例えば先生がこんなに強くなかったら、助けられるばかりでなくあなたを守ることも出来たのだろうか。
例えば先生のように強くなれたら、隣に立っても俺は恥じずにいられるのか。
例えば先生の強さが民衆に知れたら、知られたら、果たして俺は、孤独になるのだろうか。
先生の貴重な教えや、何気ないように見える日常風景をカリカリとノートに記して、羅列されてゆく文字の量に、俺は誇らしい気持ちを抱く。こんなに素晴らしい人のこんなに多くのことをこんなにも知っているのは俺だけだ。そういう気持ちを多分に含み連ねていた文字は、しかし、不意討ちのように過った「例えば」という思考にくしゃりと押し潰されて、鋭いペン先が「先生は」と書き記した次に在る読点の先を見失う。
頭の中で連ねた「例えば」は時に明るく時に昏く俺の意識を掠めていく。今は少し昏かった。6月の19時、空は深さを秘めた青に暮れていて、ゴーストタウンの闇はその中にひっそりと隠れている。唯一作り物でない脳の端にはそれとよく似た色がこびりついた場所があって、今、そこがざわめくように感じた。
壁に寄りかかった体勢でパチンパチンと足の爪を切っている先生はいつも変わらず彷彿としていてまるで捕らえようがないのに、俺のものになってくださった。その奇跡や幸福を、19時の青で、脳の端で、例えの話で脅かす。
例えば俺が縋がったら先生はそばにいてくれるのだろうか。
ページの半ば、行き止まりのように打たれた読点を見つめて考えるのは中途半端に途切れた文字の続きではなく、先生をきっかけに、或いは俺をきっかけにして築き上げられる、二人のことばかり。
例えば先生が。
例えば俺が。
例えば。
例えば。
例えば先生が、俺を愛さなくなったら俺はからっぽになるのだろうか。
例えば先生が、ずっと一緒にいることを赦してくださったとしても俺は飢えてしまうんだ。
例えば俺が、誰にも二人が見つからないところに行きたいと言ったら先生はついてきてくれるのか。
例えば、
「ジェノス」
「なんでしょう、先生」
先の見えない思考に割って入るやわらかな声に聴覚が心地よく刺激され、コアがそれに見合った反応をする。ほとんど反射で返した返事には尊敬と愛が入り交じっていた。
先生はゴミ箱に切り終えた爪を捨て、たっぷり一呼吸分の間を取ってから「おまえ、急に動かなくなったから壊れたのかと思った」と仰った。
「俺が壊れたときは瞳の光彩が失われますので、この目が光っているうちは問題ありません。ご心配をおかけしました」
「ああ、そう」
あっさりとした返事はいつもであればそこで終わるものである。
けれど、今は違った。
先生の小さな黒目は俺をジッと見つめているが、その視線にはきっと取り立てて意味などない。しかし視線が交わっている以上まだ会話は終わっていないのだ。
「なんか珍しいな。ジェノスもぼーっとすることあるんだ」
「少し考え事をしていたんです」
「考え事?」
「ええ、俺たち二人のことを考えていました」
「ふぅん」
俺の未熟な思考は、いつでも二人のことを考えたがる。
先生が壁につけていた背を浮かせ徐に立ち上がると俺の正面に座り直した。机に腕を投げ出して、少し前のめりの体勢を受け止めたく思う気持ちには、愛だけが詰まっている。
ゆるやかに弧を描いた唇は薄く、俺はその中に隠れている真っ赤な舌も薄いということを知っていた。
淡紅の三日月。真っ黒な瞳。向けられる表情に満ちる愛に気がつくのは、俺もそれを持っているから。
先生が静かに笑うとき、空気はとてもやわらかだ。
「なぁジェノス」
「なんでしょう、先生」
やわらかな空気の中、さっきよりも穏やかに呼び掛けられ、やはり反射のようにそれに応える。
先生の一挙手一投足を見逃したくなくて、もう必要がないのに、惰性のように染み付いたまばたきの動作を意識して止めた。
ちいさく笑みを象る唇は、ゆるゆるとした音を溢す。
「ふたりのことなら、ふたりで考えようぜ。一緒にさ」
ちょこんとちいさく落とされた声のもつ意味を理解して、ぱっと照らされるように明瞭になった思考は、とっぷりとした昏さを秘めた青を薄め、水色になり、それが架空の未来を積み重ねた頭のなかを巡っていく。
幾つも積み上げては終着点を見失っていた「例えばの話」がようやく行き先を見つけ、思いがけず、唇が綻んだ。
「はい、先生」
同意のみを示す言葉に返ってきた微笑はいつもより幾分深いように見える。思考を明るく照らされたことで脳が見える世界を都合よく解釈しているのかもしれないけれど、だとしても、感じている幸せは本物なのだ。
当たり前とも言える先生の提案は、しかし俺には到底思い付かなかったもので、好き合った時、気持ち以外にも共有できるものは案外多いみたいだと身をもって知る。
今「例えば」と切り出したいのはさっきよりも明るくて、やわらかくて、あたたかいもの。
例えば、このままあなたを抱き締めて、気の済むまで甘やかしたいし、甘やかしてほしいと言ったらどうなるだろうか。なんでもない夜は特別になるのか。あたたかいを通り越して、熱くなるのか。答えを持っている先生の笑みは、やはりいつもより穏やかに見えた。
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