朝、六時。
 ぺぺぺぺぺぺ、と枕元で鳴ったカエルの目覚ましを止めて体を起こす。
 二年前のお誕生日に、ドラケンくんと三ツ谷くんとパーちんが三人でプレゼントしてくれた目覚まし時計だ。間抜けなベルの音がお気に入り。

 顔を洗って、朝ご飯を食べて、制服に着替えて身だしなみを整える。
 のんびり準備していたら七時を回ったので、リビングの固定電話の受話器を取った。ぴ、ぽ、ぱ、と押し慣れた番号を入れて通話がつながるのを待ちながら、片手に持ったブラシで髪を梳かす。

『‥‥‥もしもーし』
「おはよう、マイキー。朝ですよ」
『うーん‥‥‥』

 マイキーは寝起きが超絶悪い。不機嫌なわけではないのだけれど、覚醒するまでにものすごく時間がかかるのだ。
 小学校の頃はわたしや圭ちゃんが毎日迎えに行っていた。中学に上がってからはドラケンくんが迎えに行ってくれるが、モーニングコールだけはいつまでもわたしの当番になっている。

「ねえ。朝ですよ!!」
『わかったよー起きるって‥‥‥』
「本当に? 切るからね? 二度寝したらだめだよ」
『はーい』

 本当に大丈夫かなぁ。毎日のことだけど心配だ。
 まあ、エマちゃんが朝ご飯をつくって待っているわけだし、ドラケンくんいるし、他校のわたしが気にしても仕方がないか。
 洗面所で髪の毛を結び、歯磨きをする。
 リビングで星座占いを見てから、七時半を過ぎたところで家を出た。


第二章
強く優しく美しく、01




 しばらく歩いたところにある団地の入り口にはガラの悪い二人が待っていた。
 団地からは他にも同じ中学校の生徒が出てくるけれど、みんなちょっとだけ距離を開けて通り過ぎていく。ガリ勉モードの圭ちゃんはともかく、千冬くんは入学初日から三年生をぶっ飛ばしたことで、悪い意味で有名になったからだ。

「おはよう、二人とも」
「‥‥‥‥」
「おはようございます、あきちゃん!」

 長髪をぺたっと撫でつけてうなじで一つにまとめたうえ、ビン底伊達メガネまでかけた圭ちゃんは、その外見の勤勉さとは裏腹にヤンキー丸出しの仕草で歩きだす。
 あいさつが返ってこないのはいつものことだ。
 いつものことだけど、いつもよりほんの少しだけ表情が硬い。
 九月に入ってからはずっとそうだから、わたしはきっちり制服を着こんだその腕をぽんと撫でた。

「ぺーやん、弐番隊に移動するようになったんだって?」
「聞いたのか」
「うん。昨日」

 夜遅くに東卍の集会を終えたあと、うちに寄ったマイキーから聞いた話だ。

「パーちんのいない参番隊をぺーやんに率いていけっていうのは難しいし、そのほうがよかったよね。ドラケンくんを襲ったぺーやんが隊長に昇格するよりは、降格扱いで移動したほうが処分も見た目にわかりやすい。三ツ谷くんのところなら安心だしね」
「‥‥‥‥」
「圭ちゃん?」
「‥‥‥オウ」

 なんだか上の空みたい。
 男の子の考えることなんて昔っからよくわからなかったけれど、二年前の夏を境に、彼らはふと知らない大人の男の人みたいな表情を見せるようになった。

 まだ目線の近いマイキーはともかく、圭ちゃんは背も伸びて、首筋も掌もごつごつして、なんだか変な感じ。

「圭ちゃん大丈夫? お腹でも痛いの?」
「ハ?」
「あれ、違うの。じゃあ寝坊して朝ご飯食べ損ねたとか? どうせ遅くまでゲームしてたんでしょ‥‥‥いたっ」

 デコピンが飛んできた。

 もともと圭ちゃんは中学校ではそんなに賑やかなタイプじゃない。そして、考えていることを口に出すのが上手じゃない。だから口より先に手が出る。
 なんでもかんでも相談してほしいとまでは言わないけど、一人で突っ走って無茶しそうで心配だ。




 今日も一日のんびりと授業を受けて、何事もなく帰りの会を終えた。
 東卍に何事もない間は友達と寄り道したりもするのだけれど、八・三抗争以降はメンバーの誰かの同行が必須になってしまっている。愛美愛主残党の動きというよりは、パーちんのお友達の彼女さんや家族がひどい目に遭ったのが、マイキーたちのなかでまだ引っ掛かっているみたいだ。

「成瀬あきいますかー」

 ガラッと勢いよくドアを開けたのは圭ちゃんだった。
 すっかりうちのクラスに来慣れている圭ちゃんは、気安い感じでずかずか教室に入ってきて「帰ンぞ」とわたしのカバンを人質に奪っていった。
 当の本人は手ブラだ。全部置き勉しているらしい。

「ちょっと、わたしのカバン」
「今日は用事があっからついてこい」
「なにそれ、聞いてないよー」
「ウッセェ」

 慌ててあとを追いかけると、学校を出た圭ちゃんはすたこら歩いて市街地のほうに向かっていく。
 近場で馴染みの喫茶店に入り、窓際の席を陣取って、そこでようやくわたしのカバンを返してくれた。

「用事ってお茶?」
「ハナシ」

 千冬くんも呼ばずに二人きりで内緒のお話なんて珍しい。
 席に着くや否やビン底伊達メガネを外し、ひっつめていた髪を下ろして掻きまわすと、いつもの圭ちゃんが戻ってきた。

「愛美愛主のなかの反長内派が東卍の傘下に降ることになったのは聞いたか」
「うん。パーちんのお友達に対する仕打ちとか、今までのやり方が気に入らない、って人たちがいたんだよね?」

 事件後にマイキーから聞かされた八・三抗争の裏側は、わたしの想像以上に込み入っていた。
 新宿を拠点としていた愛美愛主はもともと、総長の長内派と反長内派に割れていた。パーちんとのいざこざがあって長内が入院、総長代理がついたものの、東卍を潰すための内部抗争を企てた結果八・三抗争で東卍に敗れた。概要で言えばこれだけだ。
 だけど東京卍會は、パーちんの逮捕への対応からくる分裂を利用され、ドラケンくんが重傷を負い、メンバーに数名の除名が出た。参番隊は隊長が逮捕され、副隊長は愛美愛主と手を組んだ責をとり弐番隊預かりへ。
 あまりにも引っ掻き回されすぎたから、すっきり勝った感じではない。

 マイキーも事件直後、お見舞いの行き帰りには難しい顔をしていた。

「参番隊の新隊長にはその反長内派が就くかもしれねぇ」
「え‥‥‥元愛美愛主が、いきなり隊長ってこと?」
「そうだ」

 わたしの表情を見て、圭ちゃんは目を伏せた。

「東卍の各隊はいま二十人前後。そこに元愛美愛主が五十人合流する」
「‥‥‥多い、ね。理屈でいえば確かにそのほうが統率しやすいのかもしれないけど」

 六人で始まった東卍だった。
『旗持ち』から参番隊隊長になり、ずっとバリバリの武闘派として先陣を切っていたパーちんの参番隊。もちろん多少は参番隊のかたちが変わることも覚悟していた。


 でも──それは、あまりにも。


「なんか、最近血腥い事件が続いてて、怖い」
「‥‥‥‥」
「前はこんな、チーム同士の抗争で人が刺されることなんて、なかったのに」

 ‥‥‥マイキー。
 ぺーやんの異動のことは話してくれたのに、参番隊がどうなるかは教えてくれなかった。まだマイキー自身も躊躇いがあるということなのか。

「とにかく、しばらくはうろうろすんな。アイツら何考えてんだかわかんねーからな」
「‥‥‥うん」
「反対派だったっつっても、親襲ったり彼女レイプしたり、ナイフ持ち出してドラケン殺そうとしたような連中の仲間だ。仲間以外信用すんな。古参以外のメンバーには近寄んな。マイキーに言われてんだろうけど、集会もしばらくは顔出すなよ」

 圭ちゃんの忠告にこくんとうなずきながら、グラスについた水滴を指先で拭う。

 なんか、ヤダな。
 マイキーの目指す不良の時代って、そういう卑劣で残酷なこととは無縁の、あつくてキラキラしたかっこいい時代だったはずだ。
 マイキーたちは凶器なんて使わない。ケンカ相手に拳は揮っても、相手の大切な人や一般人を理不尽な暴力で傷つけたりしない。


 不純物が混ざった東卍が、濁ってしまいはしないだろうか。


「あき」
「‥‥‥はい」
「オマエはマイキーの傍にいろよ」

 窓の外を見やりながらそう呟いた圭ちゃんの、つっぱねたような冷たい声。
 緩んだネクタイからのぞく喉元。
 目の前にいる人が急に知らない男の人に見えて、わたしは慌ててテーブルの上でゆるく握られた彼の手を掴んだ。

「圭ちゃんも必要だよ」
「あ?」
「マイキーには圭ちゃんも必要」
「‥‥‥サムいこと言ってんじゃねーよ」

 ダルそうな顔をした圭ちゃんは、おもむろに制服のポッケから携帯を取り出した。
 わたしの手を振り払わないまま千冬くんに電話をかけている。
 あまりにも気にされないものだから、わたしはそのままなんとなく圭ちゃんの手をにぎにぎしてみた。さすが東卍特攻隊、「ケンカ上等!」てな感じの拳だ。
 そういえば男の子たちの手なんてまじまじ見たことなかったな、なんて調子に乗って指を伸ばしたりしていたら、鬱陶しそうに額をぺしっと叩かれた。

「さっきから何やってんだおめーは」
「ガリ勉の仮面かぶってるけど、やっぱり手は誤魔化せないよね。見る人が見たら一発でわかるよ、ヤンキーの手だよ」
「オマエは手もチビだな」
「いやフツーですけど」

 どうやら千冬くんを呼び出したらしい。パチンと携帯を閉じて、小さく息を吐きながら窓の外へ視線をやる。

「‥‥‥カズトラくんの出所、お迎えに行ったの?」

 無視された。
 行ったから答えないのか、行っていないという否定なのか。表情を変えないまますとんと沈黙している圭ちゃんの横顔に嘆息する。答えるつもりがないらしい。

「カズトラくん、わたしのこと嫌いだったよね。元気かどうか確かめたいけど、会わないほうがいいかなぁ」
「‥‥‥ンなことねーよ」
「でも、苛々はしてたと思う。わたしもカズトラくんのことは少し怖かった」

 わたしがみんなの輪に入ると、どうしてもつきあいの長い圭ちゃんがフォローに来てくれるから、カズトラくんはそれが気に入らないみたいだった。
 こういうのは、ちくちくした感情を向けられる側じゃないと気づけない。

「嵐にならないといいね」
「‥‥‥だからマイキーの傍にいろっつってんだろ」
「うん。止める自信はないけど頑張る」

 圭ちゃんが繰り返し傍にいろと言うのは、わたしが危険だからマイキーに守ってもらえという意味ではない。
 カズトラくんの件に限って言えば、わたしはマイキーを“こちら側”に思い留まらせるために、傍にいなければならないのだ。

 圭ちゃんは残っていた飲み物を一気に飲み干すと、お財布から五百円玉を取り出してテーブルに置いた。おつりが出ちゃうから、千冬くんのぶんも含まれていると思う。

「千冬が来っからそれまで出るなよ」
「圭ちゃんは?」
「用事」

 またそれか。
 まあ圭ちゃんの“用事”なんて、東卍関係か内緒の呼び出し(という名のケンカ)に決まっている。席を立った後ろ姿に「また明日ね」と声をかけると、足を止めてちょっとだけ振り返った。

「‥‥‥そういやオマエこの間マイキーにマフィンやったろ」
「エッなんで知ってんの」
「すげームカつく顔で自慢された」
「内緒って言ったのに。‥‥‥違うんだよ、失敗と味見で全然個数残らなかったからとりあえず佐野家に持って行ったの。また焼くから、今度はみんなで食べようね!」

 わざわざ話題にするってことは、さては食べたかったんだな。
 なんだか圭ちゃんが可愛く思えて顔が緩んでしまった。すると彼もほんの少し、普段鋭い目つきを和らげる。

「そのうちな」

 あれ、と思ったときには圭ちゃんは店を出ていた。
 ドアベルがからんからんと乾いた音を立てて、店員さんが「ありがとうございましたー」と高い声を上げる。

 いつもだったら「いらねーよ」とか「バーカ」とか憎まれ口を叩く場面なのに。
 えらく素直だったなぁ。


「圭ちゃん‥‥‥?」



前へ - 表紙 - 次へ