせる先生は、他からしたら反応の一々がひどくわかりにくいようだが、俺にはそのわかりにくいと呼ばれる表情の変化などの一切がとても繊細なものに映る。
 今機嫌を良くされているのは、お預けを食らわされていた夕食のことを考えているからだ。
 それを見抜くことのできるこの目に誇らしさすら感じるほど先生を愛しく想っているが、先生はそんなこともちろん知らない。だからこんなにも容易く、俺を許してくださるのだ。隣を歩くこと。共に暮らすこと。同じ食事をとること。その許されている全ての行為に、好意と名付けられた劣情が伴っているなんて知る由もない先生は、最近の子供なんかよりずっと純粋なのである。
 今日もまた、誰にも汚せない純粋さをもって、先生は夜空に浮かぶ月の美しさに気づいてみせた。昨日は雲のない青空に喜んで、一昨日は晴れ間に降る雨に珍しいなと目を丸くしていた。
 そういう時、さざ波のようにひそひそと移ろう先生の心の動きを機敏に読み取り、その心がどういう感情を示しているのかを見抜いて悦に浸る俺の好意とは、ひょっとしたら少し、おかしいくらいなのかもしれない。
 あア、今先生は喜んでいる、と。
 楽しんでいる、と。
 機嫌を損ねてしまった、と。
 きっと笑ってくださる、と強さの秘訣とは関係の無いところにまで潜り込んで、先生の感情を探り当てては、うっすらとした笑みを浮かべている。
 この世の誰よりも強い先生を、この世の誰よりも深く知っている。そうしてこの世の誰よりも先生の近くにいる。
 今は世間から大きな誤解を受け嫌われている先生だが、先生を嘲笑う愚かな民衆だってきっと、先生の素晴らしさの片鱗でも見つければころりと態度を変えてちょろちょろとそばをまとわりつくに違いない。先生は優しいお方だから、そいつらを威嚇もせずに野放しにする。俺がそばにいるのを許すように、そいつらのことも許すのだ。
 しかし、先生が誰も彼もを許して、その許された誰かがどれだけ先生に入れあげようと、一番最初に先生の素晴らしさに気づいたのは俺だ。一番そばにいるのも、ずっとそばにいるのも俺だけだ。他の誰が先生の偉大さや尊さを説いたところで、俺が先生へと向ける想いに敵うはずがない。これに関しては誰にも負けない、と胸を張って宣言出来る。
 だから、先生の見逃してしまいそうなほど小さな反応を見つけては喜ぶ。俺は、先生のすべてを知っているんだと、この目を誇るのと同じようように、先生を想い続ける心を、俺自身に、他人に、先生に対してだって、誇りたいのだ。
 こんな風にして、今はまだ架空の存在でしかない敵を相手に、決して先生は譲らない、と闘志を燃やす俺は、客観的に見ればやはりおかしいくらいで、それはいっそ愚かと呼べる程かもしれないが、譲れない想いというものは、必死である分滑稽にだって映る。だがそれを知るのも現状ではこの世で俺ただ一人なのだから、今は好意の名のもと存分に愚かでいよう。
 斜め後ろを歩いていた歩幅を少しだけ大きいものに変えて先生の隣を歩く。ほんの少ししか違わない背丈をしているのに、柔らかく丸まった背中のせいで俺よりずっと小さく見えた。それを心底愛しく想い、幾度も過らせてきた欲を飽きずに抱く。この方をいいようにできたなら、と。
 ゴーストタウンに入ると静けさは一層深さを増し機械の身体が硬く鳴る音と、先生の柔らかな足音、買い物袋の乾いた音だけが静まり返った夜の中に響く。
 袋の擦れる音に消されてしまいそうな先生の足音。それは欲を抱く俺に対する警戒心の一つもなく、リズムを刻むように軽やかで耳に心地いい。
 先生がまたも夜空を見上げる。
 これで三度目だ。
 先生は、月が好きなのだろうか。それとも空が好きなのだろうか。先生が好きなものも、感じる気持ちも全て知りたい。
 さりげない動作のすべてが、俺の中で貪欲に飢える探求心を刺激して止まなかった。
 視線は常に先生を追いかける。
 気づけば「先生」と声を掛けていた。

「今日はよく空を見上げていますね」
「そうか?」
「ええ。これで三度目です。以前あの宇宙人と戦った時、月に行ったと仰ってましたが、もしやご自分の痕跡を探してらっしゃるんですか?」
「そんな化けもんみたいな視力してねーよ」

 先生は声に小さく呆れを滲ませていて、凪いでばかりの口調に現れた感情に、思いがけず頬がゆるみそうになる。

「では、月がお好きなんですか? それとも空が? 星ですか?」
「矢継ぎ早だな。そんなに知りたい?」
「俄然知りたいです」
「俺の強さに関係ない話だけど」
「構いません」
「構いませんって、弟子入りの目的はどこいったんだよ」
「息抜きしろ、というのが先生からの教えの一つにありまして」
「ハゲの思考を知るのがお前の息抜きなのか」

 呆れた声に呆れた眼差しが追加されて、小さな黒目が俺の目を見た。

「ただのハゲの思考には毛ほどの興味もありませんが先生となれば話は別です」
「お前……。わざとじゃないと信じて許してやるけど言い回しに気を付けろよ」

 くっと眇めた目にじとりと見つめられる。
「はい。気を付けます」と返せばふぅと息を吐かれた。その、仕方のない奴だというような仕草。そこに浮かぶ様相は、先生が見せる表情の中でも特にお気に入りの一つだった。先生が、俺を許すときの顔。
 先生に許される瞬間というのはどうしてこうも心地いいのか。受け入れられている気がするからなのか。どんどん先生の内側に入ることを許されているようで、高揚さえしてくる始末だ。

「それで先生、熱心に夜空を見上げられるのは何故ですか?」
「ん? ああ、珍しいからさ。おれんじ色の月なんて」
「月がお好きなんですね」
「好きってほどじゃないけど」

 俺に向けられていた視線はそっと前を向いて、そのまま上空にある月を捉える。
 俺の言葉を否定した口で「でも」と続ける横顔は美しかった。

「ジェノスみたいだなぁって思った。お前の目みたい。真ん丸くて、ずっとついてくるみたいに、そこにあるだろ?」
「……俺の目はあんなにオレンジではありません」
「うん。そしたら、さっきはすごくきれいに見えたんだけど、昨日のほうがきれいだったなって。ほら、昨日の月は黄色だったから」

「昨日のほうがお前に似てた」と笑みもなく告げられた言葉には俺を喜ばせようという考えなど一切無く、ただその思いが真実として先生の中にあり、それは俺が知りたいとねだったから言葉として現れただけだ。しかし、それを理解していることと、喜ばないでいることは結びつかない。
 もしまだどくどくと鳴る心臓を持っていたのなら、今痛いくらいだっただろう。
 先生はふわふわとした口調で「そしたら今度はあのおれんじが玉子の黄身に見えてきて、早くうどんが食いたくなった」と言葉を続けられ、先生にしては長く喋ってくださったそのことにも喜びを覚える。
 今日はあんまりにも喜ばしいことばかりで、可愛らしいことばかりを言う先生に胸が一杯になり「俺が月なら先生は太陽です」と言えば「ハゲ弄りか? 太陽みたいに眩しいってか?」とまたもじっとりとした目を向けられてしまった。
「誤解です」と一言告げて、胸を一杯にする気持ちのまま、はらはらと心に降り積もる想いを口にする。

「先生は俺の暗く閉ざされた人生を照らしてくださいました。4年ぶりに照らされた世界はなにやら以前より明るく、鮮やかに見えます。先生のそばで過ごす日々はまるで陽だまりの中にいるようにあたたかくて、冷たい機械の身体がようやく、芯からあたたまったように思うんです。だから、サイタマ先生は、ほんとうに俺の太陽なんです」

 少し長くなってしまっただろうか、世辞だと跳ね除けられるだろうか、という一抹の不安は、先生の表情を見て杞憂へと変わる。
 ぱちりと開かれた目は珍しいことにわかりやすく驚きを表していて、あまり光を映さない小さな黒目は、見開かれた分だけ輝いて見えた。
 それからだんだんと口元を綻ばせた先生は普段より数倍柔らかな空気を纏っていて、それだけで俺はまたも、笑ってもらえたことや、珍しいその様子に、じんわりと胸をあたたかくする。
 綺麗だとか、美しい以外の言葉で先生を飾るのなら、神にも等しいと呼ぶべきだろうと微笑を受け取りながら思った。

「そんなこと言われたのはじめてだ」

 優しい声が聴覚を気持ち良く刺激する。
 それは喜ばしいことです。と心で言葉を返した。
 俺と同じように先生に劣情を向けるものが過去にでも存在するのはとても許しがたい。
 その感情は上手く隠し、口では「これが俺の本心です」と言った。

「ジェノスは純粋すぎてたまにくすぐったいな」

 笑い声など上げない先生はそれでも確かに笑っていて、あたたかさを飛び越えたところにある焼けつく想いに、じりじりとコアを焦がした。
 俺は、決して純粋などではない。先生が気付いていないだけで、心は不埒な欲に染まっている。しかし先生が純粋だと呼んでくれれば、汚い、と持て余してしまいそうな欲も「愛」と呼んで輝かせることが出来た。

「ちょっとうれしかったから、ジェノスのうどんには玉子ふたつ入れてやる」

 その柔らかい表情が、途方もなく愛しい。受け入れるように溜め息を吐く様子もお気に入りだったが、一番好きなのはこの顔だった。
「玉子ふたつ」と差し出された、子供を相手にするような褒美の提案にまでこんこんと湧く愛しさを感じる。
 もしかしたら先生は、ほんの少しだけ言い表した、暗闇ばかりのかつての俺を、不憫に思ってくださったのかも知れない。だから話が長いと怒りもせず、世辞だと言葉を跳ね除けることもしなかったのかもしれない。
――だとしても、先生が俺の言葉を受け入れてくれたのならそれは幸福だ。
――だとしたら、先生は俺の心を汲んでくださるとても優しいお方だ。
 二つの考えはどちらも俺を嬉々とさせるもので、先生と同じように俺の表情も自然と柔らかさを増す。「ありがとうございます」と言葉を告げても、綻んだ唇はゆるやかな三日月を象ったまま、その柔らかさを失わなかった。
 俺を見たまま「へえ」と声を上げた先生は、月をそう褒めたのと同じように、淡々とした声で「きれいな顔」と一言仰る。
 不意打ちのように掛けられる言葉には、やはり含みなどはない。
「先生こそ」と言えば今度こそ「世辞はやめろよ」と言われてしまった。
 しかし、先生こそ綺麗なのは俺にとって覆しようのない事実だ。
 俺の欲が含まれた言葉を深読みすることもなく、ただはにかんで受け入れる無垢な心は、綺麗と呼ぶのが相応しい、白より澄んだ色を持っている。
 したっていいのに、気を持たれていると考える素振りも見せない。なにを聞かされても、こだわりなく受け入れて、なにを言っても、まごつくことがない。先生はそうやって、あるがまま、綺麗な生き物であり続けている。
 ずっと昔、幼い頃に聞かせてもらった寝物語、子供だけがいけるユートピアへと導く星は確か右から二番目にあったはずだ。こんなに綺麗で、最近の子供なんかよりうんと純粋な先生なら、大人になった今だってそこに行けるんじゃないかと、フと思う。しかし、その星が先生を見つけてきらきらと輝きを増すより先に、先生を捉えたのは俺の瞳だ。それが月みたく、静かに、ジっと、見張るように、先生のそばで輝いている。
 そんなふざけた思考も、たちまちふわりとほどけて消え「あー、腹減ったぁ」と夜空を仰ぐ先生の軽やかな歩調と足並みを合わせて歩く。

「もうすぐですよ」
「そのもうすぐが長く感じるんだよな〜」
「今のペースですと、あと9分40秒で家に着きます」
「えらく正確だな」
「サイボーグならこれくらい出来て当たり前です」
「勝手に全サイボーグのハードルを上げてやるなよ」
「ハードルが上がった分機能を上げれば済む話ですよ」

 当然のことを口にしたつもりが、些か困ったように「お前って結構容赦ないよね」と言われてしまった。けれどそれは否定する必要もない。

「俺の優しさは先生に使う分しかないんです」

 これも至極当然のことだった。
 先生がちらりとだけ俺を見て、その目はまた帰路と夜空を映す。

「なんかそれ、勘違いしそうな台詞だな。俺じゃなかったら」

 向けた好意は勘違いにすら成れない。
 この反応もきっと世間からしたら「鈍い」の一言で片付けられてしまうのだろうが、俺にはそれがどうしても、無垢でいたいけなものに見えた。先生だけに、と言葉を向けた時、なにかこれまでとは違う反応が貰えないか、期待しなかったと言えば嘘になる。だからといって、叶わなかったそれにがっかりする気持ちもない。寧ろ、そうであってこそサイタマ先生なのだ。
 それでも今回は、ほんのちょっとだけ、紡がれる言葉の先端に触れたとき、意識されたかと思って心が跳ねた。
 俺の自惚れを、自惚れのまま終わらせて、差し出す好意を純粋さの檻に柔らかく押し込めてしまう先生。俺はそれを焦れったいと憎らしく思うこともなく、ただただ一心に愛しく感じるばかりだった。
 堪らずに、息を漏らしてふふと笑うと「なに笑ってんの?」と怪訝そうに問われる。それをなんでもないですと誤魔化していれば、家までの距離はあと6分8秒。
 見上げた空に浮かぶ月は最初に見た時より幾らか高くなっていて、その分オレンジが薄くなっていた。
 今夜の月も直、黄色に色づく。
「昨日のほうがきれいだったなって」
「お前に似てた」
 さっきの先生の言葉を頭の中で反芻した。
 夜空に浮かんだ月を綺麗だと気づいてみせる純粋さそこ綺麗だと先生は知らない。先生が綺麗だと言い表すこの瞳が、欲を孕んで先生ばかりを熱心に映していることも、今はまだ知り得ない。
 同じ歩調を分かち合いながら、もうほんの少し動けば触れそうな距離に俺と先生はいる。いつか、二人の間に残ったこの距離を越えて触れる時がきっと来る。必ず来る。その時、先生の顔を見たこともない表情に、それはそれは鮮やかに変えるには、なんと言葉を伝えればいいのだろう。勘違いだと逃れる術もなく意識を向けてもらうには、言葉だけじゃ足りないだろうか。
 そんなことを考えていると、目はやはり先生を捉え、心はますます囚われた。
「さっきからなに笑ってんの?」と訝しがられても、唇は真面目な一文字を引けず、淡い三日月を象るばかりなのだ。
 


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