04
「ねえ、リンちゃん聞いてる?」
「ねえってば」とソファで隣に座って、ずっとしゃべり続けるなまえにリンは呆れた顔をした。
「聞いてるよ、聞いてるってば……さっきからライカンさんが最高だったって話しかしてないの自覚ある?」
「自覚は、ある。でも、でも本当にサイコーだったの!」
リンは作業台の椅子に腰かける兄──アキラを見た。しかし、アキラはその視線に気づかぬふりをして、携帯を弄っている。何とも薄情な兄である。
ライカンを連れ歩いて数日が経ち、なまえの興奮は収まらなかった。ノックノックでリンに対して長文の感想文を送り付け──それを律儀に読んだリンからの返信は「怪文書を送ってこないで」だった──ライカンから送られたサンダルを見て、夢ではなかったことを実感する。
本来であれば、買い物から映画まで付き添ってもらう予定だったあの日。思わぬハプニングと自身の暴走により、依頼時間の短縮を提案し──もちろん、こちらの都合のため金額は満額払う──受理されたなまえは満面の笑みでライカンに頭を下げた。表向きのキャンセルの理由は「慣れない靴で歩くのは不安だし、欲しいものは購入できたから」である。ライカンに支払いをさせてしまった分のことも考えれば、これがベスト。本音を言えばもっとライカンを堪能したかったが、自身の目的も達成されたなまえは心が満たされていた。
家まで送り届けようとするライカンに「依頼はここまでなので」と跳ねのけたなまえは真直ぐ六分街へと帰宅した。なまえは浮かれていた。今すぐに履いているサンダルを脱いで保存したいくらいには浮かれていた。一時の夢だとはわかっていたが、ここまで人は幸福を感じることができるのか。自分の中でグツグツと沸き立つ衝動を発散したい。誰かにこの話を聞いてほしい。だが、こんな話ができる人間は一人しかいない。その結果が怪文書であった。
「お兄ちゃんからも言ってよ! 怪文書を一日一通送ってくるのはやめてって」
「あはは。なまえさんは本当にライカンさんのことが好きなんだね」
「ちょっと、お兄ちゃん! 自分は送られてこないからってそういうこと言う!」
「いいじゃないか、リン。なまえさんがこんなにはしゃいでるの、猫と戯れてる時くらいなんだし」
アキラは生暖かい目をなまえへ向ける。しかし、そんな視線も何のその。だらしない顔をしたなまえは幸せそうに笑っていた。
「お兄ちゃんにも転送するからね、怪文書」
「僕は遠慮しとくよ」
「遠慮とかじゃないから」
「読んで、毎日」と睨みつけてくるリンにアキラは肩をすくめた。そんな兄妹のやりとりを眺めながらなまえは頬を抑えた。
「もうライカンさんに会えないと思うと悲しいけど、この経験を糧にこれからも頑張る……」
「ほんと……一生に一度と思って、依頼してよかった……」となまえはうっとりと口にする。その言葉に反応したのはリンだった。
「え、なに? 会えないって、どういうこと? 連絡先くらい交換したんだよね……?」
「ん? してないよ」
平然と答えたなまえにリンは「なんで!?」と驚きの声を上げる。
「なんでって、ただの依頼主だったし……その流れで連絡先もらえるわけないよなあって」
変なこと言ったかなあと首を傾げるなまえにアキラは「なまえさんの言うことも一理あるね」と苦笑する。
なまえは勢いで行動をすることがあるが、常識を持った社会人である。真面目で、体裁を気にするタイプの人間だ。ヴィクトリア家政へ依頼するために随分と無茶をしたが、根っこは変わらない。アキラとしてはここまでライカンに対して非常識になれた方が驚きだった。
「あんなことしたのに!?」
「あんなこと……?」
「無茶な依頼方法と、許可なくおさわりしといて!」
「あー……」
訂正もできない点を指摘され、なまえは気まずげに目を逸らした。リンの言うことがもっともであることはなまえとて理解している。嘘だらけの依頼で自身の欲望を満たし、初対面の相手に対してベタベタと許可なく接触した。常識的に考えてもアウトであるし、人として終わっている行動である。そんな非常識な行動をした人間が今更常識を説いてどうする。連絡先の一つや二つ聞いたところで問題ないだろう。そう言われれば、なまえだって「そうかな? そうかも……」とは思う。だが、なまえが口にしたのは紛れもなく本心だった。
ライカンに「連絡先を教えてください」とお願いしたところで丁寧に断られるのは目に見えている。なまえは分かりきった事実で傷つきたくはなかった。だから、その選択を潰したし、もっともらしい理由を用意した。
「だから、だよ。嘘もついたし、あんなことしたし……合わせる顔がないって言うか……会ってどうするんだって言うか」
「なまえ姉……いきなり触ったのは、まあどうかと思うけど。その場で怒られなかったなら、ライカンさんはそんなに気にしてないと思うよ」
「いや、怒らなかったのはお仕事だからだと、」
「あのね、なまえさん。ライカンさんは仕事だとしてもダメなことはダメって言ってくれる人だよ」
兄妹に名前を呼ばれ、なまえは苦い顔をした。なまえのでもでもだって≠ヘ二人には通用しない。「まあ、そうだよね」と流してくれればいいものの、リンとアキラはしっかりとなまえの目を見る。
「でも、そうだね。これからどうしていくかは個人の自由だから、僕たちが口を出すのはおかしいんだけど」
釘を刺したうえで流すアキラのなんと質の悪いことか。なまえが逃げるように足元でポテポテ歩いていたボンプ──イアスを抱き上げた。
「……いいの。いい思い出になったんだから」
「そう。なら、よかった」
「え、えー! よくない! よくなってば!」
「リン、なまえさんが納得してるんだから」
イアスに顔を埋めて動かなくなったなまえを見てアキラは目を伏せた。ビデオ屋として活動しているならどう考えてもおかしい設備──大量に組まれたディスプレイとH.D.Dシステム──を見て見ぬふりをしているなまえだ。ライカンと関わることが自身にどう影響するのかを考えているのかもしれない。
知らないということは悪いことではない。知ろうとしないことはある種の防衛手段であり、知らないからこそできることはある。大人として社会に出ているなまえの自己防衛手段がそうだというなら、それをアキラは否定することができない。その考えがリンとアキラがプロキシではなく、ただのビデオ屋の主人としてなまえに接することができる最大の理由だからだ。
「りんちゃんには、そうだんにのってもらったのに、もうしわけないとはおもってるよ」
「でも、本当なの……満足してるの」と小さい声でイアスを抱きしめるなまえにリンは悲しそうに眉を下げた。できるならなまえの願いを叶えてあげたい。そんな気持ちでリンはなまえの背中を押した。だから、怪文書が送られて来ようと「楽しかったなら何より」と流してきたのである。しかし、なまえの願いはリンが思っていたより短絡的で刹那的だった。
アキラの言った通り、なまえ本人がこう言っている以上こちらがどうすることもできない。頬を膨らませたリンは隣でイアスを締め上げているなまえへ寄りかかる。
「謝って欲しいわけじゃないからね。ただ、なまえ姉とライカンさんが仲良くなったらいいなって思っただけだから」
「確かに。ライカンさんはうちの手伝いもしてくれてるから」
「顔を合わせる機会も多いかもね」と言うアキラになまえは「え? て、手伝い……?」とイアスを拘束する力を緩めた。これは助かったとぴょこぴょこと逃げていくイアスに気づく余裕もなく、なまえはどんどんと血の気が引いていく。どうせ会わないだろうと踏んでいたなまえの考えが真っ向から否定された。会わないから嘘をついて依頼した。会わないから撫でまわした。自分のブレーキを壊してきた理由が間違っていた事実にめまいがする。
「そうだよ。時々、ビデオ屋を手伝ってくれてるんだ」
「え、なまえ姉知らなかったの?」
「し、しらなかった」
首をぶんぶんと横に振る顔面蒼白ななまえにリンとアキラは顔見合わせる。その時、入店を知らせるベルの音がした。
「おっと、お客さんだ」
青ざめたなまえを置いて、アキラは部屋を出ていく。リンはそそくさと出ていった兄を見送り、横で死んだ顔をしたなまえを見た。
「ヤバイ」
「えっと?」
「どうしよう、リンちゃん! 私、もうここに来れなくなっちゃうよ……!」
とうとう頭を抱え始めたなまえにリンは「そんな大げさな」と慰める。てっきりライカンがRandom Playに手伝いへ来ていることをなまえが知っていると思っていたが、そうではなかったことにリンは驚くと同時に納得した。どうせ会わないと思っていたからこそ、なまえは行き当たりばったりな行動をとることができたのだろう。責任感が強いがとことん無責任ななまえにリンは少し呆れた。本当に仕方ないなあ──となまえの背中を擦る。妹分に慰められ、なまえは丸まった背を伸ばした。そして、リンへと向かい合う。
「懺悔します」
先ほどとは違い、凛とした力強い瞳。決意を感じるその視線にリンも姿勢を正した。
「どうぞ、なまえ信徒」
「私は、どうせもう会わないだろうと思って、ライカンさんに無体を働きました……」
「それで?」
「や、やめろと言われないし、いいだろうって思って、その、頭と顎を撫で続けました……」
「知ってる。もう聞いた」
呆れた顔をしたリンになまえは「だから合わせる顔がないの! ないの!」と悲痛な声を上げる。
「盛り上がってるところ申し訳ないんだけど、なまえさん。ちょっとこっちに来れるかい?」
扉からひょいと顔をのぞかせたアキラは今にも泣きだしそうななまえを呼び出す。リンは「今、お姉ちゃんは絶賛引きこもり中だよ」とアキラを窘める。こんな状態のなまえを表に引っ張り出すなんてあんまりだというリンの視線にアキラは笑う。
「なまえさんにお客さん」
「なまえ姉に?」
「そう。だから、ちょっと出てきて欲しいんだ」
ビデオ屋に? と再度問いかけようとしたリンにアキラはにっこりと笑った。それ以上言わなくていいとアイコンタクトを送られた妹は素直に兄に従う。リンはとてもできた妹なのである。
意気消沈のところを呼び出されたなまえは疑問を口にすることもなく、「わかった」とソファから立ち上がった。一体だれが何の用で自分に──と思いつつ、表に顔を出す。そこで、なまえの呼吸は止まった。ヒッと短い悲鳴のような呼吸音が喉から鳴る。
「はい、なまえさんを訪ねてきたお客さん」
「アポイントメントもなく、申し訳ありません」
「気にしないでください。なまえさんが来たら連絡するって約束だったし」
アキラと親し気に会話をするのは、先ほどまで話題に上がっていた人物──ライカンその人であった。ふわふわとした尻尾がゆらゆらと揺れているのを眺めながら、なまえは現実から逃避していた。家に帰って、部屋を掃除して。そうだ。今日はシチューを作ろう。それがいい。脳内で冷蔵庫の中身を思い出しながら本日の献立を組み立てているなまえの後ろからリンが顔を出す。
「あれ、ライカンさんだ! 今日はお手伝いの日じゃないよね」
「僕が呼んだんだ。なまえさんがうちに来たら引き留めておいて欲しいってお願いされててね」
あの日と同様に恭しくお辞儀をするライカンになまえは反射的に礼を返した。悲しき社会人の性である。
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