わたしより三つ年上で、マイキーのところの真一郎くんとは比べものにならないほどのクズ兄貴だった。
中学時代ダサい不良にかぶれ、反抗期を拗らせ、不良仲間とつるんで深夜まで帰ってこなかったし帰ってくれば傷だらけ。イライラすると物に当たって怒鳴り散らす。高校に上がると少し性質の悪いグループに入ったらしく素行は悪化した。
父や母に手を上げるようになった。
東京卍會が結成されるよりも前のこと。
忘れもしない、四月二十五日、深夜。
兄が万引きで補導されたと自宅に連絡が入った。どうやらスーパーで、お酒や煙草を手に取ったまま店を出たらしい。
両親と兄は帰宅してすぐリビングに籠もった。わたしは部屋に引っ込んでいたけれど、しばらくして兄が暴れ回る音が聞こえてきたので、慌てて一階に下りていった。
俺に指図すんじゃねぇ、殺すぞ。狂ったように叫んだ兄に、母は蹴られて肋骨を折り、父は顔面を殴られ鼻骨を折った。堪らず飛び出したわたしは頬を裏拳で殴られた。兄は家中のものを引っくり返し、まるで自分が不当に檻に入れられて死を待つ野生動物であるかのような形相で、殺してやる、と怒鳴りながら飛び出していった。
兄は特別体が大きいわけではなかったし、マイキーほど強いわけではなかったけど、成瀬家の誰より暴力に慣れているのは事実だった。子どもの頃、佐野道場に通っていたこともある。
対して、父も母も暴力には縁がない。
兄に殺される。
このままでは、父と母が。
兄が家を飛び出したあと、深夜の救急外来を受診して治療を受ける両親を眺めながら、わたしは決意した。
──お兄ちゃんを殺さなきゃ。
Over The Rainbow
2003/04/26
朝、六時。
じりりりりり、と枕元で鳴った目覚まし時計を止めて体を起こす。お父さんが中学入学のお祝いで買ってくれた時計だけど、ベルの音がやかましくて心臓に悪いから少し苦手だ。
顔を洗って、朝ごはんを食べて、制服に着替えて身だしなみを整える。
鏡を見ると、右頬にはグロテスクな青痣が浮き上がっていた。
昨夜兄に裏拳で殴られた痕だ。さすがに目立つしマスクでもしていくべきだろうかと考えていると、七時を回った。
リビングの固定電話の受話器を上げ、ぴ、ぽ、ぱ、と押し慣れた番号を入れる。
『もしもーし‥‥‥』
「おはよー、マイキー。朝ですよ」
『うーん‥‥‥』
「朝だよ、朝。起、き、てっ」
『‥‥‥あきなんかあった?』
どきりとした。
自分ではいつも通りにしているつもりだったけど、マイキーはたまに、理屈が通らないほど勘が鋭いことがある。
「なにもないよ。どうして?」
『んー、ならいーけど』
「じゃ、切るね。二度寝したらだめだよ」
『ウン』
いつもなら、マイキーが通話を切るのを待ってからわたしも受話器を下ろす。
なのに今日はいつまで経ってもつながったままだ。
「‥‥‥マイキー」
『なに』
──たすけて。
「早く切りなよ。遅刻するよ」
『‥‥‥んー、そだね。じゃーね』
──マイキー、たすけて。
これ以上つないでいたら余計なことを喋りそうだった。ぼろを出す前にこちらから切った。
深く、深く、胸の奥底に燻ぶる恐怖を残らず排出するように息を吐く。
振り切るように家を出て、その日一日、誰とも喋らないようにして過ごした。
‥‥‥お兄ちゃんを殺さなきゃ、お父さんもお母さんもわたしもいずれ殺される。
通学カバンの紐を両手で握りしめて、爪先をじっと見つめながら帰路を辿る。
‥‥‥今日、お兄ちゃんが帰ってきたら殺そう。
台所の包丁で刺そう。
今日帰ってこなければ明日、殺そう。
明日帰ってこなければ、あさって。いつでもいい。次に顔を見たときが、最後。じゃないと殺される。あの兄は、殺してやる、と叫びながら出ていったのだから。
「あき」
抑揚の薄い声に顔を上げる。
気づけばわたしの家の前に、立ち塞がるようにして四人がいた。
三ツ谷くん。堅ちゃん。圭ちゃん。そして堅ちゃんの自転車の荷台に、ちょこんと座ったマイキー。
これっぽっちも興味なさげな、それでいて世界の全部を見透かしたような双眸で、じっとわたしを見つめている。
怒ったような表情の圭ちゃんがずかずか近寄ってきて、わたしのマスクを無理やり剥いだ。
雑な手つきで肩を抱かれてマイキーの目の前に突き出される。
「言えよあき。その頬誰に殴られた」
「‥‥‥‥」
あ。
マイキーが、怒ってる。
「オレらの仲間殴ったクズ野郎はどこのどいつだって訊いてんだ」
彼の殺気がピリっと肌を殺いでいく。
思わず後退ろうとするわたしを圭ちゃんの腕が止めた。
相手は高校生だ。いくらマイキーたちが強くてもまだ中学生になったばかり。兄が最近つきあっているグループが、総勢何人いるのかも、どんな連中かもわからない。そんなやつらに、大事な友だちをぶつけるわけにはいかない。
わたしが兄を殺せば家族の揉め事で済む話。
わたしひとりが捕まれば済む話なのだから。
「こ、転んだ」
「あき」
「仲間じゃないもん。わたしケンカできないし不良でもないもん」
「あきがどう思ってるかなんて関係ねーよ」
「マイキーのっ、そういう強引でオレ様なところ嫌い‥‥‥!」
「関係ねーよあきはオレのもんだろ!!」
ひ、と悲鳴のような嗚咽が喉から洩れる。
怒っているマイキーが怖かったわけじゃない。兄の恐怖に怯えたわけでもない。
ぼろぼろと零れた涙に息ができなくなったのは、「あきはオレのもんだ」──その傍若無人な一言があまりにもあたたかく、乱暴で、やさしくて、無茶苦茶で、そのくせ世界で一番心強かったから。
ぴょこ、と荷台から飛び降りたマイキーがぺたぺたと頬を撫でてくる。
「バカだなー。すぐそばにこんな強いヤツらがいるのに、なんで使おうとしねぇの」
「っ、だ、だって、わたしが、どうにかしなきゃ」
「いやどうやってだよ! 昇段試験で相手殴れなくて大泣きしてたのはどこのどいつだバァカ!」
圭ちゃんの暴露に後ろの二人が噴きだした。堅ちゃんが「あきちゃんらしいわ」と肩を竦めると、三ツ谷くんも「なんか想像つく」と微笑む。
マイキーはヨシヨシとわたしの頭を撫でながら、で、と首を傾げた。
「誰。あき泣かしたの」
ここで兄の名を出せば、彼らはわたしのために高校生にケンカを売ってしまう。
「こ、高校生だよ」
「そんなの関係ねーよ」
即座に否定したのは圭ちゃんだった。もしかしたらこの時点で、相手が誰だか彼には想像できていたのかもしれない。
「何人いるかも、わかんな‥‥‥」
「あき本当は助けてほしかったんだろ。止めてほしかったんだろ、誰かに。オマエの考えてることくらい筒抜けなんだよ、ナメんな」
「ちが‥‥‥」
「助けてって言えよ。相手が高校生だろうが何人いようが、武器持ってようがゾクだろうが関係ねえ」
わたしの肩を抱く手に力を込めて、まるで自分が殴られたみたいに痛そうな顔をする。
「ケンカできなくても女でも! オマエは仲間だろうが!」
圭ちゃんが吠える。
視界は涙でぐにゃぐにゃに歪んでいたけれど、彼が至極真剣な顔でわたしを案じてくれていることなんて見なくてもわかった。
「ぅ、‥‥‥す、けて」
「聞こえねーぞ泣き虫!」
「たすけて、──たすけて‥‥‥!」
「ああ! 最初っからそう言えばいーんだよ!」
色々なものから解放されたわたしが大泣きしながら呟いた「おにいちゃんが」という言葉を、辛うじて聞き取ってくれたのも、やっぱり圭ちゃんだった。
その後、彼らは兄の所属するグループがアジトにしている廃工場に突撃した。
中学校上がりたての彼らにコテンパンに伸され、グループは壊滅、マイキーと圭ちゃんに寄って集ってボコボコにされた兄は家を出て姿を消した。
生憎と訃報は入っていないから死んではいまい。
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2021/11/28、突撃のメンバーを修正しました。