掠めて揺らいで蔑んだ



「そもそもです」

――と、些か怒った口調で投げ出された言葉に、サイタマは漫画に向けた顔はそのままにして、視線だけをちらりと遣った。
 流した視線の先にいる声の主は、機械の眦をつんと吊り上げていて、ぐっと眉を寄せた表情もまた、声音と同様にカチリと硬い。
「そもそもです」と声を上げる前、ジェノスは一体なにを話してたんだっけか、と思考を巡らせたサイタマは、しかしすぐに考えるのを止めてしまった。
 答えを出すより先に、ジェノスが口を開いたからである。

「俺は恋にうつつを抜かすなんてのは全くの無駄と思うのです。俺には倒さねばならない敵がいて、それはこの世に蔓延る悪だとかそう漠然としたものではなく、奴には名前がありまして、それも通称ではあるのですが、とにかく、先生もご存じの通りかと思いますが、俺の仇には狂サイボーグと云う忌々しい名前があります。名前をつけると愛着が湧くと言いますが、逆もまた然りのようで、存在が明確である分憎しみは鮮やかに盛りまるで褪せることがないのです。熱く燃え続ける憎しみの前では恋と云うあやふやで淡い概念は灰と化します。もし、仮に、灰にならずこの胸のどこかに恋と名付くものが小さく鎮座するとして、しかし俺には、それがひどく無意味に思えて仕方がないのです。恋だとか愛の果てには、一体なにがあるのでしょう。愛がなくても子は成せます。恋がなくても誰も死なないでしょう。それなのに人は愚かにも恋に溺れ時には自分の感情さえ見失う、身勝手になる、弱くなる。恋はいいものと聞きますが、一体これらのどこによいところがあるというのです。煩わしいばかりで、俺には恋というものが、どうすればいいのか、皆目見当がつかず、それはもう、どうしたらいいのかなんてのは、指の先ほどもわからないんです。まず恋を指の先に準えて測ればいいのかもわかりませんし、そういったことを先生が教えてくださるのなら或いは、いや、いえ、それより俺は先生から強さを学びたいですしその方が有意義で自分のため延いては世界のためにもなります、から、それで俺はまがりなりにもプロのヒーローですので、考えるべきは愛や、恋や、自分のことより、世界のことかと思います。付け加えるのであれば復讐という行為は、必ずしも自分のことだけを考えたものではなく、両親、故郷、狂サイボーグに怯える全てのものを考え、思って、執行する正義なのです。だからこそ、背負っている思いの分、何がなんでもやり遂げなくてはならなず、そういう訳で俺は一刻も早く、悪しき狂サイボーグを討つ強さを手にしなくてはなりません。ですので、先に述べた通り、俺は恋などしません。理解できないものに時間を裂くのは、やはり全くの無駄ですから」

 とつとつと語り、言葉に現れる句読点の狭間に、押し留めきれない感情を見せ、時折勢いづきながらも言い切ったジェノスは、吊り上げた眦も、硬い口角も、一度としてゆるませることなく、喋り終えてもなお、じぃっと師を見つめていた。
 意見を乞うような眼差しに晒されたサイタマは、この長話のきっかけが数十分前の自分の、何気ない言葉にあったことをようやく思い出し、かといって、なにか特別な言葉を呉れてやるでもなく、いつものように淡々と「そっか」とだけ返した。その呆気ない返答は、ジェノスの話をよく聞いていなかったからであり、また細切れに理解できる言葉を聞くところ、どうでもいい内容と判断したからでもある。
 己の弟子が恋をしようが、しまいが、どちらでもよかった。
 ただ、ジェノスの元には毎度毎度あんまりにも大量のファンレターが届く。今回も例に漏れることなく、正午に届いた協会からの小包には「鬼サイボーグ様」「ジェノス様」と丸文字やハートのシールで飾られたジェノス宛のファンレターがびっしりと詰まっていた。小包の中身を探ることもなく、開いた箱の表面をさっと確認したジェノスは「端に寄せておきます」と居間の片隅にそれを放置し、家事を終え、買い出しを終え、夕食を終え、日課のノートも付け終わったあと、漸くその中から一通のファンレターを取り出したのだった。
 サイタマは自分の元にファンレターが送られてくることには期待せず、小包には興味を持たなかった。届かないファンレターの代わりに、キングから借りた漫画を読み、ふっと気まぐれにジェノスを視界に入れる。そうやって暫くの間、部屋には紙が擦れる音ばかりがあった。
 サイタマが三冊目の漫画を読み始めて間もなく、何の気なしにジェノスを見たとき、一体何通目になるのか、ジェノスはまだ手紙を相手にしていた。目を向けるたび、ふんわりとしたピンク色の封筒やら便箋が視界に入り、その都度面の整った弟子が愛されていることを目の当たりにするものだから、サイタマは協会から届いたファンレターを開いては傍らに積み上げていく姿に「モテモテだな。ジェノスもいつかファンの子と付き合ったりすんのかな」と声を掛けた 。
 サイタマが言った言葉はそれだけだった。そこには「そうすればいい」というお節介もなく「そうしたらさびしい」という身勝手さもない。それは言葉通りの疑問にもならない一人言だった。
 だが、ジェノスはカサカサと規則正しく立てていた紙の音を途絶えさせ、小さな沈黙を生んだ後、その一人言を掬い上げた。「ファンと付き合うだなんて、そんなまさか」と言葉に幽かな驚きを乗せてから、口火を切り、師が嫌う長話を始めたのだ。
 その頃すでに、サイタマはキングから借りた漫画を読む作業を再開していて、ジェノスのことは意識になかった。その中でつらつらと列べられる言葉は、意識に及ばない音として長らくサイタマの鼓膜を平坦に震わせていたが「そもそもです」と不意に強まった語気により、ようやく漫画にだけ向かっていたその意識を、再び奪い取ることができたのだった。

 サイタマからの「そっか」という小さな呟きを得たジェノスは「ええ」と一度言い、それから念を押すように、一層硬い声で「俺は、強くなりたいのです」と言った。それ以外にはなにも欲しくない、と言うように。
 ガラス玉のようにきらきらと光る金色の瞳は、サイタマを射るように見つめている。
 サイタマは、輝くばかりで温度のないその眼差しを受け取り、己の単調な視線と混ぜ返した。

――俺は、強くなりたいのです。

 硬く、重く吐き出された言葉は、切羽詰まったような響きを持ち、それを耳に入れたサイタマは、出会って間もない頃のジェノスをフと思い出していた。
 強さ一つを貪欲に求め、悪を挫き、そればかりで、他には何にも無く、何にも知らないジェノス。
 最初の頃、ジェノスは確かこんな顔ばかりをしていたっけ。
 復讐だけが生き方であるジェノスの姿は、サイタマの目には時として危うげに見えた。しかし、その鋼鉄の身体に見合わない張り詰めた危うさは、サイタマが特別何かしなくても、共に暮らし、食事をして、買い物に行き、たまに手合わせをする、そういう日常のなかで次第に薄れていったのだ。きつかった目元も、最近ではやわらかいばかりだったというのに。
 日々の生活の中で得たやわらかさは今、はじめから存在しなかったかのように、影さえ見て取れず、サイタマはどうしたもんかと考える。
 ジェノスの持つ恋愛論はどうでもいい。しかし己の言葉が引き金で何かを思い詰める羽目になったのなら、知らん顔して放っておくのはいけないように思えた。
 いつもだったら「そっか」以外の言葉は掛けない。今、例外を作り出すのは、サイタマのなけなしの優しさだった。それは無視しておくのが決まり悪い、切羽詰まったお前の話をちゃんと聞いているよ、というポーズに過ぎないものであったが、どれだけ体裁に巻かれていようとも、それがサイタマの持つ優しさであることにも、間違いはなかった。
 サイタマは考えることもなく言葉を紡ぐ。

「愛とか恋とか、ぶっちゃけ強さの秘密だとか、秘訣だとかも、俺にもよくわかんないけどさ」

 視線を外しただけだった漫画からようやく顔も逸らして、僅かに体勢を整えてからジェノスの方を向いた。
 向き合う先にある金色の瞳は、いつの時もつるりと滑らかでいて、揺れも、逸らしもしないから、感情を読むのは難しい。だが、その瞳が追いかけるのは、いつだってサイタマだけだった。
 熱心に注がれる視線は、けれどサイタマに何かを勘繰らせることもなく、今も、冷々とした光彩を放つガラス玉、という認識をするに留まらせた。
 輝く瞳をぼんやりと見詰め、区切った言葉の残りを繋ぐ。

「それでも、まぁ、俺から得られそうなことがあったらさ、好きに持ってけよ」

 抑揚の無い声が、ジェノスの荒立つ内情を包むように部屋を満たす。
 サイタマにも、六つも年下の弟子を大切に思う気持ちはあった。ジェノスに対して、愛着や、愛情と呼べるものは、ささやかながら抱いている。が、元来の性分から、その愛情はさらさらと薄く流れ、水のように取りとどめがない。それには、色も、形も、熱もなかった。だからジェノスの恋愛論に対しても、同じような熱量を持って、愛がどういうものであるかを語ることが出来ない。そして、師がそういう人間であることは、彼の弟子もよく知っていた。
 知っていたからこそ、サイタマが「そっか」より多く語ったことの珍しさに、ジェノスは即座に気がついた。それは、全く以てらしくない、と思うと同時に、敬愛する師から特別な扱いを受けたように思えて、ゆるみそうになる表情を、努めて平素のものに留めた。
 反応が薄いサイタマが浮かべる小さな感情は、師を盲信するジェノスにとって、それが如何に些細であろうと、気まぐれからきたものであろうと、否応なしに一喜一憂してしまうものだった。そうしてジェノスの感情は、表面上は平静を保てていても、簡単に転がされてしまうのだ。

「ありがとうございます。お許しのまま、今後も先生から多くのことを学ばせていただきます」

 拳をぐっと握りしめた弟子の熱意をなだめるように「ほどほどにな」と言葉を掛ければ即座に「はい」と従順な声が返される。
 ほんの少し前まであった、切羽詰まったような様子は、サイタマが言葉を掛けたことにより、鳴りを潜めて、今はただ、読めない表情の下に、師を崇拝する、熱くたぎる感情を宿していた。
 サイタマは、端から端まで尊敬で彩られたように見える弟子の一挙手一投足に、いっそ感服してしまう、と小さく息を吐き、こんなに熱心なこいつなら、自分でも解明しきれない強さの原因を、解き明かしてしまうかもしれない、とも思った。
 尤もサイタマは、今ある超人的な力はすべてトレーニングの賜物と思っているのだが。
 だから「でも」とこぼした言葉も、いつものように深く考えてなどいない、ぽんと出た思いつきに過ぎなかった。

「なにかわかったことがあったら、教えてくれよ。強さの原因とかさ、俺にもわかんないから」
「ええ。勿論です」
「あと、愛とか恋とかも。いまはわかんなくても、なんだかんだ言って、お前の方が知る望みがあるだろうし」

 ついでのように付け加えられた言葉には、やはり特別な意味などなかった。
 サイタマは本気でそれらを知りたいなどとは思っておらず、きっと日を跨ぐ頃には、自分の言葉のほとんどを忘れていることだろう。
 サイタマの気軽さとは裏腹に、ジェノスは予測のしようがない師の気まぐれな言葉に返事が出来ず、代わりに機械には不必要なゆっくりとした瞬きを一度だけした。
 そうすることで、ともすれば、またも張り詰めそうになる心をなだめるのだ。
 ぱちりと目を閉じて、ゆるりと開く。
 金色の瞳が抱く光彩はひんやりと冷たい。
 開いた瞼の先にいるサイタマの表情も、彷彿として温度がない。
 それを目にして、ジェノスはようやく口を開いた。

「先生のためにも、俺のためにも、先生が如何にしてその強さを手にしたのかは必ず解明してみせましょう。しかし、恋愛の類いは、難しいですね」
「お前、そこばっか頑なだな」
「これが俺ですので」
「頑固者め」
「信念に基づいているんです」

 サイタマと言葉を交わしながら、ジェノスはふつふつと思考を巡らせた。

 俺は、強くなりたくて先生に弟子入りをした。強さにしか興味を示してはいけない、色恋などという浮わついたものには目を向けない。勝手に相手に期待をして、期待通りにならない結果を裏切られたと嘆いたりしない。きれいに磨いた愛の結晶を、打ち砕かれて泣いたりしない。

 会話が途切れると、この話はこれで終わりというように、サイタマの目は漫画の方に向き直った。止まっていたページをペラリと捲る乾いた音だけが、瞬刻部屋を満たす。
 その音を耳に入れ、ジェノスも何通目かになる薄ピンクの封筒の封を切った。
 取り出した便箋にはろくに目も通さず、ジェノスは言い訳するように「先生は偉大なお方だ」と意識の端で呟く。

 先生は、偉大なお方だ。とても強いから、俺には無い強さを持っているから、きらきらと輝いて見える。それに、俺の長話を耳に入れて、言葉を下さった。長い話は嫌いだというのに、薄れたと言う感情に残る優しさを、俺に向けてくださった。やはり先生は偉大だ。あまりにも偉大だ。だから、未熟な俺は、錯覚をするのだ。

 愛と恋を蔑んで、持てる限りの言葉を使い否定を繰り返す彼もその裏側で、冷たい金色に、淡く色づいて映る姿に、そっと実らぬ恋をしていた。
 勝算はない、と諦めとも呼べない見当をつけて、好きだと思うことも許さなかったが、サイタマを見てひきつる心は確かに、恋の痛みを知っていた。
 ページを捲ったサイタマが、小さく笑い声をあげる。
 細めた視界でその光景を映し、好きと浮かび上がりそうになる心を深く沈め、手に持った便箋を薄ピンク色の封筒に仕舞い込み、同じような色をした手紙の山に重ねた。
 体内に取り込んだ空気を、細く吐き出す。
 視界に入れてはジリジリと焦がれてしまうサイタマと、想い合いたいなどとは微塵も思っていない。しかしそれは、愛や恋を蔑んだ言葉が事実だから、という訳ではなかった。
 ピリ、と新しい封筒を開く。
 取り出した2枚の便箋は花柄で、綴られた前後の文章を飛ばし、真んなか辺りに記された「すきです」という、やわらかい文字だけが、視界を掠めた。きゅ、と力の入った指先に、便箋が小さくひしゃげる。
 いとも容易く向けられる好意の言葉に、軽々しいものだと嘲笑うような気持ちと、それ以上の、羨ましさを覚え、忙しなく、それを否定した。
 ジェノスは、心に巣食い、平静を蝕む恋と決別するため「恋などまるで無駄でしかない」という言葉を、いつも、芯から、真実にしたがっていた。ジェノスが一心に望むのは、仰ぎ慕うサイタマからの愛の言葉ではなく、偽りの蔑みを、いつか真実にすること。

 ひしゃげた花柄の便箋を、封筒に戻すこともせず、手紙の山のなかにはらりと捨てた。

 ジェノスは自分の心を想い、こんな風に、簡単に、手放し、捨ててしまえたのなら、と考える。
 恋に対して彼が望むこととは、いつだって、それだけなのだ。







- 8 -

*前次#


戻る


ALICE+