中学最後の夏休みが終わり、二学期が始まった。
 まだ夏休み気分の残る校内には浮かれたムードが漂っている。これから先の学校行事すべてに『最後の』という枕詞がつくわたしたち三年生はなおさらだ。
 部活に入っていない、または夏で引退したクラスメイトたちは、帰りの会を終えたあとも教室に残ってお喋りしていた。なんとなく帰るタイミングを逃したわたしは、みんなの恋バナを聞き流しながら窓の外を眺めている。

 今年の八月十四日は、真一郎くんの三回忌だった。
 あの事件からちょうど二年が経ったということだ。
 真一郎くんを殺害した少年の少年院送致が決まったのは、事件からひと月後。
 期間は二十四か月。

 つまり、あと二週間足らずで。


「ねえあき、聞いてる?」
「へあっ、何なに!?」
「へあってあんた」

 呆れ顔の友だちに謝ると、クラスメイトの男子がおかしそうに笑った。

「成瀬さんってけっこうぼんやりしてること多いよな。いつも何考えてんの?」
「まあね。最近特にぼんやりちゃんなのよ。夏休みボケか?」

 この中学校には、わたしが『東京卍會』の関係者と親しいことを知る人はほとんどいない。
 転校してきてそのまま留年した圭ちゃんの事情も知られていない。みんなにとって場地圭介とは、よくわからないけど留年したガリ勉眼鏡、ということになっているのだ。
 だから曖昧に笑っておいた。
 マイキーや圭ちゃんたちの、あまりにも複雑で物騒な事情を説明することはできない。

「ごめん、なんの話だったっけ」
「あきって好きな男の子いるの? って話!」
「好きな男の子かぁ‥‥‥」

 一番に思い浮かぶのは、“彼氏ということになっている”人の顔だけど。
 無意識に斜め上を見やったわたしに、友だちが飛びかかってきた。

「あっ今誰か思い浮かべたな。誰だ、吐け!」
「え、成瀬さん好きなヤツいるの。誰?」

 一気に盛り上がったクラスメイトたちは好き勝手に騒ぎはじめる。

「もしかしてあの人じゃないの、ホラ留年した場地くん! 仲いいじゃん」
「ああ、あのビン底眼鏡の口悪い人? この間あきちゃんが腹痛で死んでたとき、凄い顔で教室襲撃してきたもんね」
「あれびびったな。なんだっけ『ウッセェ黙って連行されろ殺すぞクソあき』だったっけ」
「先生たちケンカかと思って超焦って止めに来たもんね」
「結局保健室に連れてってくれたんでしょ。優しいじゃん彼氏じゃん。口悪いけど」

「えっ待って勝手に圭ちゃん彼氏にしないで! 違う、それだけは本当に違うから!!」


第一章
星の剥片の墓標、04




 しつこいクラスメイトたちの追及にぐったりしつつ学校を脱出し、佐野家を訪ねると、エマちゃんはまだ帰ってきていなかった。
 おじいちゃんに「万次郎なら部屋におるぞ」と指さされたので母屋には上がらず、お庭を横切って、小さな倉庫のドアをノックする。
 真一郎くんの生前、バイク置き場として使っていた倉庫だ。マイキーが受け継ぎ、真一郎くんの家具や自分のベッドを運び込んで自室として使用している。

「マイキー。あきだけど」

 返事は、少しの間なかった。

「‥‥‥万次郎」

 もう一度、滅多と口にしなくなった彼の下の名前で呼びかける。
 子どもの頃は「マイケルのマイキー」と自称していた。言い出した当初は、日本人なのにマイケルって何それ、と思っていたのだけれど、本名が「万次郎」だからか今ではすっかり違和感なく定着している。
 マイキーと名乗りはじめた本当の意味に気づけたのは、随分あとのことだったっけ。

 ぼんやりと昔のことを思い出していると、倉庫のなかで人の動く気配がした。
 寝てたのかな。

 がちゃりとドアが開いて、私服姿のマイキーが顔を出した。髪の毛も結っていない。下ろした前髪の隙間から、どこか浮世離れした眸が覗く。
 やっぱり学校にも行ってなかったか。もともとそこまで熱心に登校する人じゃないけど。

「あき」
「入ってもいい?」
「いーよ。学校は?」
「もうとっくに終わったよ」

 真一郎くんはマイキーやわたしより十も年上だった。
 彼の家具をほとんどそのまま貰ったマイキーの部屋は、中学三年生にしてはどこか武骨で大人っぽい。

 東京卍會総長“無敵のマイキー”。
 真一郎くんの弟で、エマちゃんのお兄さんのマイキー。
 実は子どもっぽいマイキー。
 でも大人な部屋で寝起きするマイキー。
 何もかもがちぐはぐで、それが彼の魅力でもあるのだけれど、同時に不安になることもある。彼の世界は、魂は、いつかばらばらに千切れてしまいはしないだろうか。

 ソファにぽすんと沈み込むと、マイキーも隣で胡坐をかいた。
 何を喋るでもなく、ただお互いの呼吸に耳を澄ます。


 圭ちゃんはわたしに、マイキーの傍から離れるな、と言った。
 平和な顔してろ、と。


 深い闇に片足を突っ込むマイキーを、完全に連れ戻す方法を、わたしたちはもう長いこと捜し続けている。


 傍らでマイキーを見つめ続けている“二年前のわたし”は、包丁を下ろしたまま。
 大丈夫。マイキーは間違えない。“そちら側”には、行かせない。


 そのことを横目に確認したわたしは、一旦家に寄って持ってきた紙袋をマイキーの膝の上に置いた。

「昨日、お母さんとバナナマフィン焼いたの。初めてだからちょっと失敗しちゃったけど、見た目やばくないやつだけ持ってきた」
「へー。スゴイじゃん」
「エマちゃんたちのぶんはさっきおじいちゃんに渡したから、一緒に食べよ?」

 マイキーの無表情に、ほんの僅か、笑みが戻った。
 同じ場所に立って戦う仲間たちに較べれば、できることはあまりにも少ない。
 圭ちゃんの言う通り、傍を離れないことくらいだ。

「ん。‥‥‥飲み物持ってくる」
「わたしも行くー」
「待ってていーのに」
「いいの。わたしも行く」
「あきはひっつき虫だなぁ」

 ニッと笑った彼の後ろにひっついて倉庫を出る。
 母屋で飲み物を入れて部屋に戻ると、テレビをつけて、ドラマの再放送を眺めながらマフィンを食べた。変なものは入れなかったし、ちゃんと分量通りの材料で作ったから、可もなく不可もなくといった感じだ。
 マイキーはどら焼きやたい焼きみたいな餡子系のほうがお好みなのだけれど、手作りはちょっと難しい。いつか挑戦したいな。

「おいしーじゃん」
「そう? まあ本の通りに作ったから、こんなもんだよね」
「千冬とか好きそーだ」
「圭ちゃんと千冬くんにはあげてない。失敗と味見でそんなに残らなかったの‥‥‥だから内緒ね?」

 すると彼は無言で目尻を下げて、こてりと肩によりかかってきた。
 ちょっとドキッとしながらも、平静を装って飲み物に手を伸ばす。肩や首筋に触れるマイキーの金髪が少しくすぐったかった。

 好きな男の子、か。
 一番近いところにいて、大事に思っている男の子がマイキーなのは間違いない。わたしもそこそこ普通の女子だから、こうして触れられたらそれなりに意識もする。でも今日話したみんなみたいに、「かっこいい!」とか「つきあいたい!」とか、一般的な恋心みたいなものを抱いたことはないなぁ。
 マイキーは当然無敵でかっこいいし、わざわざつきあわなくてももう十分特別扱いしてくれているし。
 ていうかもう“彼女ということになっている”わけだし。

 それに、今のわたしたちは恋愛できゃーきゃー騒いでいる場合じゃない。

「あき」
「ん?」
「‥‥‥“あきに顔向けできないことはしちゃいけねー” ‥‥‥」

 それは、わたしたちの始まりの日、武蔵神社で圭ちゃんが言ったこと。
 独白のようにつぶやいたマイキーの髪をぽんぽんと撫でてみた。


 ね。
 顔向けできないこと、したいって思ってるんだよね。
 だからわざわざ口に出して、言葉にして、自分に言い聞かせてくれてるんだよね。しちゃいけない、って。わたしたちのために、呪文みたいに。



 真一郎くんを殺したカズトラくんを殺そうとする自分と、戦っているんだよね。



「あきオレ、いまどんな顔してる?」
「うーん」

 覗き込んだ彼の表情は、一見、本当にいつも通りに見える。
 世界のすべてを見通したような、それでいて世界の何もかもに興味がないような、ふしぎな眸。楽しいことを見つけてきらきら光るときも、仲間のために怒るときも、総長としてみんなの前に立つときも、どこかに翳を抱いた、深淵を覗く双眸。


 でも、そうだなぁ。
 苦しそうに見えるかなぁ‥‥‥。


「‥‥‥“マフィンおいしかったからまた焼いて”って顔してる」


 ぷにっと頬っぺたを引っ張ると、マイキーは力が抜けたように笑った。

「なんだそれ。あきに聞いたオレがバカだった!」
「あははっ」


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