抗争の数日後、まだ怪我の痕の残る千冬くんはわたしの家を訪ねて、深々と頭を下げた。
場地さんを守れませんでした、と。
その爪先にぽたぽたと雫が落ちるのを、わたしは見つめることしかできなかった。
かけがえのないひとを喪って、それでも繰り返す朝と夜に絶望しながら、ぼろぼろの心と体を引き摺って会いに来てくれたのは明らかだった。
「さいごに、あきちゃんに、“あんま泣くなって言っといて”って」
「‥‥‥‥」
「“約束破ってゴメンな”って‥‥‥」
千冬くんは震えながら、圭ちゃんの最後の言葉を伝えてくれた。
圭ちゃんは、信頼できる彼の腕のなかで笑って逝ったらしい。
カズトラくんに刺されて重傷を負いながらも暴れまわり、最後まで東卍を想い、愛し、カズトラくんとマイキーのために自分でお腹を刺した。
事情を聴いたって、何がなんだかわからなかった。
なぜ圭ちゃんが死ななければならなかったのかも。
第二章
幾千億の夜の灯、01
‥‥‥困ったなぁ。
前は登下校が(ガリ勉モードの)圭ちゃんと一緒だったから、こんなにあからさまに絡まれることなんてなかったんだけど。
「だからァ、テメエがマイキーの女だろ? オレらだって女に痛い目見させてぇワケじゃねーのよ。ただちょっとマイキーちゃん誘き出すために捕まってくれっつってるだけダローが!」
東京卍會の名前は渋谷一帯にかなり広く知れ渡っている。
愛美愛主を吸収し、芭流覇羅を傘下に入れ、およそ四五〇人の大所帯に膨れ上がった。
‥‥‥のだが、いかんせんトップがナメられやすい見た目をしているので、こういうイキりまくった残念な高校生に絡まれることは、残念ながらいまだにある。
刈り上げツーブロックと、汚いダウンフロントリーゼント、それから茶色のロン毛の三人組は、黙っているわたしに気をよくして捲し立てた。
「あるいはぁケイタイでちゃちゃっと呼び出してくれてもいーんだぜ?」
「つかマイキーちゃんこんなダサ女はべらせてんのかぁ。芋とは聞いてたけどよ」
「中坊の趣味に文句出してやんなよ。地味子が泣いちゃうぜ」
あーハイハイ地味子地味子。
学校帰りに寄り道したのがいけなかったのかな。
いやでも、今日は圭ちゃんの初七日だからお墓参りはしたかったし。
ちなみに返事をしないのは、いかにも「ヤンキーです」と悪ぶっているこのチンピラが怖いわけではなく、どう答えたものか悩んでいるだけだ。
確かに今日は単独行動をしていて、誰かに助けを求めることもできないけれど、追いかけっこにはそれなりに自信がある。マイキーを呼ぶほどのことでもないかな、と考えているうちに、不良たちは痺れを切らした。
「オイ聞いてんのかよ! カマトトぶってんじゃねぇぞクソアマ!」
「あっ‥‥‥」
リーゼントがわたしの抱えていた花束を払いのける。地面に落ちたそれを拾おうと屈むと、長く伸ばした黒髪を乱暴に引っ掴まれた。
「おいっ! やめろよ!!」
あまり迫力のない怒声が介入してきたのはそのときだった。
金髪をアップフロントにした、ブレザー姿の男の子が立っている。見かけない顔だけど、あんな髪をしているということは彼も一応不良にカウントされるタイプなのかな。
「アァ? 関係ねェだろガキはすっこんでろ」
「女の子に手ぇ上げてんじゃねーよ!! その手放せ!!」
女の子には手を出さない。数ある東卍のルールのうちの一つだ。今どき、自分の身内でもない他人を、こんなふうに助けてくれる不良がいるなんて。
この子マイキーが気に入りそう。
場違いにもそんなことを考えていたわたしは、いかんいかん、と慌てて下半身に力を込めた。
女の子だけに許された『対ヤローの最終兵器』。
ケンカなんてからっきしのわたしに、「本当に誰も助けに来なくていざってときは」と真一郎くんが教えてくれた、数少ない不良の心得のうちの一つ。
いいよね、真一郎くん。
だってもう、いつも助けてくれた圭ちゃんは傍にいないんだもん。
わたしはローファーを履いた右の爪先を真っ直ぐに振り抜き、リーゼントの股間にめり込ませた。
必殺、急所蹴り!!
マイキーやドラケンくんに言ったら「えげつねぇ」とドン引きされたし、マイキーのおじいちゃんには「うむ正解」とうなずかれた攻撃だ。男女問わず股間は急所で、鍛えることもできないうえ、大雑把な攻撃でも当たりやすいから素人にも狙いやすい。
「ぴえっ‥‥‥」
「ギャアアアアこの女やりやがった!! なんて凶悪なことを!!」
「大丈夫かァァァハルくん!!」
不良三人組が悲鳴を上げる。まさかわたしが反撃するなんて思っていなかったらしい。
そのすきに花束を拾い上げ、きびすを返すと、金髪の男の子の手を引っ張った。
「えっ、ちょ、えええっ!?」
「逃げるよ!」
この辺りはわたしの通う中学校の学区内。つまり東卍壱番隊の縄張り、子どもの頃からマイキーたちと走り回った街でもある。庭みたいなものだ。
路地に飛びこみ、じぐざぐに逃げ回りながら、不良たちの声から遠ざかる。
馴染みの喫茶店のドアを開けて、マスターと「ちょっと通り抜けさせて!」「なんだい、また追いかけっこか」そんなやり取りをして裏口を借りた。狭い小路を走り抜けつつ、まだどこか遠くで怒号が響いているのを確認する。
うーん、しつこい。
ゴミ箱を踏み台にしてフェンスを越え、地理に不慣れらしい金髪の彼を待ちながら、わたしは目的地周辺まで駆け抜けた。
追いかけてくる不良たちの声は、聞こえなくなっていた。
「もう大丈夫かな。‥‥‥巻き込んでゴメンね。助けてくれてありがとう」
「い、いやっ、なんか全然、助ける必要なかったような」
「そんなことない。嬉しかったよ」
ぜーはーいっている男の子の息が整うのを待つ間、わたしは少し傷ついてしまった花束の形を直した。
すると、深呼吸した彼が「あの‥‥‥」と話しかけてくる。
「“マイキーの女”って聞こえてつい飛び出しちゃったんですけど‥‥‥。ま、まさか、マイキーくんの彼女さん? なんスか?」
「あれ、マイキーの知り合いなの?」
「ハイ。弐番隊の花垣タケミチっていいます」
「あ〜〜〜」つい大きな声が出てしまった。「タケミっち!」
マイキーが「新しいダチができた〜」と嬉しそうに報告してきたのは、七月上旬のことだった。
以来、マイキーやドラケンくんからよく聞く名前だ。どんなやつかもっと知りたくて中学校に突撃したら怒った彼女にぶたれたとか。愛美愛主とのゴタゴタに巻き込まれて入院したとか。マイキーとドラケンくんのケンカを仲裁してくれたとか、武蔵祭りでキヨマサに刺されたドラケンくんを守ってくれたとか。
東卍を抜けた圭ちゃんを連れ戻せと無茶ぶりされたとか、千冬くんと組んでいたとか。
「みんなから色々と話は聞いてるよ。わたし、成瀬あきっていいます」
「あ、千冬の言ってた“あきちゃん”さん‥‥‥」
「ふふ。千冬くんも“あきちゃん”って呼ぶから、そう呼んで」
タケミっちは「はぁ」とちょっと呑気な返事を寄越して、右手で頭を掻いた。わたしの手のなかの花束に視線を移して、「もしかして」とつぶやく。
「場地くんの‥‥‥?」
「うん、今日ちょうど初七日だからさ。タケミっちも来る?」
彼はこくりとうなずいた。
泣きそうな表情だった。
圭ちゃんは、葬儀当日のうちに納骨された。
午前のうちにおばさんたちが来ていたのか、きれいなお花やおやつがお供えされている。通学カバンの中からお線香とライターを取り出して火をつけると、タケミっちにも何本か渡した。
「あ、ありがとうございます」
香炉に線香を寝かせると、タケミっちと並んで手を合わせる。
葬儀の日ほどの大きな絶望は、もうなかった。
胸にぽかりと空いた大きな穴は穴のまま。それでも繰り返す朝と夜。わたしはもう、ほとんど日常を取り戻してきていた。
それでも気づいたらぼーっとしてしまって、ごはんを食べても味がしなくて、一人でいたら唐突に涙が溢れることもあるけれど。
「タケミっち、あの日、あそこにいたんだよね」
「‥‥‥ハイ」
「ドラケンくんたちにもちょっとだけ聞いてるんだけど、どうだったかな」
辛そうな顔をしている彼に訊くのも残酷だろうかとは思ったけれど、でも教えてほしかった。
「圭ちゃんは、苦しかったかな」
圭ちゃんは笑って逝った。
千冬くんの腕のなかで、マイキーとカズトラくんのために。
話に聞いたそれを何度思い返しても、頭のなかで想像しても、全然うまく輪郭が合わない。刺されたのに暴れまわって、自分でさらにお腹を刺して、いくら圭ちゃんでも痛かったに決まっているのに笑って逝っただなんて、信じられるわけがない。
でも心のどこかで、昔からなに考えてるのかわからなくて、無茶苦茶で無謀だった圭ちゃんらしい、とも思っていた。
「場地くんは、創設メンバーは宝だって言ってました。あきちゃんの名前も」
「‥‥‥そう」
「千冬の腕のなかで、『千冬あきに言っといて』『あんま泣くなって』『約束破ってゴメンって』‥‥‥って、そう言って。千冬がハイってうなずいたら、『ペヤング食いてぇな』って」
「ペヤング、好きだったからね」
「最後に、『ありがとな』って。言ってました」
「そっか」
みんなそう言う。
千冬くんの腕のなかで、笑って、ありがとうって言った、って思い出して泣く。
わたしはその悲しみが羨ましい。
だって──朝起きて、家を出たら、団地の入口でいつもみたいに圭ちゃんと千冬くんが待っているんじゃないかって。
おはようって言ったら眠そうな欠伸が返ってきて。今度こそ留年させられないから、一緒に勉強して。東卍のアジトに寄って。たまに圭ちゃんの部屋に遊びに行って、にゃんこと戯れて。ゲームして、下手くそって罵られて、ブスとかバーカとか憎まれ口を叩かれるから、わたしも圭ちゃんのバーカ、二次方程式できないくせに、って言い返して、叩かれて、叩き返して、ンなへなちょこパンチ効くかって笑われて。
そんな夢を、毎日見る。
合掌をといたあとの掌を見下ろすわたしに、タケミっちはおずおずと声をかけてきた。
「あの‥‥‥場地くんとの、約束って、何かしてたんですか?」
「圭ちゃんとの約束なんて、数えきれないからなぁ。どれのことだろうね?」
最初に千冬くんから聞いたときは本気で、なんの約束だろう、って思ったっけ。
最後にお話した日に「無茶しちゃダメ。約束だよ」って言った。
喫茶店でお話した日に「マフィンみんなで食べようね」って言った。
自転車の後ろに乗ったとき「来年は海とか花火大会とかみんなで行きたいね」って言った。
真一郎くんの事件があった二年前、圭ちゃんはボロボロ泣きながら「裏切ってゴメン」と謝った。彼自身が定めた“法”に顔を背けた。確かに脳裡に浮かんだわたしの平和な顔から眼を逸らしてカズトラくんと一緒にことを起こしたと。
「もう二度と裏切らないから」って、そう言った。
「あきは“法”」
世界がはじまったあの日、あの場所で、彼はそうほほ笑んだ。
「何するときもあきに顔向けできねぇことはやっちゃいけねー」
十一月はまだ始まったばかり、やや冷えた風がお線香の煙を巻き上げる。
供えた花束が揺れた。
遠くのほうから、バイクのエンジン音や子どもの声が響いてくる。
わたしとタケミっちはしばらく無言で、揺れる線香の煙や、お供えや、お花や、つるんとした墓石を、どこともなく眺めていた。
「男の子ってバカ」
「‥‥‥‥」
「死んだら意味ないのにね」
タケミっちは、もう返事もしなかった。なんて返したらいいかわからないのだろう。
初対面の女の嘆きにつきあってくれるだけ、彼は優しい。
もうしわけないけれど、今はひとりになりたくない。
「あいたい」
「‥‥‥あきちゃん」
「あいたい、圭ちゃん‥‥‥」
いつまで経っても泣き虫が治らないわたしは、膝を抱えて肩を震わせた。
困ったような手つきでタケミっちが背中を撫でてくれる。
遠慮がちで、でも精いっぱいわたしを気遣って、圭ちゃんを悼んでくれるその掌の優しさが痛かった。