「あきちゃん、帰りましょ」
「うん!」

 春から通い始めている進学塾の授業を終えて、小夜子ちゃんと一緒に席を立つ。
 松崎小夜子ちゃんは、同じ小学校出身の幼なじみだ。
 もともとわたしたちの自宅は、二つの中学校のちょうど中間にあり、入学先を選べる位置にあった。小学校の卒業前、小夜子ちゃんと二人で、マイキーたちとは別の中学に進むことに決めたのだけれど、入学直前に彼女の家庭の事情が変わってしまった。
 ご家族が念願のマイホームを購入して団地を引っ越したのだ。住所が変わってしまったので中学も選べなくなり、小夜子ちゃんは現在マイキーと同じ中学校に通っている。
 とはいえ生徒数が多く、クラスが違うのであまり顔を合わせないそうだ。

「そういえば、昨日久しぶりに佐野くんを学校で見かけたわ。相変わらずみたいね」
「あはは、うん‥‥‥いつも通り、なのかな」

 先日、ふたりで過ごした時間のことを思い返す。
 普段のマイキーは子どもっぽくて考えたこともすぐ顔に出るのだけれど、“総長”モードに切り替わっていると寡黙で無表情だ。中学校でどういうふうに過ごしているのかはよくわからない。ただ少なくとも、昔みたいなやんちゃ坊主のガキ大将ではないだろう。
 教室を出て階段を下りていると、彼女は言いづらそうに口を開いた。

「‥‥‥夏休み中、色々あったんですって?」
「噂まわってる?」
「ケンカに刃物を持ち出して逮捕者が出たとか、重傷者が出たとか、そんな感じ」
「うん、概ね合ってる」
「なんだか物騒。‥‥‥ああ、でも、逮捕者は初めてじゃなかったわね」

 付け加えられた一言にちょっとだけ、苦笑を零す。
 思っていたより上手な笑顔にはならなかったみたいで、彼女は「嫌な言い方してごめんなさい」と目を伏せた。

「でも私、不安。あきちゃんが危険な目に遭わないか心配よ」
「あはは、そこのところは大丈夫。今回の件もほとんど置いてけぼりで、気づいたら全部終わってたから」
「そう。‥‥‥ならいいけど」

 塾の建物から出たところで、見慣れた後ろ姿を見つけた。
 歩道と車道を分ける低い柵に腰掛けて、流れゆく車のほうをぼんやりと眺めている背中。微風にそよぐ金髪の襟足。体は小さいのに、ポケットに突っ込まれた手や尊大な座り方がやけにさまになっている。
 後ろ姿だけでもなんとなく近寄りがたい迫力があって、わたしたちと同じように塾を出てきた生徒たちは、ちらちらと恐れるように視線を送っていた。


 たまにマイキーが、わたしたちとは違う時間の流れを生きている不思議な獣に見えることがある。
 今の彼はその獣。
 柵の向こう側にいるからだろうか。


第一章
星の剥片の墓標、05




「マイキー」

 けっして大きな声ではなかったのに、彼はすぐに振り返った。

「どうしたの、こんなところで」
「来ちゃった」

「まるで一人暮らしの彼氏をアポなしで訪ねた彼女みたいね」と小夜子ちゃんがぼやく。するとさも今気づきましたと言わんばかりのマイキーが「あれ松崎、いたの」と目を丸くした。

「何かあったの?」
「べつに。なんとなくあきの顔が見たくなっただけ」

 ‥‥‥へんなマイキー。

 塾がある日はたいてい帰りが夜遅くなるから、松崎家と成瀬家の親が交代で送り迎えしてくれる。幸いというべきか、今日は小夜子ちゃんのお母さんに送ってもらう予定の日だ。
 振り返ると、彼女は肩を竦めた。

「じゃ、一緒に帰ろ。自転車で来たの?」

 マイキーは感情の読めない眸でわたしを見上げると、しばらく沈黙したのちにコクンとうなずく。そして腰掛けていた柵を乗り越えて“こちら側”に戻ってきた。
 興味津々でわたしたちを見る塾生の視線を振り切るように、マイキーが乗ってきた自転車の前カゴにカバンを入れる。荷台に横座りして、思いきって後ろから抱きついた。
 お腹にしっかり腕を回して、ぎゅうっと力を籠める。

「あき。苦しい」
「男の子デショ。ガマンしなさい」
「ハーイ」

 一連の様子を眺めていた小夜子ちゃんは、マイキーがペダルに足を掛けたと同時に「佐野くん」と声を上げた。
 マイキーはゆっくりと顔を向ける。

「‥‥‥なに」
「二年前に言ったこと、憶えているわよね」

 二年前?
 確かにマイキーと小夜子ちゃんは同じ中学校で、一年生のときはクラスも一緒だったらしいけど、二人が会話するなんて驚きだ。小学校のときは二人とも、わたしを介して互いの顔と名前を知っている程度の関わりしかなかったはず。

「憶えてるよ」

 マイキーはそれだけつぶやいた。

「‥‥‥なんの話?」
「フフ。あきちゃんには内緒の話よ」
「む」

 小夜子ちゃんもマイキーも、それぞれ男女で一番仲のいい友達といっても過言ではないのに、わたしをほっぽって内緒話とは。
 ちょっとだけ寂しくなって唇を尖らせると、小夜子ちゃんは「おやすみなさい」と笑って手を振った。




 体育祭が終わってからというもの、すっかり空気は秋のにおいを孕んでいる。
 どこかうら淋しい秋風を掻き分けて、マイキーの漕ぐ自転車は、のんびりゆったり夜の渋谷を駆けた。
 寄り道もせず、安全運転で、成瀬家への最短ルートをきこきこ進んでいく。何か喋るわけでもないし、多分この様子だと事件が起きたわけでもない。本当に、単純に、“あきの顔が見たくなっただけ”なのだ。

 へんな人。
 それってふつう、彼女に言うセリフだ。

「マイキー」
「うん?」
「げんき?」
「元気元気」
「痛いとこない?」
「ナイです」
「ほんとー? 熱もない?」
「さっきから何を心配してんの」
「だって、『あきの顔が見たくなった』とか言うから、熱でも出て心細くなってるのかと」
「心細いのはあきのほうじゃん。力いっぱい抱きついちゃってー、ダイタン」

 それは、だって、柵の向こうで待っていたマイキーがなんだかそのまま遠くへ行ってしまいそうだったから。

「じゃあ、わたしが寂しいってことにしておいてあげるから」

 だけどそんなこと正直に言えないから、彼の体に回した腕に力を入れた。マイキーが苦しくても構わない。痛いくらい抱きついてやる。
 その痛みで、“こちら側”に帰ってきてくれるなら。


「勝手にどっか行かないで、そばにいてね」


 キキ――、と高い音を立てて自転車が止まった。
「んぎゃっ」予期せぬ衝撃に鼻を思いっきりぶつける。バランスを崩したので慌てて地面に足をつくと、マイキーは恨めしげな顔をしてこっちを振り向いた。
 あれ、何かまずいこと言ったかな。

「なんでそういうこと言っちゃうかな」
「ご、ゴメンなさい‥‥‥」
「‥‥‥いーけど。あきの寂しんぼ」
「なによう」
「ハイちゃんと掴まって、帰るよ」

 ぷいっと前を向いたマイキーに再び掴まり、動き始めた自転車の荷台でバランスをとる。


「‥‥‥“あなたのせいであきちゃんに何かあったら”、“あなたを殺す” ‥‥‥」


 何事かぼそぼそとつぶやいたのが聞こえたけれど、なんと喋ったのかまではわからなかった。独り言なのだろう。「なにか言った?」と訊ねたけれど、マイキーは前を向いたまま。
 別に、とかなんでもない、とさえ答えないので、むっとして抱きついた腕に力を込める。
 マイキーはフッと肩を揺らして笑った。

「効かねーし」
「もーっ、どいつもこいつも筋肉ダルマなんだから!」


前へ - 表紙 - 次へ